クリスマスを目前にした香港の街には、WHAM!が歌う「ラスト クリスマス」が流れ続けていた。
九龍はもちろん、尖沙咀、女人街、そして、油麻地。行くとこには必ずといっていいほど、ジョージ・マイケルの甘い歌声が流れていた。
無理もない。翌年の7月に香港は中国に返還される。
香港っ子の心情はどのような気持ちなのか計り知れなかったが、少なくとも英国領として迎える最後のクリスマスは英国人人気デュオが歌う調べと同じように軽快であったように思う。
わたしは、沢木耕太郎氏のように「熱にうかされた」とまではいかないまでも、香港の町を縦横に歩き回った。
とりわけ、夕方から夜にかけての九龍側の天星碼頭、つまりスターフェリーの乗り場が大好きだった。午後7時を過ぎると、紫がかった夕暮れが訪れ、やがて眼前の香港島のビル群に明かりが点る。仕事を終えた香港人が家族を連れ夕涼みに訪れ、ベイサイドは賑わう。メイドの仕事を終えたフィリピン人の女性も友人を誘い、ひとときの休息を取る。
わたしは毎日、ここに来ては数分おきに行き来するスターフェリーを眺め、タバコを吸いながら物思いにふけった。
香港でのわたしはかなり精力的に動いたほうだと思う。
だが、もっとアクティブな男がベッドの下段の野郎だった。
わたしが、朝8時くらいに起きると、もう既にその姿はなかった。
わたしは、その足でまず、近所のお粥屋に行き、粥と油条の朝食を摂る。そして、また宿に戻って、何かを飲みながら、タバコを吸う。そして、おもむろに地図を広げ、今日行くポイントを思案し、そして出かけてみる。
例えば、ヴィクトリアピーク。ケーブルカーを使わず徒歩で。
或いは男人街。地下鉄に乗って、徒歩で帰ってくる。または、香港島の泥棒市場など。
それでも、行って帰ってくると大抵午後1時か、2時。腹が空けば、麺屋で安い汁麺を食べたし、宿に帰って近所のホカ弁で済ませたりした。
しかし、ベッドの下段の男は帰ってきた気配がない。そうして、決まって夜遅くまで戻ってこないのである。朝早くからどこに行っているのだろう。
「よくも、疲れないナ」と感心したほどである。
夜遅くなって帰ってきても、奴は一言も発することなく、シャワーを浴びて、寝床に戻り、日記らしきものをつけて就寝する。無口なのか、協調性がないのか、とにかくよく分からないが、まさに文字通り!「沈黙の艦隊」だった。
そんな日が2日ばかし続いた。
その「沈黙の艦隊」と初めて話しをしたのは翌日のこと。クリスマスイブの前日のことだった。その日は、どういういきさつだったか、宿に同宿した連中数人と旅行代理店へ行くことになった。どうやら、日本人御用達の代理店があって、そこに行くのがそのゲストハウスの伝統であるようだった。
わたしはヴェトナムのヴィザを取得しに、その仲間の輪の中に入り、そこにベッド下段の「沈黙の艦隊」もついてきていた。
わたしと「沈黙の艦隊」がお互いヴェトナムヴィザを取得しに行くことが数人の仲間内で話しをするうちに分かった。
そこで、初めて話しの共通項が見つかり、お互い喋ったように思う。
話してみると、そんなに悪い奴ではなさそうだ。
その日を境に少しずつ、お互い心を開いていった。
わたしと彼はやや似たような性格だったのかもしれない。お互い、名前を名乗ったが、名前で呼ぶのはなんとなく気恥ずかしい。どちらかが言い出したか分からないが、お互いがお互いを「氏」と呼び始めた。それがいつしか「師」に変わっていったのである。共に長髪だったから、「尊師」の意味も込められていたのかもしれない。
ヴェトナムヴィザはクリスマス休暇ということで、発行は思っていたよりも長くはかかりそうだった。
香港は物価が高く、なるべく早めに脱出したかったが、ヴィザのおかげでどうやら12月29日頃まで足止めされる羽目になった。特に、宿代に10香港ドルもかかるのは痛かった。まだ、1週間も滞在するから出費は宿代だけで100香港ドルも召し上げられることになる。
さて、翌日はクリスマスイブだった。
九龍のあちらこちらにツリーや電飾がきれいに飾られている。
行き来するカップルたちは笑顔を振り撒きながら、ショーウインドゥを眺めたりしている。
仕事を辞め、日本の生活を放擲して海を渡ったのは、永年つきあった女性との別れからだった。
わたしは寂しかったのだ。
クリスマイブ当日、わたしは師を誘って街に繰り出した。
豪勢に使える金はお互い持ち合わせていなかったが、少しだけ体裁のよいバーのような店に入った。地元の人たちが利用する店ならきっと値段も高くないだろう。
タバコの煙が充満するなか、香港の男たちは皆サイコロに興じていた。サイコロがぶつかり転がる音の中でわたしと師は小瓶のバドワイザーをあおった。そして、1本だけ飲んで店を出た。
どちらかが、言い出したか、そのうちナンパをしようということになった。
しかし、いかんせん香港の言葉が分からない。
どうしようか、という段になったとき、彼はつかつかとベネトンのモデルのようなカラフルに着飾った香港女性に近寄って、こんな行動を取りはじめた。
右手の親指を突き立てた後、左手にお椀を持つ格好で右手をしゃくる。ちょうど、箸でご飯をかきこむような仕草だ。
だが、香港の女性は進路を妨害されたことに少しムッした表情を浮かべ、無視してすれ違った。
「なんだい?それは?」。
わたしは師に質問すると、彼はこう答えた。
「もし、よかったら飯でもどう?っていうゼスチャーさ」。
彼は香港の言葉が分からないがために、ボディランゲージに訴え出たのだ。
これが、今でも伝説になっている奥義。
「よかったら、飯でも」である。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん氏と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
鬼飛(おにとび)ブログ
九龍はもちろん、尖沙咀、女人街、そして、油麻地。行くとこには必ずといっていいほど、ジョージ・マイケルの甘い歌声が流れていた。
無理もない。翌年の7月に香港は中国に返還される。
香港っ子の心情はどのような気持ちなのか計り知れなかったが、少なくとも英国領として迎える最後のクリスマスは英国人人気デュオが歌う調べと同じように軽快であったように思う。
わたしは、沢木耕太郎氏のように「熱にうかされた」とまではいかないまでも、香港の町を縦横に歩き回った。
とりわけ、夕方から夜にかけての九龍側の天星碼頭、つまりスターフェリーの乗り場が大好きだった。午後7時を過ぎると、紫がかった夕暮れが訪れ、やがて眼前の香港島のビル群に明かりが点る。仕事を終えた香港人が家族を連れ夕涼みに訪れ、ベイサイドは賑わう。メイドの仕事を終えたフィリピン人の女性も友人を誘い、ひとときの休息を取る。
わたしは毎日、ここに来ては数分おきに行き来するスターフェリーを眺め、タバコを吸いながら物思いにふけった。
香港でのわたしはかなり精力的に動いたほうだと思う。
だが、もっとアクティブな男がベッドの下段の野郎だった。
わたしが、朝8時くらいに起きると、もう既にその姿はなかった。
わたしは、その足でまず、近所のお粥屋に行き、粥と油条の朝食を摂る。そして、また宿に戻って、何かを飲みながら、タバコを吸う。そして、おもむろに地図を広げ、今日行くポイントを思案し、そして出かけてみる。
例えば、ヴィクトリアピーク。ケーブルカーを使わず徒歩で。
或いは男人街。地下鉄に乗って、徒歩で帰ってくる。または、香港島の泥棒市場など。
それでも、行って帰ってくると大抵午後1時か、2時。腹が空けば、麺屋で安い汁麺を食べたし、宿に帰って近所のホカ弁で済ませたりした。
しかし、ベッドの下段の男は帰ってきた気配がない。そうして、決まって夜遅くまで戻ってこないのである。朝早くからどこに行っているのだろう。
「よくも、疲れないナ」と感心したほどである。
夜遅くなって帰ってきても、奴は一言も発することなく、シャワーを浴びて、寝床に戻り、日記らしきものをつけて就寝する。無口なのか、協調性がないのか、とにかくよく分からないが、まさに文字通り!「沈黙の艦隊」だった。
そんな日が2日ばかし続いた。
その「沈黙の艦隊」と初めて話しをしたのは翌日のこと。クリスマスイブの前日のことだった。その日は、どういういきさつだったか、宿に同宿した連中数人と旅行代理店へ行くことになった。どうやら、日本人御用達の代理店があって、そこに行くのがそのゲストハウスの伝統であるようだった。
わたしはヴェトナムのヴィザを取得しに、その仲間の輪の中に入り、そこにベッド下段の「沈黙の艦隊」もついてきていた。
わたしと「沈黙の艦隊」がお互いヴェトナムヴィザを取得しに行くことが数人の仲間内で話しをするうちに分かった。
そこで、初めて話しの共通項が見つかり、お互い喋ったように思う。
話してみると、そんなに悪い奴ではなさそうだ。
その日を境に少しずつ、お互い心を開いていった。
わたしと彼はやや似たような性格だったのかもしれない。お互い、名前を名乗ったが、名前で呼ぶのはなんとなく気恥ずかしい。どちらかが言い出したか分からないが、お互いがお互いを「氏」と呼び始めた。それがいつしか「師」に変わっていったのである。共に長髪だったから、「尊師」の意味も込められていたのかもしれない。
ヴェトナムヴィザはクリスマス休暇ということで、発行は思っていたよりも長くはかかりそうだった。
香港は物価が高く、なるべく早めに脱出したかったが、ヴィザのおかげでどうやら12月29日頃まで足止めされる羽目になった。特に、宿代に10香港ドルもかかるのは痛かった。まだ、1週間も滞在するから出費は宿代だけで100香港ドルも召し上げられることになる。
さて、翌日はクリスマスイブだった。
九龍のあちらこちらにツリーや電飾がきれいに飾られている。
行き来するカップルたちは笑顔を振り撒きながら、ショーウインドゥを眺めたりしている。
仕事を辞め、日本の生活を放擲して海を渡ったのは、永年つきあった女性との別れからだった。
わたしは寂しかったのだ。
クリスマイブ当日、わたしは師を誘って街に繰り出した。
豪勢に使える金はお互い持ち合わせていなかったが、少しだけ体裁のよいバーのような店に入った。地元の人たちが利用する店ならきっと値段も高くないだろう。
タバコの煙が充満するなか、香港の男たちは皆サイコロに興じていた。サイコロがぶつかり転がる音の中でわたしと師は小瓶のバドワイザーをあおった。そして、1本だけ飲んで店を出た。
どちらかが、言い出したか、そのうちナンパをしようということになった。
しかし、いかんせん香港の言葉が分からない。
どうしようか、という段になったとき、彼はつかつかとベネトンのモデルのようなカラフルに着飾った香港女性に近寄って、こんな行動を取りはじめた。
右手の親指を突き立てた後、左手にお椀を持つ格好で右手をしゃくる。ちょうど、箸でご飯をかきこむような仕草だ。
だが、香港の女性は進路を妨害されたことに少しムッした表情を浮かべ、無視してすれ違った。
「なんだい?それは?」。
わたしは師に質問すると、彼はこう答えた。
「もし、よかったら飯でもどう?っていうゼスチャーさ」。
彼は香港の言葉が分からないがために、ボディランゲージに訴え出たのだ。
これが、今でも伝説になっている奥義。
「よかったら、飯でも」である。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん氏と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
鬼飛(おにとび)ブログ
あの伝説の「良かったら飯でも。」に、そんな由来があったとは、俺が考えたにもかかわらず、すっかり忘れていて興味深かったよ。
俺、たまに面白いことしてるんだな。(苦笑)
なお、言い訳すると、多分、さっぱり盛り上がらない根性なしナンパを笑いでごまかそうとして一発やらかしたんじゃないかと思うよ。
明らかに玉砕覚悟だし。ただのあぶない変なおっさんでしかないもんなあ・・・。(笑)
玉砕覚悟ではなかったな。
マジ狙いだったぞ。
しかし、香港では食べ物についてはあまり思い出さないね。
ジャンクフードばかり食べてたからかな。
飲茶は1回しか行ってないしね。
師はどうだい?
そういえば飲茶いったねえ。ケチケチ飲茶。(苦笑)今思えばあそこまでケチらないでもうちょっと普通にすりゃ良かったと思うよ。
俺も飲茶は一回だけだったね。何のセットを頼んでも同じ金額だったマクドでは、ビッグマックセットを連続したけどね。
確か師もかなりの回数マクドかましてなかったっけ?俺も結構行ったけど、で、マクド回数自慢みたいなのをしたような記憶があるんだけど・・・。
あと、吉野家にも行ったなあ、二人で。(苦笑)
一度、『釣り銭足りねー』ってクレームつけて、アルバイトの子を泣かしたことがある。よくよく考えたら、自分の勘違いだった(苦笑)。確か、マクドっていう関西のイントネーションを師から叩きこまれたのも香港だったね。
次回はいよいよ年末の香港だな。