J1、J2入れ替え戦で2ゴールを決め、ようやくプロレベルで活躍を見せた遅咲きのヒーロー、京都の田原豊選手の思い出です。私が田原を初めて見たのは、高校選手権決勝の鹿児島実対市立船橋でした。当時の鹿児島実は、田原の1トップに、松井大輔(ルマン[フランス])をトップ下に置いた布陣でした。
当時の試合は、市立船橋が引き気味でカウンター狙いで、鹿児島実が左右にパスを散らして戦うサッカーでした。田原の印象は、当時から目立つ長身で、ヘディングの強さはかなりのものでした。しかし、課題もあり、足元のプレーにはまだ雑な点がありました。プロで通用するためには、ある程度足元で勝負できないと厳しいので、未完の素材と思っていました。
しかし、その身体能力の高さは、U-20日本代表で必要とされました。ユース代表の実績があれば、高校卒業後は引く手あまたになります。田原は横浜FMに入団し、将来を嘱望されていました。しかし、スポーツ紙の報道によれば、入団当初は走ることを嫌ったという話です。
これでは、前線から激しくプレスを掛けることを要求される現代サッカーでは厳しいです。田原は横浜FMを戦力外になり、京都に移籍することになりました。京都でも、田原は決して恵まれた立場ではありませんでした。2004年には、チェ・ヨンス、黒部という当時のJ2では最強と言われた2トップの控えに回されます。
翌2005年も、アレモン、パウリーニョとFWに外国人を二人も補強されてしまいました。ただ、こういう境遇に置かれたことで、悪い意味でのエリート意識が消え、とにかく出た試合で結果を出そうと初心に帰ったのではと思います。その結果、田原は常にベンチ入り圏内をキープして、レギュラーに何かあればスタメンも張れるようになりました。
活躍の場所はチームの昇格や降格でJ1に行ったりJ2に行ったりしていましたが、どこにいても田原は必要な戦力と認められていました。J2でスタートした2007年も、田原のポジションは保障されていませんでしたが、後半戦でアンドレの調子が落ちた隙にポジションを奪い、一時勢いが落ちたチームを入れ替え戦に導きました。
それが、一番目立つ入れ替え戦でのゴールにつながったのでしょう。来期もポジション争いは厳しいですが、常にベンチ入りして隙あればスタメンという位置にはつけて欲しいものです。
当時の試合は、市立船橋が引き気味でカウンター狙いで、鹿児島実が左右にパスを散らして戦うサッカーでした。田原の印象は、当時から目立つ長身で、ヘディングの強さはかなりのものでした。しかし、課題もあり、足元のプレーにはまだ雑な点がありました。プロで通用するためには、ある程度足元で勝負できないと厳しいので、未完の素材と思っていました。
しかし、その身体能力の高さは、U-20日本代表で必要とされました。ユース代表の実績があれば、高校卒業後は引く手あまたになります。田原は横浜FMに入団し、将来を嘱望されていました。しかし、スポーツ紙の報道によれば、入団当初は走ることを嫌ったという話です。
これでは、前線から激しくプレスを掛けることを要求される現代サッカーでは厳しいです。田原は横浜FMを戦力外になり、京都に移籍することになりました。京都でも、田原は決して恵まれた立場ではありませんでした。2004年には、チェ・ヨンス、黒部という当時のJ2では最強と言われた2トップの控えに回されます。
翌2005年も、アレモン、パウリーニョとFWに外国人を二人も補強されてしまいました。ただ、こういう境遇に置かれたことで、悪い意味でのエリート意識が消え、とにかく出た試合で結果を出そうと初心に帰ったのではと思います。その結果、田原は常にベンチ入り圏内をキープして、レギュラーに何かあればスタメンも張れるようになりました。
活躍の場所はチームの昇格や降格でJ1に行ったりJ2に行ったりしていましたが、どこにいても田原は必要な戦力と認められていました。J2でスタートした2007年も、田原のポジションは保障されていませんでしたが、後半戦でアンドレの調子が落ちた隙にポジションを奪い、一時勢いが落ちたチームを入れ替え戦に導きました。
それが、一番目立つ入れ替え戦でのゴールにつながったのでしょう。来期もポジション争いは厳しいですが、常にベンチ入りして隙あればスタメンという位置にはつけて欲しいものです。