気候危機の科学③ 挫折で始まった数値予報
真鍋淑郎さんが米国で気候モデルの研究を始めたころ、日本では天気予報に数値予報を取り入れようと格闘が続いていました。
「日本でつくった予報モデルを、米国のコンピューターで半年かけテストしてOKだったのですが、毎日、実際に予報してみたらぜんぜん当たらない…」
気象庁が初めて導入した大型計算機の試験運用が始まった1959年、同庁予報部電子計算室にいた増田善信さんたちは、頭を抱えていました。計算機を使って予想天気図をつくる作業を、4月1日からルーチン(定型業務)にする準備が難航していたのです。
「プログラムにミスはなかったのに、使い物にならない。予報課に持っていくと『こんな物で予報できるか』と言われ、大騒ぎになりましたよ」
結局、当時の長官が大蔵省まで謝りに行って、予報モデルの完成を1年半後に先送りし、その間の数値予報は米国のモデルを使うことで決着。「ホッとしたですよ、そりゃ」
グループ結成
その6年前、戦争中から数値予報のアイデアを温めていた正野重方(しょうの・しげかた)東京大学教授(1911~1969)を中心に有志がグループを結成。そろばんや機械式(手回し)のタイガー計算機の時代、増田さんも、いちはやく超小型のコンピューターを使って台風の進路予報などの研究を進めていました。数値予報のルーチン化は悲願でした。
準備万端だったはずの予報モデルが、なぜうまくいかなかったのか―。増田さんは「米国のテストにもっていった例はすべて低気圧が急速に発達する例だけだったからではないか」と振り返ります。
気象庁が数値予報を開始した当時のコンピューター「IBM704」(気象庁提供)
数値予報が始まった当初の計算機内の高層天気図(1960年2月28日)。観測データを初期値として入力し、時間が進めばどのように変化するのか計算します(気象庁提供)
低気圧が急速に発達することを「傾圧不安定」といいます。当時のモデルは傾圧不安定の予測には好都合でしたが、傾圧不安定はたびたび起こるものではないため、毎日の予報には水蒸気の変化などを正しく入れる必要があったのです。
挫折から1年半後、増田さんたちは苦労の末に、日本独自の予報モデルを完成。自動的に天気図をつくる手法も実現しました。
世界的な足跡
日本の数値予報グループは世界的にも大きな足跡を残しました。
真鍋さんも東大の正野研究室の出身です。増田さんと一緒に日本独自の予報モデルを完成させた荒川昭夫さん(1927~2021)もメンバーで、真鍋さんの地球温暖化研究にも貢献しました。
数値モデルは当初、二つの難題を抱えていました。一つは、数値計算を進めると小さなエラーが積もり積もって、60日ほどで計算が不可能になる問題。もう一つは、積雲や積乱雲の発生に伴う水蒸気や凝結熱の効果をどうやって計算に取り入れるかという問題です。
これらの難題を解決したのが、荒川さんです。それを基礎に、真鍋さんは地球温暖化研究を先に進めたと、増田さんは強調します。
「約100年前に英国の気象学者リチャードソンが初めて試みた数値予報は、複雑な気象現象の多くの効果を計算に取り入れたために、結果的に失敗しました。その後、天気現象にかかわる基本的な効果だけを計算する考え方になって成功しました。しかし最近、単純なもののなかに複雑な現象があり、それをどんどん追加して、現在のような数値予報に発展してきました。まさに、弁証法だと思うのです」
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2022年3月22日付掲載
準備万端だったはずの予報モデルが、なぜうまくいかなかったのか―。増田さんは「米国のテストにもっていった例はすべて低気圧が急速に発達する例だけだったからではないか」と振り返ります。
当時のモデルは傾圧不安定の予測には好都合でしたが、傾圧不安定はたびたび起こるものではないため、毎日の予報には水蒸気の変化などを正しく入れる必要が。
挫折から1年半後、増田さんたちは苦労の末に、日本独自の予報モデルを完成。自動的に天気図をつくる手法も実現。
天気現象にかかわる基本的な効果だけを計算する考え方になって成功。最近、単純なもののなかに複雑な現象があり、それをどんどん追加して、現在のような数値予報に発展してきました。まさに、弁証法だ。
1960年当時に、すでに天気図を自動的に描けていたんですね。
僕が中学生時代だから1970年代。地図に気圧をプロットして天気図を描かせる授業がありました。
同じ気圧同士を結ぶのですが、どこに気圧の谷があるか? 低気圧の中心はどこか? で描き方が変わってきます。
学ばされた記憶があります。
真鍋淑郎さんが米国で気候モデルの研究を始めたころ、日本では天気予報に数値予報を取り入れようと格闘が続いていました。
「日本でつくった予報モデルを、米国のコンピューターで半年かけテストしてOKだったのですが、毎日、実際に予報してみたらぜんぜん当たらない…」
気象庁が初めて導入した大型計算機の試験運用が始まった1959年、同庁予報部電子計算室にいた増田善信さんたちは、頭を抱えていました。計算機を使って予想天気図をつくる作業を、4月1日からルーチン(定型業務)にする準備が難航していたのです。
「プログラムにミスはなかったのに、使い物にならない。予報課に持っていくと『こんな物で予報できるか』と言われ、大騒ぎになりましたよ」
結局、当時の長官が大蔵省まで謝りに行って、予報モデルの完成を1年半後に先送りし、その間の数値予報は米国のモデルを使うことで決着。「ホッとしたですよ、そりゃ」
グループ結成
その6年前、戦争中から数値予報のアイデアを温めていた正野重方(しょうの・しげかた)東京大学教授(1911~1969)を中心に有志がグループを結成。そろばんや機械式(手回し)のタイガー計算機の時代、増田さんも、いちはやく超小型のコンピューターを使って台風の進路予報などの研究を進めていました。数値予報のルーチン化は悲願でした。
準備万端だったはずの予報モデルが、なぜうまくいかなかったのか―。増田さんは「米国のテストにもっていった例はすべて低気圧が急速に発達する例だけだったからではないか」と振り返ります。
気象庁が数値予報を開始した当時のコンピューター「IBM704」(気象庁提供)
数値予報が始まった当初の計算機内の高層天気図(1960年2月28日)。観測データを初期値として入力し、時間が進めばどのように変化するのか計算します(気象庁提供)
低気圧が急速に発達することを「傾圧不安定」といいます。当時のモデルは傾圧不安定の予測には好都合でしたが、傾圧不安定はたびたび起こるものではないため、毎日の予報には水蒸気の変化などを正しく入れる必要があったのです。
挫折から1年半後、増田さんたちは苦労の末に、日本独自の予報モデルを完成。自動的に天気図をつくる手法も実現しました。
世界的な足跡
日本の数値予報グループは世界的にも大きな足跡を残しました。
真鍋さんも東大の正野研究室の出身です。増田さんと一緒に日本独自の予報モデルを完成させた荒川昭夫さん(1927~2021)もメンバーで、真鍋さんの地球温暖化研究にも貢献しました。
数値モデルは当初、二つの難題を抱えていました。一つは、数値計算を進めると小さなエラーが積もり積もって、60日ほどで計算が不可能になる問題。もう一つは、積雲や積乱雲の発生に伴う水蒸気や凝結熱の効果をどうやって計算に取り入れるかという問題です。
これらの難題を解決したのが、荒川さんです。それを基礎に、真鍋さんは地球温暖化研究を先に進めたと、増田さんは強調します。
「約100年前に英国の気象学者リチャードソンが初めて試みた数値予報は、複雑な気象現象の多くの効果を計算に取り入れたために、結果的に失敗しました。その後、天気現象にかかわる基本的な効果だけを計算する考え方になって成功しました。しかし最近、単純なもののなかに複雑な現象があり、それをどんどん追加して、現在のような数値予報に発展してきました。まさに、弁証法だと思うのです」
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2022年3月22日付掲載
準備万端だったはずの予報モデルが、なぜうまくいかなかったのか―。増田さんは「米国のテストにもっていった例はすべて低気圧が急速に発達する例だけだったからではないか」と振り返ります。
当時のモデルは傾圧不安定の予測には好都合でしたが、傾圧不安定はたびたび起こるものではないため、毎日の予報には水蒸気の変化などを正しく入れる必要が。
挫折から1年半後、増田さんたちは苦労の末に、日本独自の予報モデルを完成。自動的に天気図をつくる手法も実現。
天気現象にかかわる基本的な効果だけを計算する考え方になって成功。最近、単純なもののなかに複雑な現象があり、それをどんどん追加して、現在のような数値予報に発展してきました。まさに、弁証法だ。
1960年当時に、すでに天気図を自動的に描けていたんですね。
僕が中学生時代だから1970年代。地図に気圧をプロットして天気図を描かせる授業がありました。
同じ気圧同士を結ぶのですが、どこに気圧の谷があるか? 低気圧の中心はどこか? で描き方が変わってきます。
学ばされた記憶があります。
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