せっかくレジェンドたちの写真を撮ることができたので、ネタがないときに少しずつ昔の記憶を思い出して書きます。今回は、引退試合の主役、平川忠亮さんの記憶です。平川は2002年、オランダに移籍した小野伸二の移籍金を使って、将来のレッズを担う才能を集めていた時期に、筑波大から浦和入りします。小野伸二とは清水商業の同級生で、ちょうどすれ違いでしたが、平川本人は「高卒でプロになったらとっくに駄目になっていただろう。」と割り切っていました。
平川はユニバーシアード金メダルという実績を持っていましたが、大卒はプロで通用するには即戦力になることが必要という条件をクリアします。当時、右アウトサイドの控えに予定されていましたが、オフト監督からやったことのない左アウトサイドへのコンバートを指示されます。平川なりに適応のやり方を考えて、右足のアウトサイドですらすようにクロスを上げるなどして、当時左アウトサイドだった路木からポジションを奪ってスタメンに定着します。
このコンバートは、平川が39歳までプロでプレーできる要因の一つになりました。これで、左右のアウトサイド、右ストッパー、左右のSBなど様々なポジションで起用できる便利屋として歴代監督に重宝されたからです。特に、平川の場合は4バックの監督が就任してもサイドのポジションをこなせるのが大きく、フィンケ監督やゼリコ・ペトロヴィッチ監督ら4バックの監督でも当たり前のように試合に出ていました。
平川自身は、思い出の試合として、2007年ACL準決勝の城南一和戦のPK戦を挙げていました。当時、リーグ戦とACLを並行する未知の強行日程に、レッズの選手たちは限界状態で、「勝つとすればPK戦に持ち込むしかない」と選手たちがまとまり、本当に持ち込んだPK戦で、最もプレッシャーのかかる5人目のキッカーに指名された平川が成功させてこの試合を勝ち、ACLの優勝につながります。
私の記憶では、平川の記憶といえば2011年の残留争いの裏天王山のアウェイ福岡戦が大きいです。当時の試合は勝てば99%残留決定でしたが、引き分け以下なら翌日にゲームを控える甲府に残留の望みが出る崖っぷちでした。この試合で、緊張状態の中、ベテランの坪井と平川が落ち着いてプレーしていたのが大きく、このゲームを2-1で勝ち切った浦和はぎりぎりながらJ1に残留することができました。
先日の引退試合、こんな機会でなければ集まらないレジェンドたちが一堂に会しました。PKを2度も蹴らせてもらえたのは主役の平川への配慮としても、コーチとして連日若い選手たちと一緒に練習しているところを見せました。体力的にも準備してきており、さすが35歳近くまでスピードも持っていた、長持ちでいい選手だったと振り返ります。
平川はユニバーシアード金メダルという実績を持っていましたが、大卒はプロで通用するには即戦力になることが必要という条件をクリアします。当時、右アウトサイドの控えに予定されていましたが、オフト監督からやったことのない左アウトサイドへのコンバートを指示されます。平川なりに適応のやり方を考えて、右足のアウトサイドですらすようにクロスを上げるなどして、当時左アウトサイドだった路木からポジションを奪ってスタメンに定着します。
このコンバートは、平川が39歳までプロでプレーできる要因の一つになりました。これで、左右のアウトサイド、右ストッパー、左右のSBなど様々なポジションで起用できる便利屋として歴代監督に重宝されたからです。特に、平川の場合は4バックの監督が就任してもサイドのポジションをこなせるのが大きく、フィンケ監督やゼリコ・ペトロヴィッチ監督ら4バックの監督でも当たり前のように試合に出ていました。
平川自身は、思い出の試合として、2007年ACL準決勝の城南一和戦のPK戦を挙げていました。当時、リーグ戦とACLを並行する未知の強行日程に、レッズの選手たちは限界状態で、「勝つとすればPK戦に持ち込むしかない」と選手たちがまとまり、本当に持ち込んだPK戦で、最もプレッシャーのかかる5人目のキッカーに指名された平川が成功させてこの試合を勝ち、ACLの優勝につながります。
私の記憶では、平川の記憶といえば2011年の残留争いの裏天王山のアウェイ福岡戦が大きいです。当時の試合は勝てば99%残留決定でしたが、引き分け以下なら翌日にゲームを控える甲府に残留の望みが出る崖っぷちでした。この試合で、緊張状態の中、ベテランの坪井と平川が落ち着いてプレーしていたのが大きく、このゲームを2-1で勝ち切った浦和はぎりぎりながらJ1に残留することができました。
先日の引退試合、こんな機会でなければ集まらないレジェンドたちが一堂に会しました。PKを2度も蹴らせてもらえたのは主役の平川への配慮としても、コーチとして連日若い選手たちと一緒に練習しているところを見せました。体力的にも準備してきており、さすが35歳近くまでスピードも持っていた、長持ちでいい選手だったと振り返ります。