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日本共産党兵庫県委員会で働いています。

沖縄人民党合流50年① 元知事らが見た党の姿

2023-11-03 07:17:30 | 平和・憲法・歴史問題について
沖縄人民党合流50年① 元知事らが見た党の姿

米軍施政権下の沖縄で、数々の弾圧にも屈せず祖国日本への復帰を求め、たたかいの先頭に立った沖縄人民党が1973年、日本共産党に組織的合流をしてから10月31日で50年となりました。

瀬長さんが代弁
元沖縄県知事(在任98~2006年)の稲嶺恵一さん(90)は高校2年だった1950年10月、名護市で開かれた初の沖縄群島知事選の演説会に参加した一人です。知事選に立候補した人民党書記長(当時)、瀬長亀次郎(1907~2001年、のちの人民党委員長、合流後は日本共産党副委員長)の演説を聞くためでした。
会場は学校の校庭でした。「演台のすぐ近く最前列にムシロを敷いてね。同じ高校の仲間たちと、始まる何時間も前から陣取っていたわけです。イデオロギーとかじゃない。瀬長さんの話は面白いと評判だったから聞きに行ったわけです。テレビなどない時代の数少ない娯楽でした」
稲嶺さんは演説の詳しい中身は覚えていませんが、亀次郎はユーモアを巧みに交えながら聴衆を沸かせたと言います。一方、県民を抑圧していた米軍権力を舌鋒(ぜっぽう)鋭く批判するのが亀次郎の演説スタイルだったとされます。
当時、沖縄戦で財産を失った少なくない人たちが、米軍関係の仕事で食いつなぐなどしていました。同時に戦時中、県民をスパイ視し殺害するなどした旧日本軍への嫌悪から、アメリカに複雑な感情を抱く人もいたと稲嶺さんは語ります。
「しかし異民族支配に対する抵抗の感情は、多くの人の心の中にあった。絶対的な権威の米軍にほかの誰も言えないことを瀬長さんが代弁してくれたと、みんなが思ったんじゃないでしょうか」



沖縄人民党と労働者らが開いた第3回メーデー。米軍は5月1日を「マルクスの誕生日」とする虚報を発表し、「共産党員でない人びとは(メーデーに)参加すべきではない」として、弾圧しようとしました=1954年、那覇市(那覇市歴史博物館提供)

沖縄における星
沖縄史研究者で沖縄国際大学名誉教授の来間(くりま)泰男さん(82)は、人民党について「米軍占領下の沖縄における星だった」と評します。
亀次郎ら党幹部が投獄された人民党事件(54年)をはじめ、米軍政府や追随する勢力からさまざまな弾圧を受けても、節を曲げないたたかいを続けました。「党ができて最初のころは小さな抵抗だったけれど、それがだんだん積み重ねられ、人民党だけはアメリカに屈しないという評価を得ていくわけなんです」
その評価は政治的な立場の違いを超え、選挙で自民党を熱心に応援する人たちも「亀次郎の言っていることは間違っていない」と語り、ときには選挙で支持したといいます。
他方、来間さんは人民党がこみ処理焼却場の建設など住民の生活に密着する問題が浮上した時、そのつど党としての方針を明らかにし、住民とともに運動を組織したと語ります。「『この問題では人民党はなんて言うんだろう』と、みんなが待っているような雰囲気があった。そして、それらの期待に応える政党だったのです」(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年11月1日付掲載


1950年10月、名護市で開かれた初の沖縄群島知事選。知事選に立候補した人民党書記長(当時)、瀬長亀次郎。元沖縄県知事(在任98~2006年)の稲嶺恵一(90)さんは、当時高校生。イデオロギーとかじゃない。瀬長さんの話は面白いと評判だったから聞きに行った。
党ができて最初のころは小さな抵抗だったけれど、それがだんだん積み重ねられ、人民党だけはアメリカに屈しないという評価を得ていく。


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