翌日、わたしは6時に起床し、7時に出発するビエンチャン行きのバスに乗るため、ルアンパバンのバスターミナルまで小走りに向った。
わたしは、とても緊張していた。
何故ならば、ルアンパバン、ビエンチャン間の国道13号線はかなり危険なことで有名だったからである。
武装した山賊が出るということをわたしは複数のバックパッカー仲間から聞かされていたのだ。
事実、半年程前に武装グループが出没し、外国人1名を含む5名が殺害される事件が発生したという。この話を聞いて、わたしはすっかりビビッてしまったのである。
そんな不安を抱えながら、わたしはバスターミナルに急いだ。
だが、バスターミナルはターミナルと言ってしまっては恥ずかしいくらいの小さなものだった。舗装などはされておらず、あちこち草が茫漠と生えており、単なる広っぱにしか見えない代物だった。
それを決して否定しているわけではないが、そのあっけらかんとした風景はラオスという国をまさに象徴しているように感じた。
ターミナルには既にバスが待っており、多くの人が乗り込んでいるのがよく分かった。意外だったのは、バスの形である。
中国やヴェトナムでよく見かけたミニバスの類ではなく、さりとてタイでポピュラーなデラックスバスというものでもない。
パクセと呼ばれるラオスのバスはボンネットのトラックのキャブに荷台を屋根付きの客席に改造したものである。しかもあおりの部分に派手な絵が描かれている。
わたしは、既に満員の客席に入り、開いている席を目で探した。シートはベンチシートのようになっていて、ひとつの席は4人掛けになっている。
欧米のバックパッカーの姿もあったが、その多くはラオス人のようであった。
バックパッカーらはわたしを見てもなんの反応もなかったが、ラオスのおばちゃんらはなんとか、わたしに席をこしらえるために、無理しながら席をつめ、わたしが座れるだけの隙間を作ってくれた。
わたしは、お礼をいいながらその狭い隙間に入っていったのだが、驚くことにこの席は木製であり、しかも直角の椅子であったのだ。
やがてバスが発車すると、ビエンチャンに向けて出発した。
ラオスの道も舗装などされておらず、自然に固められた硬い台地の上をバスはいった。
バスの板バネがへたっているのか、それとも道路事情に難があるのか、しばらくすると案の定わたしの尻と背中が痛くなってきた。
しかも、おばちゃんたちに挟まれ窮屈だし、だいいちタバコが吸えない。
席を作ってくれたおばちゃんたちに悪いが、1時間でバスの旅に嫌気がさしてきたのであった。
ビエンチャンまでは約10時間の旅である。
山賊の件といい、窮屈な車内といい、わたしはすっかり暗たんたる気持ちになってしまったのである。
バスは更に小一時間ほど走ると、休憩のため小さな食堂の前で止まった。
わたしも足を伸ばしたく外へ出てみて、バスを見上げると何人かの人がバスのルーフに座っているのが見えた。
わたしは、彼らに声をかけた。
「オレもそこに座っていいか」
と聞くと、彼らのうちの一人が「おれ達は荷物係りさ。ここは座席じゃないから無理だ」と返してきた。
幾つか押し問答をしたが、全くらちが明かないので、わたしは実力行使でバスのラダーをのぼり、ルーフに上がり込んでみた。
「なぁ、なんとかならねえか?」
と聞くと、仲間の一人が苦笑しながら「仕方ねぇなぁ」と言ってルーフに座ることを許可してくれた。
バスのルーフは快適だった。
日差しは強かったが、頬をなぶる風は気持ちよく、風景はどこまでものどかだった。
こんな穏やかなところで山賊は果たして本当に出るのかと思えるほど、平穏な風景だった。
山賊は外国人旅行者の外貨が目的であろう。
そう考えると、ビエンチャン行きのバスは格好の標的といえる。
出たときはもう仕方ない。
そう思えるようになったのは、バスのルーフでゆったりと過ごし、気持ちに余裕が出てきたからであろう。
バスに乗ってどのくらいの時間が経っただろうか。
午後の2時頃になり、最も危険地帯といわれる地域に差し掛かったとき、急に空模様が怪しくなってきた。
山の向こうをみると黒い雲が間近に迫っている。
その瞬間、突然雨が降り始めた。
ラオス人のポーターらはこんなこともあろうかとブルーシートを用意しており、乗客の荷物にシートをかけ始めた。
わたしも手伝いながら、シートの下にもぐりこんだ。
スコールのような大雨だった。
じっとうずくまり、雨をよけながら、長い間、わたしは息を潜めた。
雨は30分ほどで、小雨になり、わたしはブルーシートの隙間から外をみやると、その向こうに大きな虹がかかっているのを見た。
恐ろしく大きな虹でくっきりと我々の目の前にそれは現れていた。
この世のものとは思えない美しい光景にわたしはただ見入るばかりであった。
その神々しい虹を見上げていると、突然頭の中に「もういいかな」という思いが広がった。
ロンドンまで駆け足で行く必要などないのだ。
ゆっくりと足を進めて、気の済むまで旅をすればいいではないか。
一度二度と日本に帰国してもまた、続きをそこから始めればいいではないか。
わたしの頭の中にそんな思いが突然広がったのである。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
わたしは、とても緊張していた。
何故ならば、ルアンパバン、ビエンチャン間の国道13号線はかなり危険なことで有名だったからである。
武装した山賊が出るということをわたしは複数のバックパッカー仲間から聞かされていたのだ。
事実、半年程前に武装グループが出没し、外国人1名を含む5名が殺害される事件が発生したという。この話を聞いて、わたしはすっかりビビッてしまったのである。
そんな不安を抱えながら、わたしはバスターミナルに急いだ。
だが、バスターミナルはターミナルと言ってしまっては恥ずかしいくらいの小さなものだった。舗装などはされておらず、あちこち草が茫漠と生えており、単なる広っぱにしか見えない代物だった。
それを決して否定しているわけではないが、そのあっけらかんとした風景はラオスという国をまさに象徴しているように感じた。
ターミナルには既にバスが待っており、多くの人が乗り込んでいるのがよく分かった。意外だったのは、バスの形である。
中国やヴェトナムでよく見かけたミニバスの類ではなく、さりとてタイでポピュラーなデラックスバスというものでもない。
パクセと呼ばれるラオスのバスはボンネットのトラックのキャブに荷台を屋根付きの客席に改造したものである。しかもあおりの部分に派手な絵が描かれている。
わたしは、既に満員の客席に入り、開いている席を目で探した。シートはベンチシートのようになっていて、ひとつの席は4人掛けになっている。
欧米のバックパッカーの姿もあったが、その多くはラオス人のようであった。
バックパッカーらはわたしを見てもなんの反応もなかったが、ラオスのおばちゃんらはなんとか、わたしに席をこしらえるために、無理しながら席をつめ、わたしが座れるだけの隙間を作ってくれた。
わたしは、お礼をいいながらその狭い隙間に入っていったのだが、驚くことにこの席は木製であり、しかも直角の椅子であったのだ。
やがてバスが発車すると、ビエンチャンに向けて出発した。
ラオスの道も舗装などされておらず、自然に固められた硬い台地の上をバスはいった。
バスの板バネがへたっているのか、それとも道路事情に難があるのか、しばらくすると案の定わたしの尻と背中が痛くなってきた。
しかも、おばちゃんたちに挟まれ窮屈だし、だいいちタバコが吸えない。
席を作ってくれたおばちゃんたちに悪いが、1時間でバスの旅に嫌気がさしてきたのであった。
ビエンチャンまでは約10時間の旅である。
山賊の件といい、窮屈な車内といい、わたしはすっかり暗たんたる気持ちになってしまったのである。
バスは更に小一時間ほど走ると、休憩のため小さな食堂の前で止まった。
わたしも足を伸ばしたく外へ出てみて、バスを見上げると何人かの人がバスのルーフに座っているのが見えた。
わたしは、彼らに声をかけた。
「オレもそこに座っていいか」
と聞くと、彼らのうちの一人が「おれ達は荷物係りさ。ここは座席じゃないから無理だ」と返してきた。
幾つか押し問答をしたが、全くらちが明かないので、わたしは実力行使でバスのラダーをのぼり、ルーフに上がり込んでみた。
「なぁ、なんとかならねえか?」
と聞くと、仲間の一人が苦笑しながら「仕方ねぇなぁ」と言ってルーフに座ることを許可してくれた。
バスのルーフは快適だった。
日差しは強かったが、頬をなぶる風は気持ちよく、風景はどこまでものどかだった。
こんな穏やかなところで山賊は果たして本当に出るのかと思えるほど、平穏な風景だった。
山賊は外国人旅行者の外貨が目的であろう。
そう考えると、ビエンチャン行きのバスは格好の標的といえる。
出たときはもう仕方ない。
そう思えるようになったのは、バスのルーフでゆったりと過ごし、気持ちに余裕が出てきたからであろう。
バスに乗ってどのくらいの時間が経っただろうか。
午後の2時頃になり、最も危険地帯といわれる地域に差し掛かったとき、急に空模様が怪しくなってきた。
山の向こうをみると黒い雲が間近に迫っている。
その瞬間、突然雨が降り始めた。
ラオス人のポーターらはこんなこともあろうかとブルーシートを用意しており、乗客の荷物にシートをかけ始めた。
わたしも手伝いながら、シートの下にもぐりこんだ。
スコールのような大雨だった。
じっとうずくまり、雨をよけながら、長い間、わたしは息を潜めた。
雨は30分ほどで、小雨になり、わたしはブルーシートの隙間から外をみやると、その向こうに大きな虹がかかっているのを見た。
恐ろしく大きな虹でくっきりと我々の目の前にそれは現れていた。
この世のものとは思えない美しい光景にわたしはただ見入るばかりであった。
その神々しい虹を見上げていると、突然頭の中に「もういいかな」という思いが広がった。
ロンドンまで駆け足で行く必要などないのだ。
ゆっくりと足を進めて、気の済むまで旅をすればいいではないか。
一度二度と日本に帰国してもまた、続きをそこから始めればいいではないか。
わたしの頭の中にそんな思いが突然広がったのである。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
危険だと言われているところを行くのは、ほんとに緊張するよね。
しかし、通ってみると意外に大丈夫だったりする。
ただ、それは自分が大丈夫だっただけで、もしほんとに危ない目にあっていれば、「大丈夫だったよ。」と誰かにいうことすらできない事になっているかもしれない訳だよね。
当時そんな話しをバックパッカー仲間として、ぞっとしたことがあったなあ。
『アジアの藻屑になってもいい』と出てきたが、実際命を落とす危機を感じると実は本音は違うことに気づく。
オレはそれにがっかりすることが度々あったよ。