わたしを呼びとめた青年の後について歩いた。舗装されていない路地に我々の影が長く伸びているにも関わらず、ジャイプルの太陽は、まだまだ強烈な暑さを放っていた。
彼は端正な顔をしていた。身なりもよく、革靴を履いていた。それはインドの街で見かける男とは違って、わたしを少し驚かせた。
その彼が、一体ボクになんの用なのか。
しばらく歩くと、彼は高層の建物の前で止まり、「ここだよ」と言って、自らの家の方向を指指した。高層といっても、5階建てくらいのビルである。けれど、インドにおいて集合住宅は珍しいものだった。
部屋は日本でいうところの団地のような雰囲気だった。ボクはリビングのテーブルについて、彼の言葉を待った。家には他の家族の姿はなかった。一人暮らしなのか、それとも家族と暮らしているのか、それすら判然としなかった。
「今、お茶を入れるよ」と言って、彼は奥の方に引っ込んだ。
わたしは、少し不安になった。ニューデリーのリンゴゲストハウスで見た貼り紙を思い出したからだ。恐らく、日本人が注意を喚起するために書いたと思われる、その貼り紙には、こんなことが書かれていた。
日本人2人のバックパッカーが、ジャイプルにて出会ったインド人に、毒物が入れられたチャイを飲み、一人が死亡、一人が重傷を負った。
まさか、その犯人が、この男ではあるまい。つい、おめおめと彼の家まで着いて来てしまったが。まさかではある。
しかしながら、彼の行動も怪しいといえば怪しい。何故、わたしをお茶に誘うのだろうか。しかも自宅に。
ここは、完全に密室だった。もし何かあった場合、誰かに助けを求めるのは、難しそうである。
逃げるなら今のうちだ。さぁ、行こうか。と思った瞬間、彼はティーカップを携え、戻ってきた。
「お待たせ」。
彼は、そう言って、ティーカップのひとつをわたしの目の前に置き、お茶を薦めた。
お茶は、立派なティーカップに似つかわしくなく、チャイだった。立ち上る湯気から、チャイのいい香りがしてくる。
「ありがとう」と言って、わたしはチャイを受け取った。さぁ、困ったことになった。チャイをいただくべきか。それとも、飲まないで遣り過ごすか。
彼は、一口自分のチャイをすすると、わたしに尋ねてきた。
「ジャイプルは気に入ったかい?」。
当たり障りのない質問だった。
わたしは、疑心暗鬼の気持ちを彼に悟られないよう、気をつけながら返答した。
「ジャイプルは、旅行者にとって、とてもタフな街だ」。
それを聞いて、彼は身を乗りだしてきた。
「へぇ、どんなところが?」
わたしは、言葉につまった。それをうまく説明できる英語力がなかったからだ。う~ん、と唸っていると、彼は心配そうな顔をして、「どうしたんだい?」と言い、わたしがまだチャイに口をつけていないことを確認すると、「チャイは嫌いかい?」と尋ねた。更に彼は「そんなに甘くないからさ。飲んでみてよ」と、言った。ただ、そう言われると、もうわたしには、反論する気力がなかった。
毒物が入っているならば、それはもうそれで仕方がないのかもしれない。わたしの旅はそこまでだっただけなのだ。
わたしは、ティーカップを口に持っていき、彼が作ったチャイを一口すすってみた。
俺なんか、商売以外であっても、接してくる人たちの殆どを、詐欺師か悪いやつと疑いまくることで、リスクを回避するというのが基本だったから、現地の人達とはほとんど触れ合えなかった。
それができるようになったのは、純粋な旅行ではなく、パラグライダーの大会とかで行った先の、同じフライヤーの人たちとの触れ合いからだったなあ。
しかし、インドで集合住宅に行くという体験は、かなり貴重だと思うよ。
そういう師から見たら、自分はさぞ無防備に見えるだろうね。
自分の場合、間口は広く、かな。そこから怪しくなったら離れるという、ヒット&アウェイみたいな。ただ、間口のところでやられちゃったら、元も子もないんだけどね。
インドにいたとき、クリップを自分で曲げて、そこに小さな南京錠を引っ掛けた自作のピアスをしていたよ。多くのインド人が「その鍵はなんだい?」って聞いてきて、自分は「心を開く鍵だ」と言ってたのは、心をオープンにしようと心がけていたんだろうなぁ。
しかし、「心を開く鍵だ。」って、外国旅行中でないと言えないセリフのような気がする。(笑)
心を開く鍵。
若かったね。
でも、そういう振る舞いが、この旅における自分のテーマだったと思う。