ネタのないときは昔の力士を思い出す、いつものパターンで、写真の元関脇旭天鵬の友綱親方の思い出です。旭天鵬は、モンゴル人力士の第一号となった6人の新弟子のうちの一人です。同期の旭鷲山は「技のデパート、モンゴル支店」と呼ばれたモンゴル相撲仕込みの多彩な技を見せましたが、旭天鵬の相撲は長身を生かした四つ相撲からの寄りでした。
そうなった理由は、旭天鵬がモンゴル相撲の経験者ではなかったからです。旭天鵬はモンゴルではバスケットボールをやっており、相撲のノウハウはすべて日本に来てから覚えたので、こうした「純日本風」の相撲をモンゴル人の彼が見せることになります。これは、旭天鵬にとっては良かったと思います。彼の長身の体を生かす相撲でなく、モンゴル相撲の技で勝負したら、小さくまとまってしまったかもしれません。
旭天鵬は最終的には40歳まで相撲を取る長持ちの力士でしたが、彼の相撲人生には何回かピンチがありました。まずは下積み時代に一度、逃げるようにモンゴルに帰国しています。当時の大島親方(元大関旭国)がモンゴルまで出向いて説得して戻ってきましたが、そういう大島親方の誠意がなければのちの旭天鵬はなかったと思います。
もう一つは、幕内時代に禁止されている車の運転をして交通事故を起こし、一場所出場停止になって十両に落ちたことです。このときは、夫人に「辞めたい」と口にしたそうですが、夫人の説得で再度現役を続けることになります。この頃に日本に帰化して、日本人「太田勝」として相撲を取っています。師匠の大島親方が定年になった際も、後継者を打診されながら現役続行にこだわり、友綱部屋に移って現役を続けました。
そんな旭天鵬にとって、最高の報酬は何と言っても37歳で達成した平幕優勝です。史上最高齢の初優勝として歴史に名が残っており、栃煌山との決定戦を制しての賜杯でした。このときは、勝てば決定戦に出られる条件だった本命稀勢の里が把瑠都に敗れて決定戦を逃すという、「神風」が吹いたのも一つのラッキーな要因でした。
大島部屋でも友綱部屋でも後継者に指名されるという、人間性の良さもあって、今は親方として活躍しています。国技館に行くと彼の姿はよく見られるので、そういう姿を見ると「元気なんだな」と安心できます。
そうなった理由は、旭天鵬がモンゴル相撲の経験者ではなかったからです。旭天鵬はモンゴルではバスケットボールをやっており、相撲のノウハウはすべて日本に来てから覚えたので、こうした「純日本風」の相撲をモンゴル人の彼が見せることになります。これは、旭天鵬にとっては良かったと思います。彼の長身の体を生かす相撲でなく、モンゴル相撲の技で勝負したら、小さくまとまってしまったかもしれません。
旭天鵬は最終的には40歳まで相撲を取る長持ちの力士でしたが、彼の相撲人生には何回かピンチがありました。まずは下積み時代に一度、逃げるようにモンゴルに帰国しています。当時の大島親方(元大関旭国)がモンゴルまで出向いて説得して戻ってきましたが、そういう大島親方の誠意がなければのちの旭天鵬はなかったと思います。
もう一つは、幕内時代に禁止されている車の運転をして交通事故を起こし、一場所出場停止になって十両に落ちたことです。このときは、夫人に「辞めたい」と口にしたそうですが、夫人の説得で再度現役を続けることになります。この頃に日本に帰化して、日本人「太田勝」として相撲を取っています。師匠の大島親方が定年になった際も、後継者を打診されながら現役続行にこだわり、友綱部屋に移って現役を続けました。
そんな旭天鵬にとって、最高の報酬は何と言っても37歳で達成した平幕優勝です。史上最高齢の初優勝として歴史に名が残っており、栃煌山との決定戦を制しての賜杯でした。このときは、勝てば決定戦に出られる条件だった本命稀勢の里が把瑠都に敗れて決定戦を逃すという、「神風」が吹いたのも一つのラッキーな要因でした。
大島部屋でも友綱部屋でも後継者に指名されるという、人間性の良さもあって、今は親方として活躍しています。国技館に行くと彼の姿はよく見られるので、そういう姿を見ると「元気なんだな」と安心できます。
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