ネタに困ったときの昔話で、元浦和、FC東京監督で現日本協会技術委員の原博実さんの思い出です。原博実はJリーグが始まる前年に現役を引退していたので、Jリーグ開幕と同時にサッカーを見始めた私にはプレーの記憶はありません。
ただ、元日本代表のエースストライカーで、当時は釜本に次ぐ史上2位(のちにカズと岡崎が更新)の代表得点数を誇っていたことは知っていました。原博実を見て一発で印象に残る、曲がった鼻は、鼻骨骨折をした際に長期欠場を避けるため、曲がったまま試合に出たという根性の現れです。
現役時代はたぶん、韓国にホームアンドアウェイで敗れた1985年メキシコW杯予選の経験者だったと記憶しています。当時、サッカーをほとんど取り上げなかったマスコミが、木村和司のFKを大きな見出しで取り上げたので、この当時の日本代表はすごいことをしていたんだと、少年だった私には印象的でした。
原博実はプレースタイルはポストプレーヤーでした。のちに浦和で監督になったとき、同タイプの盛田に居残り特訓を課したのは期待の現れであるとともに、自らの経験を伝えたい思いもあったでしょう。浦和では長くコーチを務め、森、横山、オジェック、ケッペルの下を経験しました。
浦和の監督としては、悲運だったイメージです。1998年にベギリスタイン、ネイハイス、ペトロビッチといった有名な外国人がいた浦和を率いて、2ndステージ3位と結果を出しましたが、当時の浦和は結果が出た次の年の補強をサボる悪癖がありました。
翌1999年、前半戦は永井雄一郎と岡野雅行も抜けていた浦和は開幕から迷走して、原博実は解任されて不本意な形で浦和を去ります。ドイツ人監督が成人した選手はうまくならないことを前提とした戦術練習を繰り返したのとは対照的に、原博実は期待の選手はまだうまくなると考えて、大柴がブレイクするなど結果も出ただけに残念でした。
しかし、その後FC東京の監督になり、ナビスコ杯優勝とタイトルを得て、監督としても結果を出しました。あの当時、浦和はFC東京と決勝戦で当たってPK負けしていますが、原監督のタイトルという意味では「良かったね」という気持ちもありました。
浦和時代、青年監督だった原さんも今や協会の重鎮と呼ばれる年齢になってきました。時間の流れは感じますが、W杯の好成績で強化方針が報われるように期待しています。
ただ、元日本代表のエースストライカーで、当時は釜本に次ぐ史上2位(のちにカズと岡崎が更新)の代表得点数を誇っていたことは知っていました。原博実を見て一発で印象に残る、曲がった鼻は、鼻骨骨折をした際に長期欠場を避けるため、曲がったまま試合に出たという根性の現れです。
現役時代はたぶん、韓国にホームアンドアウェイで敗れた1985年メキシコW杯予選の経験者だったと記憶しています。当時、サッカーをほとんど取り上げなかったマスコミが、木村和司のFKを大きな見出しで取り上げたので、この当時の日本代表はすごいことをしていたんだと、少年だった私には印象的でした。
原博実はプレースタイルはポストプレーヤーでした。のちに浦和で監督になったとき、同タイプの盛田に居残り特訓を課したのは期待の現れであるとともに、自らの経験を伝えたい思いもあったでしょう。浦和では長くコーチを務め、森、横山、オジェック、ケッペルの下を経験しました。
浦和の監督としては、悲運だったイメージです。1998年にベギリスタイン、ネイハイス、ペトロビッチといった有名な外国人がいた浦和を率いて、2ndステージ3位と結果を出しましたが、当時の浦和は結果が出た次の年の補強をサボる悪癖がありました。
翌1999年、前半戦は永井雄一郎と岡野雅行も抜けていた浦和は開幕から迷走して、原博実は解任されて不本意な形で浦和を去ります。ドイツ人監督が成人した選手はうまくならないことを前提とした戦術練習を繰り返したのとは対照的に、原博実は期待の選手はまだうまくなると考えて、大柴がブレイクするなど結果も出ただけに残念でした。
しかし、その後FC東京の監督になり、ナビスコ杯優勝とタイトルを得て、監督としても結果を出しました。あの当時、浦和はFC東京と決勝戦で当たってPK負けしていますが、原監督のタイトルという意味では「良かったね」という気持ちもありました。
浦和時代、青年監督だった原さんも今や協会の重鎮と呼ばれる年齢になってきました。時間の流れは感じますが、W杯の好成績で強化方針が報われるように期待しています。
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