地元さいたま市は梅が見頃になってきました。梅のいるところにはメジロがいるのは日本の定番で、ここさいたま市でもメジロが群がっていました。写真を撮りやすい位置に来てくれるかは運もありますが、撮れるまで粘る気持ちがあればどうにかなることが多いです。
久しぶりにサッカーを見て記事を書きます。今日は富士フィルム杯の神戸対川崎でした。前年のリーグ優勝チームと天皇杯優勝チームが参加できる名誉な大会ではありますが、本番のリーグ戦に向けては最終調整という意味合いも強い試合です。事実、川崎はACLのベスト16の山東戦まで中2日という厳しい日程の間に挟まった試合なので、家長や脇坂をベンチにも入れず、メンバーを入れ替えてきました。
序盤は神戸が狙い通りの試合運びをしました。川崎の左SB田邊のところを狙い、右FWの佐々木に入れてからCFの大迫に合わせる攻めができていました。また、川崎のアンカーのゼ・ヒカルドのところは神戸のプレスの餌食になっており、ここで奪ってからのショートカウンターが神戸の攻めのパターンでした。そのため、序盤から守勢が続く川崎はなかなか中盤の選手が攻撃参加できない悪循環になってきます。
もっとも、神戸に一つアクシデントが起きます。4-3-3のサイドMFで出場していた井出が、太もも裏の肉離れを起こしてFWの宮代と交代します。そのため、神戸は意図しない形で、布陣が4-3-3から4-4-2に変更となりました。次第に川崎の良さも出始め、左FWのパトリッキ・ヴェロンのドリブルは相手SBに瞬間のスピードで勝てて、ポケット(ペナルティーエリアのサイド付近)を仕掛けられる武器になります。
前半は0-0で折り返した試合ですが、川崎の鬼木監督は前半の内容を良くないと見たようで、後半頭から左SBを田邊から三浦に交代させます。後半からサイドを仕掛けられるようになってきた川崎はゲームの流れを取り戻して、サイドから得たFKの流れから、神戸MF山口蛍のクロスを足に当てたファンウェルメスケルケンの当たりがシュートのような弾道になって、ゴールとなって川崎に先制点が入ります。
後半はあれほど脅威だった大迫になかなかボールが入らない展開になってきます。前半で意図しない布陣変更があったことも、神戸としてはゲームプランと異なる試合を強いられる要因の一つだったことでしょう。もっとも、リーグ戦の試合ならビハインドになった瞬間にベンチが動くでしょうが、この試合を調整試合の一環と見てか、神戸の交代は後半25分に、扇原とパトリッキを下げて広瀬と井手口を入れるまで待ちました。
神戸はパワープレーなど、無理に勝ちに行くオプションは見せず、試合はそのまま1-0で川崎の勝利に終わりました。ACLの都合でメンバーが落ちていた川崎の勝利は多少驚きではありましたが、神戸としても内容はそんなに悪くないと割り切れた試合だったのではと振り返ります。
序盤は神戸が狙い通りの試合運びをしました。川崎の左SB田邊のところを狙い、右FWの佐々木に入れてからCFの大迫に合わせる攻めができていました。また、川崎のアンカーのゼ・ヒカルドのところは神戸のプレスの餌食になっており、ここで奪ってからのショートカウンターが神戸の攻めのパターンでした。そのため、序盤から守勢が続く川崎はなかなか中盤の選手が攻撃参加できない悪循環になってきます。
もっとも、神戸に一つアクシデントが起きます。4-3-3のサイドMFで出場していた井出が、太もも裏の肉離れを起こしてFWの宮代と交代します。そのため、神戸は意図しない形で、布陣が4-3-3から4-4-2に変更となりました。次第に川崎の良さも出始め、左FWのパトリッキ・ヴェロンのドリブルは相手SBに瞬間のスピードで勝てて、ポケット(ペナルティーエリアのサイド付近)を仕掛けられる武器になります。
前半は0-0で折り返した試合ですが、川崎の鬼木監督は前半の内容を良くないと見たようで、後半頭から左SBを田邊から三浦に交代させます。後半からサイドを仕掛けられるようになってきた川崎はゲームの流れを取り戻して、サイドから得たFKの流れから、神戸MF山口蛍のクロスを足に当てたファンウェルメスケルケンの当たりがシュートのような弾道になって、ゴールとなって川崎に先制点が入ります。
後半はあれほど脅威だった大迫になかなかボールが入らない展開になってきます。前半で意図しない布陣変更があったことも、神戸としてはゲームプランと異なる試合を強いられる要因の一つだったことでしょう。もっとも、リーグ戦の試合ならビハインドになった瞬間にベンチが動くでしょうが、この試合を調整試合の一環と見てか、神戸の交代は後半25分に、扇原とパトリッキを下げて広瀬と井手口を入れるまで待ちました。
神戸はパワープレーなど、無理に勝ちに行くオプションは見せず、試合はそのまま1-0で川崎の勝利に終わりました。ACLの都合でメンバーが落ちていた川崎の勝利は多少驚きではありましたが、神戸としても内容はそんなに悪くないと割り切れた試合だったのではと振り返ります。
オフネタ恒例の昔の代表戦は、1997年のW杯最終予選、日本対韓国の記憶です。当時の試合はホームアンドアウエー方式で行われた第3戦でした。ここまで1勝1分けで来た日本代表は、この韓国戦を勝てば夢のW杯予選通過がある程度見えてくる試合でした。この試合の直前に、Jリーグのベルマーレ平塚でプレーしていたブラジル出身FW呂比須の帰化が認められて、秘密兵器の期待を集めていました。
当時日本を率いていた加茂監督は、呂比須をいきなりスタメンで起用してきました。もちろん韓国サイドもそれは予想していて、カズに崔英一を、呂比須に李敏成をマンツーマンで付ける、当時韓国で主流だった「根性サッカー」で試合を膠着状態に持ち込む狙いがありました。サイドハーフの中田英寿や名波浩にもマークがつく、がちがちの試合が展開されることになります。
先制点は日本に入りました。このマンツーマンでマークされていなかった、ボランチの山口素弘が上がっていき、放ったループシュートが韓国ゴールを揺らしました。この試合は国立競技場が通路まで一杯になる史上最高の熱気を受けて行われており、当時スタンドにいた自分にとって、こんな雰囲気の試合は初めてでした。
そんな熱気は、加茂監督にも何らかの影響を与えたかもしれません。史上最大の采配ミスは、残り17分ほど残して、FWの呂比須を下げてDFの秋田を投入した采配でした。スタンドのサポも、「守り切るには長すぎないか?」と微妙な雰囲気になっていました。秋田も、高正云をマークしろという指示で入っていながら、その高正云が交代していたという不可解な采配ミスでした。
呂比須が交代したことで自陣への脅威が減少した韓国は、残り時間を攻め立てました。徐正源のヘディングシュートで同点に追いつかれると、最後はマークする呂比須がいなくなって上がることができた、李敏成のミドルシュートが決勝点になりました。あれだけの熱気が嘘のように、国立競技場は落胆と失望で静まり返ってしまいました。
もちろん、今振り返ればこの最終予選は韓国に勝つことが目的ではなく、予選を通ることが目的です。グループ2位になれば第三代表決定戦や豪州とのプレーオフもありました。それでも、まだ若かった私はこの負けを自分の中で消化できず、あてどもなく街をさまよったような、昔の記憶です。
当時日本を率いていた加茂監督は、呂比須をいきなりスタメンで起用してきました。もちろん韓国サイドもそれは予想していて、カズに崔英一を、呂比須に李敏成をマンツーマンで付ける、当時韓国で主流だった「根性サッカー」で試合を膠着状態に持ち込む狙いがありました。サイドハーフの中田英寿や名波浩にもマークがつく、がちがちの試合が展開されることになります。
先制点は日本に入りました。このマンツーマンでマークされていなかった、ボランチの山口素弘が上がっていき、放ったループシュートが韓国ゴールを揺らしました。この試合は国立競技場が通路まで一杯になる史上最高の熱気を受けて行われており、当時スタンドにいた自分にとって、こんな雰囲気の試合は初めてでした。
そんな熱気は、加茂監督にも何らかの影響を与えたかもしれません。史上最大の采配ミスは、残り17分ほど残して、FWの呂比須を下げてDFの秋田を投入した采配でした。スタンドのサポも、「守り切るには長すぎないか?」と微妙な雰囲気になっていました。秋田も、高正云をマークしろという指示で入っていながら、その高正云が交代していたという不可解な采配ミスでした。
呂比須が交代したことで自陣への脅威が減少した韓国は、残り時間を攻め立てました。徐正源のヘディングシュートで同点に追いつかれると、最後はマークする呂比須がいなくなって上がることができた、李敏成のミドルシュートが決勝点になりました。あれだけの熱気が嘘のように、国立競技場は落胆と失望で静まり返ってしまいました。
もちろん、今振り返ればこの最終予選は韓国に勝つことが目的ではなく、予選を通ることが目的です。グループ2位になれば第三代表決定戦や豪州とのプレーオフもありました。それでも、まだ若かった私はこの負けを自分の中で消化できず、あてどもなく街をさまよったような、昔の記憶です。
今度のGWに乗ろうかと画策しているのが、写真の東北新幹線「はやぶさ」です。私の少年時代の新幹線は東海道、山陽新幹線で、当時は時速210kmでした。それでも名古屋まで2時間を切れる速さは驚異的でしたが、今の東北新幹線は時速320km運転ができます。大宮駅で新幹線に乗り、発車すると8分で利根川を越え、15分で宇都宮を通過し、30分で福島県に入ります。
東北新幹線に乗るときは、車窓から見える東北の名峰が楽しみです。まず日光の男体山が見えてきますが、安達太良山、蔵王連峰、岩手山などを見渡すことも可能です。盛岡まではほぼ高架橋の上なので、岩手山までは写真に撮ることも可能ですが、盛岡を過ぎるとトンネルが多くなり、八甲田山はほんの一瞬しか見えず難易度はかなり高いです。それでも、昭和の名曲「津軽海峡冬景色」では夜行列車で一晩かけて行く青森が、今や3時間ちょっとで着くようになりました。
少年時代、東海道新幹線に乗るときはビュッフェに行って旅の雰囲気を堪能するのが楽しみでしたが、今の東北新幹線には残念ながらそういう楽しみはないです。その代わりとして、車内販売でやってくるワゴンで、ホットコーヒーを注文して飲むことで、少し旅気分を味わうのが前回のパターンでした。さて、今度の旅はどんな旅になるか、こうやっていろいろ考えているときが楽しい時間ですね。
東北新幹線に乗るときは、車窓から見える東北の名峰が楽しみです。まず日光の男体山が見えてきますが、安達太良山、蔵王連峰、岩手山などを見渡すことも可能です。盛岡まではほぼ高架橋の上なので、岩手山までは写真に撮ることも可能ですが、盛岡を過ぎるとトンネルが多くなり、八甲田山はほんの一瞬しか見えず難易度はかなり高いです。それでも、昭和の名曲「津軽海峡冬景色」では夜行列車で一晩かけて行く青森が、今や3時間ちょっとで着くようになりました。
少年時代、東海道新幹線に乗るときはビュッフェに行って旅の雰囲気を堪能するのが楽しみでしたが、今の東北新幹線には残念ながらそういう楽しみはないです。その代わりとして、車内販売でやってくるワゴンで、ホットコーヒーを注文して飲むことで、少し旅気分を味わうのが前回のパターンでした。さて、今度の旅はどんな旅になるか、こうやっていろいろ考えているときが楽しい時間ですね。
地元さいたま市で見かけるカワセミですが、時間があるときは少し立ち止まって、飛び立つ瞬間を待ちます。このときはカワセミが空中でホバリングして、いよいよ餌を取ろうと水の中に飛び込もうとする間際です。自分のカメラでも、被写体が止まっていればそこそこ撮れるので、こんな写真が可能でした。
ネタのないオフの時期は、困ったときの昔の力士ネタで、写真の元大関魁皇の浅香山親方の記憶です。魁皇は福岡県の筑豊炭田があった直方市の出身で、大相撲には中学を卒業して入門しました。入門当時は普通の体格で、この一般人がのちの大関と予想した人は皆無だったと思われます。魁皇の記録には史上2位となる、通算勝利数1047勝があります。
もっとも、それまで史上1位だった千代の富士の1045勝は、強さで達成した記録でした。魁皇の場合は、39歳まで現役だった驚異的な力士寿命の長さで達成した記録で、千代の富士の記録とは意味合いが違います。事実、魁皇自身も「勝ち星の数で上回ったと言っても、あの大横綱を上回ったことにはならない」と認めています。のちにこれを更新した白鵬は、正真正銘の強さで達成した記録でした。
それでも、魁皇は大関以下の力士では最多となる、5回の優勝を誇る強い大関でした。たまたま、その優勝が連続していなかったことで横綱になっていない不運もあった力士です。また、魁皇の時代は、横綱昇進のためには絶対に連続優勝しなければならないと角界がかたくなだった時代という、不運もありました。それでも、横綱に上がっていないから39歳まで取れたということは言えます。
相撲ぶりは左四つ右上手から繰り出す上手投げが強い力士でした。魁皇の若手時代、当時の最強横綱貴乃花に、四つ相撲で勝つことができた唯一の力士でした。魁皇が勝つときは右上手を引いてすぐに投げを打ったときでしたが、リンゴを握り潰せる、ビールケースを中身が入った状態で片手で2個持てるなど、怪力伝説を持っていた魁皇らしい勝ち方でした。
もっとも、どうしても最高位が大関の力士は、晩年のカド番の連続がイメージに残ってしまいがちです。魁皇の場合はその怪力に体が耐えられなくなる負傷休場が多かった記憶です。カド番回数11回と、何度も陥落寸前に追い込まれた大関でしたが、カド番の7勝7敗で当時の小結白鵬に勝って辛くもカド番を脱出した取組の印象もあります。
魁皇は福岡県出身ということもあって、地元の九州場所では絶大な人気を誇っていました。九州の人は魁皇の勝敗は気にしていると、当時は言われていたことを思い出しました。その5回の優勝の中に、地元九州場所がなかったことは、彼が相撲に残したほんのちょっとの悔いだったかもしれません。
もっとも、それまで史上1位だった千代の富士の1045勝は、強さで達成した記録でした。魁皇の場合は、39歳まで現役だった驚異的な力士寿命の長さで達成した記録で、千代の富士の記録とは意味合いが違います。事実、魁皇自身も「勝ち星の数で上回ったと言っても、あの大横綱を上回ったことにはならない」と認めています。のちにこれを更新した白鵬は、正真正銘の強さで達成した記録でした。
それでも、魁皇は大関以下の力士では最多となる、5回の優勝を誇る強い大関でした。たまたま、その優勝が連続していなかったことで横綱になっていない不運もあった力士です。また、魁皇の時代は、横綱昇進のためには絶対に連続優勝しなければならないと角界がかたくなだった時代という、不運もありました。それでも、横綱に上がっていないから39歳まで取れたということは言えます。
相撲ぶりは左四つ右上手から繰り出す上手投げが強い力士でした。魁皇の若手時代、当時の最強横綱貴乃花に、四つ相撲で勝つことができた唯一の力士でした。魁皇が勝つときは右上手を引いてすぐに投げを打ったときでしたが、リンゴを握り潰せる、ビールケースを中身が入った状態で片手で2個持てるなど、怪力伝説を持っていた魁皇らしい勝ち方でした。
もっとも、どうしても最高位が大関の力士は、晩年のカド番の連続がイメージに残ってしまいがちです。魁皇の場合はその怪力に体が耐えられなくなる負傷休場が多かった記憶です。カド番回数11回と、何度も陥落寸前に追い込まれた大関でしたが、カド番の7勝7敗で当時の小結白鵬に勝って辛くもカド番を脱出した取組の印象もあります。
魁皇は福岡県出身ということもあって、地元の九州場所では絶大な人気を誇っていました。九州の人は魁皇の勝敗は気にしていると、当時は言われていたことを思い出しました。その5回の優勝の中に、地元九州場所がなかったことは、彼が相撲に残したほんのちょっとの悔いだったかもしれません。
昭和記念公園まで梅を見に行ってきました。この時期は早咲きの野梅系の花が多く、「八重野梅(白梅)」「大盃(紅梅)」などが主な品種です。遅咲き品種はまだつぼみで、遅咲き品種に切り替わりながら3月頭くらいまでは梅を楽しむことができます。梅はちょっとですが香りがあり、マスクを外して五感で梅の雰囲気を味わってきました。

八重野梅

道知辺(みちしるべ)

大盃

八重野梅

大盃

大盃

八重野梅

月影

寒衣

長束

錦光

八重寒梅

冬至

鹿児島紅

八重野梅

道知辺(みちしるべ)

大盃

八重野梅

大盃

大盃

八重野梅

月影

寒衣

長束

錦光

八重寒梅

冬至

鹿児島紅
冬の晴れ間の3連休、昭和記念公園まで花の写真を撮りに出かけていました。その中では最大の目的は写真のセツブンソウ(節分草)です。山野草ですが、最近は自生している箇所は少なくなってきています。ここ、昭和記念公園では雑草を抜くなど、多少人の手が入って管理されているので自生ではないですが、どこに咲くかは覚えているのでここを目指して毎回歩いています。
花の白い部分はがくで、本当の花は真ん中にある青い部分です。写真にするときは、この青い部分を入れないと出来に満足できないので、できるだけカメラの位置を下げて、撮ってからトリミングで拡大しています。



花の白い部分はがくで、本当の花は真ん中にある青い部分です。写真にするときは、この青い部分を入れないと出来に満足できないので、できるだけカメラの位置を下げて、撮ってからトリミングで拡大しています。



