沖縄人民党合流50年⑤ たたかい継ぐ反戦地主
「母と一緒に畑でイモ掘りをしていた時だったか、そこに突然、叔母がやってきて。8歳年上のいとこが『撃たれた』と。米兵がジープに乗って追い回し、後ろから照明弾で狙撃したというのです。米軍は住民を人間扱いしていなかった」
平安山(へんざん)良尚さん(62)=沖縄県伊江村=が小学6年の時、重傷を負って手にギプスを巻いた、いとこの姿を覚えています。当時、沖縄は日本に復帰していたにもかかわらず、日本政府は裁判権を放棄。米軍から何の補償もなかったといいます。
「乞食行進」行う
沖縄本島北部の本部半島から北西約9キロにある伊江島。島民の半数が犠牲になった悲惨な沖縄戦で米軍は、日本軍が建設しながら自ら破壊した飛行場を復旧。戦後、「伊江島補助飛行場」として射爆撃演習などを行う基地としました。
1953年7月、米軍は真謝(まじゃ)、西崎両区に演習用地として土地を接収すると通告しました。翌年から基地建設を始め、立ち退きを強要しますが、両区の住民は拒否。反対運動に立ち上がります。55年3月には、武装した米兵約300人が上陸。真謝区ではブルドーザーで住民を家から追い出して畑や家屋を破壊し、焼き払う蛮行を働きました。
人々は暴虐を受けてもなおたたかいを続けます。非暴力による抵抗を訴え、「沖縄のガンジー」と呼ばれた阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんを先頭に沖縄本島に渡り、伊江島の窮状を訴える「乞食(こじき)行進」に取り組みました。
これが多くの県民の憤激を呼び、56年の「島ぐるみ闘争」につながる導火線になったとされます。平安山さんの両親は阿波根さんとともに、土地を守るたたかいに参加した反戦地主でした。
米軍への訴えが記された団結道場の壁の前で、平安山良尚さん=沖縄県伊江村
土地の強制接収反対を訴え、「琉球政府」に陳情に訪れた伊江島の人々=那覇市(那覇市歴史博物館提供)
「命を育む場所」
基地のすぐそばには、島民で団結してたたかうための教育の場として団結道場がつくられます。幼いころから母に連れられ、団結道場を建設するにあたっての集会など、たたかいの場面に接したという平安山さん。そのためか、「自然と活動が身にしみついていった」と語ります。
母が日本共産党員だった平安山さんは、高校を卒業してすぐの18歳で入党。30代半ばの時には両親たちのたたかいを引き継ぐ上で反戦地主になりました。
かつては伊江島で米軍に土地を奪われた人の多くは反戦地主でしたが、国の切り崩しもあり、今では契約を拒否する人はわずかになりました。しかし平安山さんには譲れない思いがあるといいます。「土地というのは命を育む場所であって、命を奪う訓練をするところではない。誰かが戦争を起こすのは権力を持つ政治家どうしだと言っていました。共産党員になったのも、政治を変えなければよくならないと思ったからです。基地のフェンスの中にとられた土地を返してくれと訴え続けます」(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年11月7日付掲載
1953年7月、米軍は伊江島の真謝(まじゃ)、西崎両区に演習用地として土地を接収すると通告。翌年から基地建設を始め、立ち退きを強要しますが、両区の住民は拒否。反対運動に立ち上がります。55年3月には、武装した米兵約300人が上陸。真謝区ではブルドーザーで住民を家から追い出して畑や家屋を破壊し、焼き払う蛮行。
「沖縄のガンジー」と呼ばれた阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんを先頭に沖縄本島に渡り、伊江島の窮状を訴える「乞食(こじき)行進」に。
これが多くの県民の憤激を呼び、56年の「島ぐるみ闘争」につながる導火線に。
「母と一緒に畑でイモ掘りをしていた時だったか、そこに突然、叔母がやってきて。8歳年上のいとこが『撃たれた』と。米兵がジープに乗って追い回し、後ろから照明弾で狙撃したというのです。米軍は住民を人間扱いしていなかった」
平安山(へんざん)良尚さん(62)=沖縄県伊江村=が小学6年の時、重傷を負って手にギプスを巻いた、いとこの姿を覚えています。当時、沖縄は日本に復帰していたにもかかわらず、日本政府は裁判権を放棄。米軍から何の補償もなかったといいます。
「乞食行進」行う
沖縄本島北部の本部半島から北西約9キロにある伊江島。島民の半数が犠牲になった悲惨な沖縄戦で米軍は、日本軍が建設しながら自ら破壊した飛行場を復旧。戦後、「伊江島補助飛行場」として射爆撃演習などを行う基地としました。
1953年7月、米軍は真謝(まじゃ)、西崎両区に演習用地として土地を接収すると通告しました。翌年から基地建設を始め、立ち退きを強要しますが、両区の住民は拒否。反対運動に立ち上がります。55年3月には、武装した米兵約300人が上陸。真謝区ではブルドーザーで住民を家から追い出して畑や家屋を破壊し、焼き払う蛮行を働きました。
人々は暴虐を受けてもなおたたかいを続けます。非暴力による抵抗を訴え、「沖縄のガンジー」と呼ばれた阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんを先頭に沖縄本島に渡り、伊江島の窮状を訴える「乞食(こじき)行進」に取り組みました。
これが多くの県民の憤激を呼び、56年の「島ぐるみ闘争」につながる導火線になったとされます。平安山さんの両親は阿波根さんとともに、土地を守るたたかいに参加した反戦地主でした。
米軍への訴えが記された団結道場の壁の前で、平安山良尚さん=沖縄県伊江村
土地の強制接収反対を訴え、「琉球政府」に陳情に訪れた伊江島の人々=那覇市(那覇市歴史博物館提供)
「命を育む場所」
基地のすぐそばには、島民で団結してたたかうための教育の場として団結道場がつくられます。幼いころから母に連れられ、団結道場を建設するにあたっての集会など、たたかいの場面に接したという平安山さん。そのためか、「自然と活動が身にしみついていった」と語ります。
母が日本共産党員だった平安山さんは、高校を卒業してすぐの18歳で入党。30代半ばの時には両親たちのたたかいを引き継ぐ上で反戦地主になりました。
かつては伊江島で米軍に土地を奪われた人の多くは反戦地主でしたが、国の切り崩しもあり、今では契約を拒否する人はわずかになりました。しかし平安山さんには譲れない思いがあるといいます。「土地というのは命を育む場所であって、命を奪う訓練をするところではない。誰かが戦争を起こすのは権力を持つ政治家どうしだと言っていました。共産党員になったのも、政治を変えなければよくならないと思ったからです。基地のフェンスの中にとられた土地を返してくれと訴え続けます」(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年11月7日付掲載
1953年7月、米軍は伊江島の真謝(まじゃ)、西崎両区に演習用地として土地を接収すると通告。翌年から基地建設を始め、立ち退きを強要しますが、両区の住民は拒否。反対運動に立ち上がります。55年3月には、武装した米兵約300人が上陸。真謝区ではブルドーザーで住民を家から追い出して畑や家屋を破壊し、焼き払う蛮行。
「沖縄のガンジー」と呼ばれた阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんを先頭に沖縄本島に渡り、伊江島の窮状を訴える「乞食(こじき)行進」に。
これが多くの県民の憤激を呼び、56年の「島ぐるみ闘争」につながる導火線に。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます