きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

色弱が世界を変える① 「見にくいアヒルの子」

2011-11-14 18:32:57 | 健康・病気について
色弱が世界を変える① 「見にくいアヒルの子」

 「伊賀君、赤い字のところを読んで」「先生、どこかわからん」
クラスの中でひとりだけこんな事を言っているのが小学生時代の私だった。ふざけているのかと叱られたりした。私の通信簿の身体検査の項目には学校医によって「赤色盲」と書かれていた。
 図画の授業で顔を緑色に描いた。チームの色分けがわからない。地図の色分けやリトマス試験紙の色が分からない。進学時に理科系には進めないと言われた。
 当時を振り返ると「みにくいアヒルの子」の話を思い出す。自分と同じタイプの子どもは居ない。おとながフォローしてくれない。色が見分けにくいので、「見にくいアヒルの子」だった。



大正5年の『色覚検査表』(陸軍衛生工廠蔵版ソラノイロ所蔵)

 近年、印刷物や建物の案内表示などがカラフルになり、私には分かりにくくなった。家電や電子機器・デジカメなどの発光ダイオードの色の変化も分からない。
 色覚(色の見え方感じ方)は人によって違っており、それぞれに見分けの得意不得意な色がある。他人がどのような色を感じているか実際には分からない。色の見え方が異なる理由のひとつは眼球中の視細胞の光の吸収特性による。どの特性の視細胞を持つかは遺伝によって決定されるが、皮膚の色や血液型などと同様に人類の多様性のひとつでありどれが正しいとか間違っているとかいうものではないのである。
 色覚の特性を調べるために「色覚検査」がある。日本軍が徴兵検査用に依頼して開発された色覚検査表は戦後も学校の身体検査時に毎年使われた。級友の前で検査表の数字が読めずからかわれたりした。検査は多様な色覚というとらえ方ではなく、多数派の「正常色覚」と少数派(日本では男性の約5%)の「色覚異常者(色盲・色弱)」に分類する。色弱者は男女共学のクラスには1人程度存在する割合である。私もその1人だったのだ。
色覚検査は2002年以降、原則廃止されている。

(伊賀公一・NPO法人カラーユニバーサルデザイン機構理事)
(金曜掲載)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2011年11月4日付掲載


確かに最近の印刷物やデジカメなどの表示には、緑色・赤色・黄色などが用いられています。色覚が正常な人には便利なものですが、色覚異常の方にも分かるように、模様をつけるとか、点滅などを用いるなどしてほしいものと思いました。
その方が、色覚が正常な人にも分かりやすいものになるのではないでしょうか。

シリーズ 原発の深層  第三部・差別と抑圧超えて⑨ 研究者の役割今こそ

2011-11-11 21:34:20 | 原子力発電・放射能汚染・自然エネルギー
シリーズ 原発の深層  第三部・差別と抑圧超えて⑨ 研究者の役割今こそ

 抑圧と差別は、核燃料サイクル計画を担う動力炉・核燃料開発事業団(動燃=1967年発足、現・日本原子力研究開発機構)では激しいものがありました。
 核燃料サイクルは、使用済み核燃料からプルトニウムを取り出し燃料として使う計画。動燃は高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)などの開発を国家プロジェクトとして、10年を目標に達成するようスタートしました。

余裕ない工程
 74年、動燃東海事業所の再処理工場(茨城県東海村)で試験運転中、下請け労働者が転落死亡。75年にはウランをプラント(処理施設)に流す試験を控えて労組が人員確保などとともに80カ所の改善提案をしましたが、これらを無視して動燃は試験を強行しました。
 動燃労組委員長を務めた円道正三さん(68)は、「再処理は未確立で危険を伴うから安全を確認しながらステップを踏むべきだと主張しました。しかし、動燃は『再処理は確立された技術だ。安全審査も通っている』といって工程を優先させた」と振り返ります。
 プラントはその後数々の不具合がみつかり、たびたび停止。大幅な修理を余儀なくされました。「余裕のない工程は、科学的・技術的な現実を見ない政治的な要求から出てきたものでした」と円道さんは強調します。



再処理工場(茨城県東海村)での分析作業の様子(動力炉・核燃料開発事業団パンフレットから)


技術者を差別
 安全問題に正面から取り組む人たちの排除は、人事・昇給差別を伴いました。上司から「現在の警察も戦前と同じく思想チェックがメーンだ」と脅しまがいの言葉で圧力をかけられたり、組合役員の結婚式に出ようとしただけで「君の将来は保証しかねる」といわれた人もいました。
 円道さん自身それまでの仕事を外されます。安全問題の相談など組合員との接触をなくすため、仕事場の電話も取られました。「攻撃は家族に及び、“あの家の子とは遊ぶな”といわれ、社宅から引っ越しを余儀なくされました」と振り返ります。
労組も「健全な原子力開発の推進」を掲げ、労使協調へと変化していきました。
 日本共産党の瀬崎博義衆院議員は80年11月、動燃で事故が相次ぐ問題を取り上げ、「技術者を思想信条で差別することが基本方針にあるからだ」と指摘。「研修目的は、日共の労組支配を完全に排除すること」とする監督者研修の感想文を示して異常な労務支配をやめるよう求めました。
 「もんじゅ」は95年にナトリウム漏れ火災事故を起こします。1兆円を投じた事業は運転再開のメドもたっていません。97年には再処理工場で火災爆発事故を起こし批判をあび、2005年に動燃は日本原子力研究所と統合され日本原子力研究開発機構となりました。
 日本原子力研究開発機構労組委員長の岩井孝さんは強調します。「福島原発の事故収束などますます研究者の果たすべき役割は大きい。多くの研究者は今度こそきちんと役割を発揮したいと思っています。その願いに応える体制を国民とともに求めていきたい」といいます。(おわり)
(第3部「差別と抑圧超えて」は藤原直、池田晋、松沼環が担当しました)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2011年11月10日付掲載



本当の意味での「健全な原子力開発」に転換する時期に来ているのではないでしょうか。
基礎研究からやり直して行きましょう。実用化なんて、身の程知らずですヨ!

現在の科学技術では、原子力を安全にコントロールする技術を人類を持ち合わせていないのですから・・・
原子力発電をした後の廃棄物、放射能汚染物を無害化することは開発のメドすらたっていません。

それとも、遠く銀河系外のイスカンダルに助けを求めるのですか?
「宇宙戦艦ヤマト発進!」なんて(*^^)v

シリーズ 原発の深層  第三部・差別と抑圧超えて⑧ ゆがめられた研究

2011-11-09 20:36:55 | 原子力発電・放射能汚染・自然エネルギー
シリーズ 原発の深層  第三部・差別と抑圧超えて⑧ ゆがめられた研究

 日本原子力研究所(原研、現・日本原子力研究開発機構)では、研究者連絡懇談会がつくられ、自主的な勉強会や見解発表が活発に行われていました。1964年ごろから、こうした自主的な活動に対して就業規則などで干渉が行われ、研究の自由が阻害されてきました。


佐世保港に入港する原子力船「むつ」と包囲する反対派の漁船団=1978年10月16日、長崎県佐世保市円内は故・中島篤之助さん

弾圧や処分も
 68年、高崎研究所に第二組合をつくった宗像英二理事が理事長に就任すると抑圧はエスカレートします。元原研研究員・元中央大学教授の舘野淳さん(75)は「動力炉・核燃料開発事業団の再処理工場に反対する署名を行った所員に対する弾圧や、事故にかかわる不当な処分が実施されました。自由にものが言えなくなり“恐怖政治”といわれた」と話します。
 68年11月、国産1号炉(JRR-3)で燃料破損事故が続発していることを職場新聞が告発。これに対して原研は69年2月、「事実を歪曲(わいきょく)した」「(燃料を製作した)日立製作所の抗議も到来」したとして停職や配転処分を強行したのです。
 抑圧と支配の下で研究がゆがめられ、その影響は安全研究において最も深刻な形で現れました。
 73年6月、原研労組委員長も務めた中島篤之助さん(故人)は、月刊誌『科学』に「原子力施設の事故例について」とする論文を載せたことから、「厳重注意」処分を受ける事件がおこりました。中島さんは学術会議の会員でもあり、研究員の信頼を集めていました。
 74年原子力船「むつ」の放射線漏れ事故が発生。中島さんは、長崎県佐世保港での同船の修理のため77年1月に長崎県知事が設置した安全研究委員会へ出席を要請されます。しかし、原研は出席を認めず、それをおして出席した中島さんに無断欠勤したとして賃金カットを強行。マスコミでも取り上げられ大きな問題になり、原子力委員長が仲介に入る事態になりました。

予算にも圧力
 処分だけでなく研究への圧力は予算配分にも現れます。全国に造られていった軽水炉について政府は、技術は「実証済み」、安全性に問題はないとの姿勢をとります。そして原子炉の「安全研究」は縮小していきます。
 元原研研究員の市川富士夫さん(82)は「安全研究という名前では研究はできなくなった。『安全性実証試験』という名称になり、安全を高める新しいアイデアは取り上げられなくなった。予算がつかなくなった」と説明します。
 こうして原発推進へと暴走するなかで起きたのが今回の福島第1原発事故でした。
 日本原子力研究開発機構労働組合の岩井孝委員長は話します。「政府は、“安全神話”と決別し、大本の考え方を変えていかなくてはいけない」
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2011年11月8日付掲載


やはり、自由に意見を言ったり、研究したりして、科学や技術は発展するものですよね。
始めから「安全」と決めつけてしまっては、本来必要なセーフティネットも機能に無くなります。「5重の防御」なんて砂上の楼閣だったんです・・・


シリーズ 原発の深層  第三部・差別と抑圧超えて⑦ 軽水炉と原潜ノー

2011-11-08 21:12:49 | 原子力発電・放射能汚染・自然エネルギー
シリーズ 原発の深層  第三部・差別と抑圧超えて⑦ 軽水炉と原潜ノー

 日本の原子力研究を推進するために1956年6月、特殊法人日本原子力研究所(原研、現・独立行政法人日本原子力研究開発機構)が発足しました。それは、無謀な原発政策を進める国と、国民の立場にたって原子力のあり方を考える研究者たちのたたかいの始まりでもありました。
 設立時の原研研究員で労組委員長を務めたこともある市川富士夫さん(82)は「研究者に対する賃金や待遇は劣悪で、東海村の独身寮では水道がなく桶を置いて飲み水にあてていた。労組は、これらの問題解決とともに、原子力の安全確保、平和利用3原則(民主・自主・公開)を掲げて活動していた」と振り返ります。



66年ごろの原研のJPDR(『原研十年史』から)

米の尾を踏む
 60年代になって問題になったのは、JPDRと呼ばれる米GE(ゼネラル・エレクトリック)社製の原子炉の導入です。この炉はその後、日本各地に次々と導入される軽水炉の日本1号炉。米国側は「軽水炉は実証済み」と宣伝していましたが、研究者や原研労組からは事故も多く、技術的に確立していないと批判の声がありました。
 原研労組委員長を務めたこともある元中央大学教授の舘野淳さん(75)は「米側は世界戦略の一環として軽水炉を売り込もうとしているときだっただけに、原研の研究者がJPDRの技術的欠陥を指摘したことは周囲から『トラの尾を踏んだ』といわれました」と振り返ります。
 しかしGE社は、発電成功(63年10月)の3日後、突如労使関係が問題だなどといってJPDRの運転中止を指令してきました。
 この対応をめぐって原研と労組の対立がいっそう激しくなり、佐藤栄作科学技術庁長官はあわてて原研に対し「運営改善」を指示します。これを機に本部に労務部がつくられ、研究者や労組に対する攻撃がいっせいに強まったのです。

講師が各地に
 組合幹部への攻撃から仕事上の冷遇措置、賃金・昇格差別へと及び、64年には公安警察系雑誌『全貌』が「日本原子力研究所の共産党員」と題する特集を掲載。国会で自民党議員が、「(日本共産党員は)20名は確実に名前をあげることができる」などと労組を攻撃しました。
 63年、米軍が原子力潜水艦を寄港させようとして社会問題になります。60年代後半には、電力会社による軽水炉原発の建設が各地で問題になりました。組合は原潜の講師運動から、原発の講師運動へと発展。各地で軽水炉の危険性を訴え、住民運動の前進に大きな力となりました。
 舘野さんは「研究者として原子力の研究が社会に還元されることを望んでいた。しかし、軽水炉は実証済みといえるような技術ではなかった。そのことを国民に伝えるのは研究者として社会的責務でした。しかし、米国と日本の政府・財界はそれを許さなかったのです」と強調します。(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2011年11月7日付掲載


館野さんの言う、「研究者として原子力の研究が社会に還元されることを望んでいた。しかし、軽水炉は実証済みといえるような技術ではなかった。そのことを国民に伝えるのは研究者として社会的責務でした」は切実なものだったのでしょう。
今回不幸にも、福島第一原発でそのことが現実のものとなってしまったのですから・・・
原研に運営改善を命じた、佐藤栄作科学技術庁長官(当時)、後の総理大臣は、やっぱり総理大臣の時のあだ名のとおり
「悪るさく」だったのですね。


シリーズ 原発の深層  第三部・差別と抑圧超えて⑥ 専門家の英知集めて

2011-11-07 21:27:20 | 原子力発電・放射能汚染・自然エネルギー
シリーズ 原発の深層  第三部・差別と抑圧超えて⑥ 専門家の英知集めて

 京都市にある立命館大学国際平和ミュージアム。安斎育郎名誉館長は2009年に、「東大医学部での嫌な時代を思い出させる事件が起こった」といいます。

体質変わらず
 同ミュージアムで活動している市民ボランティアの会が、恒例の「安斎育郎先生と行く平和ツアー」で、福井県の高浜原発の見学会を計画した際のことです。実施直前になって、関西電力の担当者が、「安斎さんは原発に激しく反対されてきた方だと分かったので、今回の見学はお断りしたい」といってきたのです。
 交渉に当たった同会の岡田知子さん(66)は怒り心頭に発し、抗議しました。
 「安斎先生が原発に批判的だという一点で拒否するのは、個人の思想信条の自由に反する。電力利用者に公平に公開すべきです」
 翌日、関電の担当者から「昨日は私の個人的判断で動き、所長に叱られました。謝罪にうかがいたい」と一転して見学許可の電話が。後日、謝罪にきた担当者に同会は「見学許可は思想で判断しない。この基準は今後も変わらない」と明言させました。
 安斎さんは、「批判者は徹底的に拒絶、差別して垣根の向こうに追いやるという“原子力村”の体質は変わっていなかったんだなと思いました」と語ります。



安斎育郎さん(左上)と、安斎さんの講演に耳を傾ける参加者=9月23日、静岡県焼津市

 原発事故発生後の4月15日、東大原子力工学科1期生の同期会が東京で開かれることになっていました。
 安斎さんは、事故の収束もままならないことから、延期を提案。「みなさんは私などよりはるかに深く政府の機関とも関係があるはずだから、事故を収めるためにやれることをやってほしい」と伝えました。
 後日、同じ1期生の齋藤伸三元原子力委員長代理が、原子力利用を推進してきた専門家16人で「福島原発事故についての緊急建言」を政府に提出したと伝えてきました。
 「建言」は、今回の事故について「国民に深く陳謝いたします」と述べ、日本の専門的英知の結集や国をあげた体制の構築を求めるものでした。

研究者の役割
 安斎さんは、「日本では多数の学者が原発推進のお墨付きを与える係とされ、批判者は抑圧され、一顧だにされなかった。これがこの国の原発政策を破局に向かわせたと感じます」と語ります。
 「そのことを反省し、原発に批判的な学者でも自由にモノが言え、政府も真面目に対応するという体制が必要不可欠です。事故の収束、除染、廃炉は一大事業。研究者が、今こそ英知を結集し役割を発揮すべきときです」(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2011年11月5日付掲載



原発事故の収束、除染、廃炉は国家を挙げた一大事業になります。今まで、原発を推進してきた研究者も、批判的だった研究者も、一致結束して国難に対処していかないといけないと思います。
そのための体制を、国は党派の違いを超えて造って行く必要があると思います。