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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

沖縄人民党合流50年② 弾圧と分断乗り越え

2023-11-04 07:11:31 | 平和・憲法・歴史問題について
沖縄人民党合流50年② 弾圧と分断乗り越え

1952年4月1日、当時の首里城跡地(沖縄戦で焼失)に設置されていた琉球大学の校庭で、ある歴史の瞬間を収めた1枚の写真が撮影されています。その日、「琉球政府」の創立式典がありました。
式典は、住民に選ばれた立法院議員に米国への宣誓をさせ、住民の自治が偽装にすぎない実態を示していました。ところが瀬長亀次郎(沖縄人民党書記長)が一人起立せず、宣誓を拒否したのです。宣誓拒否は人民党常任中央委員会の決定に基づいたものでした。



「琉球政府」創立式典で、一人だけ起立せず「宣誓拒否」する瀬長亀次郎立法院議員(矢印)=1952年4月1日(『沖縄人民党の歴史』から)

「県民の代弁者」
比嘉清恵(せいけい)さん(88)=那覇市=はこの光景を目撃した一人。名護町(現名護市)から歯の治療のため那覇に来ていた比嘉さんは、またいとこに誘われ式典に向かいました。「前におとなたちが『瀬長さんは貧乏人の味方』と話していたのを覚えており、米軍のいいなりにはならないはずと期待していた。抑圧された県民の代弁者だと思った」
比嘉さんは高校卒業後、那覇の印刷工場に就職。日中働きながら、労働者仲間と学習サークルを始めました。唯物論哲学などを学ぶ中で人民党とかかわり入党しました。
当時、米国は「太平洋の要石」として沖縄の核基地化を推進。基地拡張へ“銃剣とブルドーザー”で住民の土地の強奪を始めます。
これらに真っ向から反対する者を徹底的に弾圧しようとしたのが人民党事件です。亀次郎ら40人以上が逮捕、投獄されました。
比嘉さんは「祖国復帰の言葉も口にできないほどだった」と振り返ります。占領下の諜報部隊(CIC)が一般人にまぎれており、ビラの印刷も可能な限り同志と接触を断って行ったといいます。

那覇市長選勝利
56年夏、米軍の土地強奪を許さないたたかいが保革を超えた「島ぐるみ闘争」に発展。しかし、激しい分断工作で超党派のたたかいが切り崩されます。久志村(現名護市)辺野古では米軍キャンプ・シュワブ建設の受け入れが行われました。
多くの人が落胆する中、同年末の那覇市長選で亀次郎が歴史的な当選を勝ち取ります。10カ月で市長を追放されますが、民主主義をじゅうりんする米軍支配の実態が内外に知れ渡ることに。この時期に芽生えた民主勢力の共闘は、曲折をへて60年代に大きく発展していくことになります。
比嘉さんは62年、人民党が発行許可を勝ち取った機関紙『人民』の印刷工場の建設に参加。「敷地は硬い岩盤に覆われ、つるはしを握る手が血だらけになるなど整地に苦労したが、18日間で完成にこぎつけた。困難があっても党が展望を示していたから頑張ってこられた」と語ります。
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年11月2日付掲載


1952年4月1日、「琉球政府」の創立式典。
式典は、住民に選ばれた立法院議員に米国への宣誓をさせ、住民の自治が偽装にすぎない実態を示していました。ところが瀬長亀次郎(沖縄人民党書記長)が一人起立せず、宣誓を拒否。
1956年末の那覇市長選で亀次郎が歴史的な当選を。10カ月で市長を追放されますが、民主主義をじゅうりんする米軍支配の実態が内外に知れ渡ることに。この時期に芽生えた民主勢力の共闘は、曲折をへて60年代に大きく発展していくことに。

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