地元さいたま市で道路の緑地帯に植えられているアベリアです。この花は時期が長く、GWの頃から晩秋に至るまで見ることができます。小さい花なので、なかなか良い写真にするのが難しいですが、コンパクトデジカメでこんな写真にできました。
昨日は欧州の移籍市場が閉まる日でしたが、その期限ぎりぎりになって、写真の元浦和MF原口元気選手の浦和復帰が発表になっていました。前所属のシュツットガルトは戦力外になっており、移籍金はおそらくかからないでしょう。ぎりぎりになったのは、本人が欧州からオファーがあればと思っていたのでしょうが、無所属になるよりは良いと浦和復帰を決断したのでしょう。
熊谷市郊外の江南町のサッカー少年団時代から、天才少年として地元では既に有名な存在でした。浦和にはジュニアユースからスカウトで加入しますが、中学時代の彼はまだまだチームのためにハードワークするという姿勢に欠けていたと、当時ジュニアユースの監督だった池田伸康氏の証言です。その後は順調にユースに昇格し、1学年上の高橋峻希、山田直輝らとともに全日本ユースを優勝した黄金時代に関わります。
プロ入りは高校3年生のときです。当時、高校生のプロは浦和では前例がなかったですが、2種登録にしてユースと掛け持ちさせるより、ユースの試合に出られなくなってもプロとして彼の力を生かしたいというのが決断の理由でした。事実、プロ契約を結んでから、当時のフィンケ監督が左MFのレギュラーとして、開幕戦から原口をスタメンで起用しました。
当時、ポンテともプレーしましたが、「ロビー(ポンテ)には怒られてばかりだった」と当時を振り返っていました。サッカーセンスは抜群でも、まだJ1のレギュラーとしては線が細い印象もありました。転機になったのは2012年、当時のミシャが1トップで原口を起用したことです。この年の原口はFWとしては少ない6得点にとどまりましたが、この経験でFWがどういうボールが欲しいかわかるようになりました。
海外挑戦はドイツのヘルタ・ベルリンからオファーが来たためです。当時、原口は浦和に移籍金が入るようにするために、あえて3年契約を結んでいました。移籍当時は半年契約が残っていたので、移籍金は8000万円で、この移籍金を活用してレッズランドにフットサルコートである「原口コート」ができたというエピソードもあります。
サイドハーフが得意なポジションですが、ウニオン・ベルリン時代はボランチをやっていたシーズンもあります。33歳という年齢と、シュツットガルトでほとんど出番がなかったことで、どれだけの力が残っているかは未知数ですが、彼の代名詞だったドリブルがどこかの試合で見られれば、昔からのサポーターとしては嬉しいです。
熊谷市郊外の江南町のサッカー少年団時代から、天才少年として地元では既に有名な存在でした。浦和にはジュニアユースからスカウトで加入しますが、中学時代の彼はまだまだチームのためにハードワークするという姿勢に欠けていたと、当時ジュニアユースの監督だった池田伸康氏の証言です。その後は順調にユースに昇格し、1学年上の高橋峻希、山田直輝らとともに全日本ユースを優勝した黄金時代に関わります。
プロ入りは高校3年生のときです。当時、高校生のプロは浦和では前例がなかったですが、2種登録にしてユースと掛け持ちさせるより、ユースの試合に出られなくなってもプロとして彼の力を生かしたいというのが決断の理由でした。事実、プロ契約を結んでから、当時のフィンケ監督が左MFのレギュラーとして、開幕戦から原口をスタメンで起用しました。
当時、ポンテともプレーしましたが、「ロビー(ポンテ)には怒られてばかりだった」と当時を振り返っていました。サッカーセンスは抜群でも、まだJ1のレギュラーとしては線が細い印象もありました。転機になったのは2012年、当時のミシャが1トップで原口を起用したことです。この年の原口はFWとしては少ない6得点にとどまりましたが、この経験でFWがどういうボールが欲しいかわかるようになりました。
海外挑戦はドイツのヘルタ・ベルリンからオファーが来たためです。当時、原口は浦和に移籍金が入るようにするために、あえて3年契約を結んでいました。移籍当時は半年契約が残っていたので、移籍金は8000万円で、この移籍金を活用してレッズランドにフットサルコートである「原口コート」ができたというエピソードもあります。
サイドハーフが得意なポジションですが、ウニオン・ベルリン時代はボランチをやっていたシーズンもあります。33歳という年齢と、シュツットガルトでほとんど出番がなかったことで、どれだけの力が残っているかは未知数ですが、彼の代名詞だったドリブルがどこかの試合で見られれば、昔からのサポーターとしては嬉しいです。