軍拡と財政金融危機③ 国民は「タケノコ生活」
群馬大学名誉教授 山田博文さん
自民党の国防部会は、軍事費増額の財源に「防衛国債」を検討しているようです。
歴史的に軍事費調達と国債制度は密接な関係を持ってきました。軍事費調達が国王や権力者の借金や私債だと、資金の貸し手はたびたび踏み倒されてきました。そこで16世紀ごろから、税収を担保にし、永久機関とみなされる議会の議決を通して発行される国債によって軍事費が調達されるようになりました。
「致富の主源泉」
国王や政権が変わっても国家の債権者である国債投資家の利益(国債利子や元本の受け取り、売買差益)は持続するからです。しかも、国債は将来の税収の先取り消費なので、国民の反発に直面する増税を避けつつ巨額の軍事費を一挙に調達できるからです。国家の債権者になる大資本や富裕層にとっては、「国家が負債に陥ることは、むしろ直接の利益…致富の主源泉」(マルクス)になりました。
戦前日本の軍事費調達は、日露戦争期ではロンドン、ニューヨークで外債を発行し、海外から軍事費を調達しました。日本は遅れて発達した資本主義経済国のために、国内貯蓄が貧弱だったからです。その後の満州事変・日中戦争・太平洋戦争期では、欧米と敵対したので外債の発行は不可能になりました。また国内貯蓄も貧弱のため、日本銀行に直接国債を引き受けさせ、日銀から軍事費が調達されました。(図)
1932年に始まった国債の日銀引き受けは「窮余の一策」であり、かつ「新機軸」(当時の日銀副総裁・深井英五)でした。日銀引き受けに依存して青天井で調達できた軍事費は、国家予算全体(一般会計+臨時軍事費特別会計の純計)の85・5%(44年度)に達しました。
膨大な軍事費が民間貯蓄でなく日銀から調達され、財政ルートで軍需企業・従業員・兵士と遺族などへ広範囲に散布されたため、終戦を契機に爆発的なインフレが発生しました。戦後はこれを教訓に財政資金を日銀から調達することが禁止(財政法第4条)されました。
川崎重工が建造した潜水艦「こくりゅう」(海上自衛隊のホームページから)
国民の資産収奪
終戦間際の政府債務は、当時の経済規模の約2・6倍に達し、日本は戦争で「政府債務大国」になりました。問題は、この膨大な政府債務が終戦後どのように解消されたか、です。現代日本の政府債務の対国内総生産(GDP)比も、当時の水準に等しい2・6倍ですから、この問題は歴史的な教訓となるでしょう。
第1に、46年2月、預金封鎖と新円切り替えが同時に実施されました。タンス預金の旧円は使用不能になり、生活のための預金の引き下ろしは世帯主でも月額300円に制限されました。国家によって国民の金融資産が差し押さえられました。
第2に、同年11月、最高税率90%の財産税が国民の金融資産だけでなく、田畑・山林・家屋などの不動産にも課税されました。この莫大(ばくだい)な税収が政府債務の返済に充てられました。「徴税権の行使」という形での国民からの大収奪によって政府債務が「返済」されました。
第3に、インフレによる債務解消です。物価は終戦から4年目には約220倍に上がりました。これで政府債務の金銭的負担は220分の1に減ったことになります。インフレは債務解消の主要な手段ですが、国民は物価暴騰に直撃され、「タケノコ生活」(タケノコの皮を1枚ずつはぐように身の回りの物を売って資金を得る暮らし)を強いられました。
戦争目的であれ、景気対策であれ、財政補てんであれ、増発された国債は政府の背負った借金です。国債の大部分が自国通貨建てで、国内で消化された場合、財政運営が行き詰まると、最後の打開策として国民からの資産収奪が強行される、というのが教訓です。
「国債が国内で消化できていれば大丈夫」ということでは決してありません。大収奪の犠牲になるのは国民だからです。(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2022年10月20日付掲載
1932年に始まった国債の日銀引き受けは「窮余の一策」であり、かつ「新機軸」(当時の日銀副総裁・深井英五)。日銀引き受けに依存して青天井で調達できた軍事費は、国家予算全体(一般会計+臨時軍事費特別会計の純計)の85・5%(44年度)に達し。
戦争目的であれ、景気対策であれ、財政補てんであれ、増発された国債は政府の背負った借金です。国債の大部分が自国通貨建てで、国内で消化された場合、財政運営が行き詰まると、最後の打開策として国民からの資産収奪が強行される、というのが教訓。
それは、決して許してはならない。税金は負担能力に応じて。
群馬大学名誉教授 山田博文さん
自民党の国防部会は、軍事費増額の財源に「防衛国債」を検討しているようです。
歴史的に軍事費調達と国債制度は密接な関係を持ってきました。軍事費調達が国王や権力者の借金や私債だと、資金の貸し手はたびたび踏み倒されてきました。そこで16世紀ごろから、税収を担保にし、永久機関とみなされる議会の議決を通して発行される国債によって軍事費が調達されるようになりました。
「致富の主源泉」
国王や政権が変わっても国家の債権者である国債投資家の利益(国債利子や元本の受け取り、売買差益)は持続するからです。しかも、国債は将来の税収の先取り消費なので、国民の反発に直面する増税を避けつつ巨額の軍事費を一挙に調達できるからです。国家の債権者になる大資本や富裕層にとっては、「国家が負債に陥ることは、むしろ直接の利益…致富の主源泉」(マルクス)になりました。
戦前日本の軍事費調達は、日露戦争期ではロンドン、ニューヨークで外債を発行し、海外から軍事費を調達しました。日本は遅れて発達した資本主義経済国のために、国内貯蓄が貧弱だったからです。その後の満州事変・日中戦争・太平洋戦争期では、欧米と敵対したので外債の発行は不可能になりました。また国内貯蓄も貧弱のため、日本銀行に直接国債を引き受けさせ、日銀から軍事費が調達されました。(図)
1932年に始まった国債の日銀引き受けは「窮余の一策」であり、かつ「新機軸」(当時の日銀副総裁・深井英五)でした。日銀引き受けに依存して青天井で調達できた軍事費は、国家予算全体(一般会計+臨時軍事費特別会計の純計)の85・5%(44年度)に達しました。
膨大な軍事費が民間貯蓄でなく日銀から調達され、財政ルートで軍需企業・従業員・兵士と遺族などへ広範囲に散布されたため、終戦を契機に爆発的なインフレが発生しました。戦後はこれを教訓に財政資金を日銀から調達することが禁止(財政法第4条)されました。
川崎重工が建造した潜水艦「こくりゅう」(海上自衛隊のホームページから)
国民の資産収奪
終戦間際の政府債務は、当時の経済規模の約2・6倍に達し、日本は戦争で「政府債務大国」になりました。問題は、この膨大な政府債務が終戦後どのように解消されたか、です。現代日本の政府債務の対国内総生産(GDP)比も、当時の水準に等しい2・6倍ですから、この問題は歴史的な教訓となるでしょう。
第1に、46年2月、預金封鎖と新円切り替えが同時に実施されました。タンス預金の旧円は使用不能になり、生活のための預金の引き下ろしは世帯主でも月額300円に制限されました。国家によって国民の金融資産が差し押さえられました。
第2に、同年11月、最高税率90%の財産税が国民の金融資産だけでなく、田畑・山林・家屋などの不動産にも課税されました。この莫大(ばくだい)な税収が政府債務の返済に充てられました。「徴税権の行使」という形での国民からの大収奪によって政府債務が「返済」されました。
第3に、インフレによる債務解消です。物価は終戦から4年目には約220倍に上がりました。これで政府債務の金銭的負担は220分の1に減ったことになります。インフレは債務解消の主要な手段ですが、国民は物価暴騰に直撃され、「タケノコ生活」(タケノコの皮を1枚ずつはぐように身の回りの物を売って資金を得る暮らし)を強いられました。
戦争目的であれ、景気対策であれ、財政補てんであれ、増発された国債は政府の背負った借金です。国債の大部分が自国通貨建てで、国内で消化された場合、財政運営が行き詰まると、最後の打開策として国民からの資産収奪が強行される、というのが教訓です。
「国債が国内で消化できていれば大丈夫」ということでは決してありません。大収奪の犠牲になるのは国民だからです。(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2022年10月20日付掲載
1932年に始まった国債の日銀引き受けは「窮余の一策」であり、かつ「新機軸」(当時の日銀副総裁・深井英五)。日銀引き受けに依存して青天井で調達できた軍事費は、国家予算全体(一般会計+臨時軍事費特別会計の純計)の85・5%(44年度)に達し。
戦争目的であれ、景気対策であれ、財政補てんであれ、増発された国債は政府の背負った借金です。国債の大部分が自国通貨建てで、国内で消化された場合、財政運営が行き詰まると、最後の打開策として国民からの資産収奪が強行される、というのが教訓。
それは、決して許してはならない。税金は負担能力に応じて。
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