沖縄人民党合流50年③ 教員も復帰へ懸命に
1967年2月、小学校教員だった桃原蓉子さん(89)=沖縄県うるま市=は、那覇市の立法院を取り囲む群衆の中にいました。教員の政治活動を制限しようとする「教公二法」案が採決されようとしていた時でした。
より良い教育を
桃原さんは、祖国復帰運動をけん引したのが労働組合「沖縄教職員会」だったと話します。「当時の教育環境は劣悪で、理科の実験器具など教材はないし、学校図書館に本もない。復帰すれば子どもたちにより良い教育ができると思い、懸命に運動したわけです」
しかし米軍政府は当然、復帰運動を快く思いません。その庇護(ひご)のもとにあった与党・沖縄民主党(のちの沖縄自民党)が法案を強行しようとしたのです。教員の手足をしばり復帰運動そのものを抑え込もうとする狙いで、多くの教員、県民が怒りに燃え、阻止に立ち上がりました。
翌日にも法案が上程されようとする2月23日夜、教職員会を中心に多くの人が立法院前に集結。桃原さんも夜を徹し座り込みました。
24日、警官隊が座り込みを“ごぼう抜き”で暴力的に排除しようとしました。教員たちはスクラムを組んで抵抗。桃原さんはコートを引きちぎられてもひるみませんでした。
その後、議会を包囲する人垣が3万人になり本会議は中止に。与野党が法案を実質的な廃案とすることで合意します。この勝利を機に復帰運動は飛躍していくことになります。
桃原さんは、父が沖縄人民党推薦で立法院議員に当選した故・久高将憲さんでした。子育てや教職に奔走しながら父の選挙応援、復帰運動などに取り組み、人民党の日本共産党への合流後、共産党に入党しました。
「教公二法」案を阻止するため、立法院議会を包囲した大群衆=1967年2月24日、那覇市(那覇市歴史博物館提供)
たたかいで成長
60年代後半から71年にかけての旧具志川村(現うるま市)昆布の土地闘争にもかかわりました。基地増強のため米軍が土地を接収しようとしたのに対し、住民たちが粘り強く抵抗を続け、断念に追い込んだたたかいです。
人民党の関係者も多く駆けつけ、闘争小屋に泊まり込むなどして支えました。闘争小屋が焼き打ちされる事件も起きますがコンクリート製で再建。桃原さんは、その費用のカンパを募り村の集落を回った一人でした。
「多くの人が協力してくれ、断念させるまで頑張ったすごいたたかいだった。人はたたかいの中でしか強くなれないから、どんなに大変な思いをしても、たたかったことは大きな意義があると思います」。桃原さんは、いまも辺野古米軍新基地建設反対などのたたかいに参加し続けています。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年11月3日付掲載
1967年2月。教員の政治活動を制限しようとする「教公二法」案が採決されようと。
議会を包囲する人垣が3万人になり本会議は中止に。与野党が法案を実質的な廃案とすることで合意。
人はたたかいの中でしか強くなれないから、どんなに大変な思いをしても、たたかったことは大きな意義があると。
1967年2月、小学校教員だった桃原蓉子さん(89)=沖縄県うるま市=は、那覇市の立法院を取り囲む群衆の中にいました。教員の政治活動を制限しようとする「教公二法」案が採決されようとしていた時でした。
より良い教育を
桃原さんは、祖国復帰運動をけん引したのが労働組合「沖縄教職員会」だったと話します。「当時の教育環境は劣悪で、理科の実験器具など教材はないし、学校図書館に本もない。復帰すれば子どもたちにより良い教育ができると思い、懸命に運動したわけです」
しかし米軍政府は当然、復帰運動を快く思いません。その庇護(ひご)のもとにあった与党・沖縄民主党(のちの沖縄自民党)が法案を強行しようとしたのです。教員の手足をしばり復帰運動そのものを抑え込もうとする狙いで、多くの教員、県民が怒りに燃え、阻止に立ち上がりました。
翌日にも法案が上程されようとする2月23日夜、教職員会を中心に多くの人が立法院前に集結。桃原さんも夜を徹し座り込みました。
24日、警官隊が座り込みを“ごぼう抜き”で暴力的に排除しようとしました。教員たちはスクラムを組んで抵抗。桃原さんはコートを引きちぎられてもひるみませんでした。
その後、議会を包囲する人垣が3万人になり本会議は中止に。与野党が法案を実質的な廃案とすることで合意します。この勝利を機に復帰運動は飛躍していくことになります。
桃原さんは、父が沖縄人民党推薦で立法院議員に当選した故・久高将憲さんでした。子育てや教職に奔走しながら父の選挙応援、復帰運動などに取り組み、人民党の日本共産党への合流後、共産党に入党しました。
「教公二法」案を阻止するため、立法院議会を包囲した大群衆=1967年2月24日、那覇市(那覇市歴史博物館提供)
たたかいで成長
60年代後半から71年にかけての旧具志川村(現うるま市)昆布の土地闘争にもかかわりました。基地増強のため米軍が土地を接収しようとしたのに対し、住民たちが粘り強く抵抗を続け、断念に追い込んだたたかいです。
人民党の関係者も多く駆けつけ、闘争小屋に泊まり込むなどして支えました。闘争小屋が焼き打ちされる事件も起きますがコンクリート製で再建。桃原さんは、その費用のカンパを募り村の集落を回った一人でした。
「多くの人が協力してくれ、断念させるまで頑張ったすごいたたかいだった。人はたたかいの中でしか強くなれないから、どんなに大変な思いをしても、たたかったことは大きな意義があると思います」。桃原さんは、いまも辺野古米軍新基地建設反対などのたたかいに参加し続けています。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年11月3日付掲載
1967年2月。教員の政治活動を制限しようとする「教公二法」案が採決されようと。
議会を包囲する人垣が3万人になり本会議は中止に。与野党が法案を実質的な廃案とすることで合意。
人はたたかいの中でしか強くなれないから、どんなに大変な思いをしても、たたかったことは大きな意義があると。
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