「延長」と「再取得」によって発生したヴィザ代の出費は予想外だったが、ホーチミンの暮らしはその対価を払ってもお釣りがくるように感じた。すっかりフォングーラオ通りの人々と顔見知りになれたからだ。
その中でも最も心を通わすことができたのが、ガイドのトンさん(田口ランディさんの著作「忘れないよヴェトナム」<幻冬舎文庫>に出てくるトンさんとは別人)だった。歳の頃は50歳前半。ヴェトナム人らしく、小柄の体躯だった。彼は容貌こそ怪しかったが、いつも笑顔を絶やさず、様々なことをわたしに教えてくれた。おいしい春巻屋さんから、ヴェトナム人の気質まで、話題が豊富でその話しは飽きることがなかった。
そんなトンさんだったが、話しをしているとフッと寂しげな表情することがしばしばあった。
その日もトンさんと話しをしていると、ふとしたきっかけで彼の息子さんの話しになった。
そうか、トンさんにも家族があるんだ、などと思いながら「その息子さんは今、何をしているの?」と尋ねると、トンさんは珍しく真顔になり、やりきれぬ表情を見せながら、地面を指差してこう言った。
「眠っているよ」。
しばし、トンさんとの間に沈黙の時間が流れた。
わたしが出会ったヴェトナム人は総じて皆気さくで優しかった。
だが、その笑顔の影には、言い知れぬ深い何かが潜んでいる気がした。それが何であるかはっきりとは分からない。だが、少なくとも約30年前に起こった戦争による爪痕は、平和が当たり前の日本人なんかが想像できる程容易なものではないだろう。
トンさんの息子さんがどうして亡くなったか、それもはっきりとは分からない。だが、愛する息子を不意に亡くした悲しみや憤りが、トンさんの心を曇らせていることは確かなことのようであり、今はいくら平和になろうとも、晴れない霧のようにヴェトナムで起きた戦争は人々に暗い影を未だに落としているような気がする。
開高健氏の「ベトナム戦記」(朝日文庫)に、「この国にはこういうことは容易にあり得る」として、次のような逸話が紹介されている。
「バク・リュウで一人の若い女が自殺した。家の裏庭に丸太を積み、ガソリンをかけて火を放ち飛び込んだのである。
彼女グェン・チュー・ハンは23歳で、夫もあり、、当年1歳の子もあった。(中略)15年前、彼女が8歳のとき、叛乱があって村が破壊された。苛烈なインドシナ戦争の無数の作戦の一つであろうと思われる。激しい夜間戦闘が行われ、村人ちりじりになって逃げた。8歳の少女であった彼女も父母に別れ、体ひとつで村から逃げ出した。その後彼女は父母兄弟にめぐあり会うことができず、街道から街道へ浮浪児としてさまよい歩いた。物乞いして垢まみれになってさまよううち、子供のいない老夫婦に拾われ、養女として育てられることになった。
バク・リュウにその後一家は移住し、やがて夫と知り合い結婚した。(中略)12月30日の夕方、子供の体を洗いながら夫とおたがいの幼年時代ことを話しあううちに、ハン女はまぎれもなく夫が15年前に行方不明になった兄であることを発見した。彼女はその場で失神し、さめたときに夜おそく自殺を決意した。
翌日、ハン女は裏庭に丸太を積み、ガソリンをかけて火を放ち、目を閉じて飛び込んだ。『運命は残酷ですけれど、はずかしさがたまらないのです』遺書にはそのような意味の1行が書き留めてあった。」
一方、今は平和そのもののこの街にも混乱の時は確実にあった。
「『見たか?一発でめちゃくちゃだ。』日焼けした顔が蒼ざめている。河畔のマジェスチックホテルにロケット砲弾が命中し、6階の食堂がやられたという。(中略)来合わせたK社の車に同乗して、国警本部付近のコンクィン通りの現場に行く。曲がりくねった路地の奥の庶民街の一角も、息をのむ惨状ぶりだ。たった2発で200m四方が廃墟と化している。『何人死者が出たんだ?』(中略)『たくさん死んだ』」。(近藤紘一氏の著書、「サイゴンの一番長い一日」より)
今、こうして欧米のバックパッカーや日本人の旅行者がこの通りを行き来するのを見ていると、それもなんだか信じられないような気持ちにさえなってくる。
サイゴンが陥落した1975年4月30日。一体、この町はどうなっていたのだろうか。そして、トンさんはその日一体どこで何をしていたのだろうか。
そういう思いを抱きながら、なおわたしはその後もダラダラとホーチミンで過ごしていた。
南ヴェトナムのハイライトともいえるメコンデルタに行くわけでもなく、ただただフォングーラオ通りにあるカフェで練乳が沈んだ冷たいコーヒーを飲みながら、安いヴェトナムタバコを吹かし、夜になれば、ビアホイでひとり乾杯してすごした。
ホーチミンに滞在して10日が過ぎたころだろうか。
トンさんが、真顔でわたしにお願いをしてきた。
「宿を探している日本人を見たら声をかけてオレのところに連れてきてほしい」。
報酬も出す、とトンさんは言ったが、金銭が介在すると面倒なことになる。報酬は辞退して、日本人に声をかける手伝いだけすることにした。
その日早速わたしは2人の日本人に声をかけて、トンさんとともに安宿に出向き、彼らに宿を斡旋した。
その宿は看板のない無許可の民宿のようなところだった。
翌日、いつものように朝8時に起きて、バインミーの屋台で朝食を済ませ、フラフラと辺りを散歩した後、いつものカフェでコーヒーを飲もうと席に着き、コーヒーをオーダーすると、いつも気さくな笑顔を見せていたウェイター君は厳しい表情でこう言った。
「NO!」
「ノー」とは一体どういうことだろう。わたしは、咄嗟にその言葉を理解できなかった。
まさか、コーヒーが品切れになることもあるまい。
わたしは、もう一度ウエイター君に「コーヒー」と言った。
だが、彼はわたしに背を向け店の奥に引っ込んでいった。
はて、一体どうしたことだろう。
仕方ない。次にわたしは、別の店に移り、また同じようにコーヒーを注文すると、またしても同じような扱いをされ、コーヒーはとうとう最後まで出てこなかった。
おかしい。何かがおかしい。
わたしが一体何をしたのか。考えに考えを巡らせてみたが、心当たりがない。
唯一、これが理由なのかな、と思えるのが、前日トンさんから依頼された宿の客引きだった。
要するにわたしが、客引きをしては都合の悪い人がいるのだ。
やはりわたしは単なる旅行者にすぎない。それが面白半分に彼らの生活の邪魔などしていいわけなどない。わたしはどうやら彼らの生活に立ち入りすぎたらしい。
もう、潮時かな。どうやら、わたしはつい長居をしすぎてしっまた。
気が付けば、このフォングーラオ通りに13日間も滞在してしまったのだ。
明日には、ここを出て行こう。
黄昏迫るフォングーラオ通りに佇みながら、わたしはそう思った。
そして、その足でわたしはシンカフェに赴き、翌日のカンボジア国境行きまでのバスチケットをブッキングした。
※写真はホーチミンのGPO(中央郵便局)でカッコつける熊猫刑事
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
その中でも最も心を通わすことができたのが、ガイドのトンさん(田口ランディさんの著作「忘れないよヴェトナム」<幻冬舎文庫>に出てくるトンさんとは別人)だった。歳の頃は50歳前半。ヴェトナム人らしく、小柄の体躯だった。彼は容貌こそ怪しかったが、いつも笑顔を絶やさず、様々なことをわたしに教えてくれた。おいしい春巻屋さんから、ヴェトナム人の気質まで、話題が豊富でその話しは飽きることがなかった。
そんなトンさんだったが、話しをしているとフッと寂しげな表情することがしばしばあった。
その日もトンさんと話しをしていると、ふとしたきっかけで彼の息子さんの話しになった。
そうか、トンさんにも家族があるんだ、などと思いながら「その息子さんは今、何をしているの?」と尋ねると、トンさんは珍しく真顔になり、やりきれぬ表情を見せながら、地面を指差してこう言った。
「眠っているよ」。
しばし、トンさんとの間に沈黙の時間が流れた。
わたしが出会ったヴェトナム人は総じて皆気さくで優しかった。
だが、その笑顔の影には、言い知れぬ深い何かが潜んでいる気がした。それが何であるかはっきりとは分からない。だが、少なくとも約30年前に起こった戦争による爪痕は、平和が当たり前の日本人なんかが想像できる程容易なものではないだろう。
トンさんの息子さんがどうして亡くなったか、それもはっきりとは分からない。だが、愛する息子を不意に亡くした悲しみや憤りが、トンさんの心を曇らせていることは確かなことのようであり、今はいくら平和になろうとも、晴れない霧のようにヴェトナムで起きた戦争は人々に暗い影を未だに落としているような気がする。
開高健氏の「ベトナム戦記」(朝日文庫)に、「この国にはこういうことは容易にあり得る」として、次のような逸話が紹介されている。
「バク・リュウで一人の若い女が自殺した。家の裏庭に丸太を積み、ガソリンをかけて火を放ち飛び込んだのである。
彼女グェン・チュー・ハンは23歳で、夫もあり、、当年1歳の子もあった。(中略)15年前、彼女が8歳のとき、叛乱があって村が破壊された。苛烈なインドシナ戦争の無数の作戦の一つであろうと思われる。激しい夜間戦闘が行われ、村人ちりじりになって逃げた。8歳の少女であった彼女も父母に別れ、体ひとつで村から逃げ出した。その後彼女は父母兄弟にめぐあり会うことができず、街道から街道へ浮浪児としてさまよい歩いた。物乞いして垢まみれになってさまよううち、子供のいない老夫婦に拾われ、養女として育てられることになった。
バク・リュウにその後一家は移住し、やがて夫と知り合い結婚した。(中略)12月30日の夕方、子供の体を洗いながら夫とおたがいの幼年時代ことを話しあううちに、ハン女はまぎれもなく夫が15年前に行方不明になった兄であることを発見した。彼女はその場で失神し、さめたときに夜おそく自殺を決意した。
翌日、ハン女は裏庭に丸太を積み、ガソリンをかけて火を放ち、目を閉じて飛び込んだ。『運命は残酷ですけれど、はずかしさがたまらないのです』遺書にはそのような意味の1行が書き留めてあった。」
一方、今は平和そのもののこの街にも混乱の時は確実にあった。
「『見たか?一発でめちゃくちゃだ。』日焼けした顔が蒼ざめている。河畔のマジェスチックホテルにロケット砲弾が命中し、6階の食堂がやられたという。(中略)来合わせたK社の車に同乗して、国警本部付近のコンクィン通りの現場に行く。曲がりくねった路地の奥の庶民街の一角も、息をのむ惨状ぶりだ。たった2発で200m四方が廃墟と化している。『何人死者が出たんだ?』(中略)『たくさん死んだ』」。(近藤紘一氏の著書、「サイゴンの一番長い一日」より)
今、こうして欧米のバックパッカーや日本人の旅行者がこの通りを行き来するのを見ていると、それもなんだか信じられないような気持ちにさえなってくる。
サイゴンが陥落した1975年4月30日。一体、この町はどうなっていたのだろうか。そして、トンさんはその日一体どこで何をしていたのだろうか。
そういう思いを抱きながら、なおわたしはその後もダラダラとホーチミンで過ごしていた。
南ヴェトナムのハイライトともいえるメコンデルタに行くわけでもなく、ただただフォングーラオ通りにあるカフェで練乳が沈んだ冷たいコーヒーを飲みながら、安いヴェトナムタバコを吹かし、夜になれば、ビアホイでひとり乾杯してすごした。
ホーチミンに滞在して10日が過ぎたころだろうか。
トンさんが、真顔でわたしにお願いをしてきた。
「宿を探している日本人を見たら声をかけてオレのところに連れてきてほしい」。
報酬も出す、とトンさんは言ったが、金銭が介在すると面倒なことになる。報酬は辞退して、日本人に声をかける手伝いだけすることにした。
その日早速わたしは2人の日本人に声をかけて、トンさんとともに安宿に出向き、彼らに宿を斡旋した。
その宿は看板のない無許可の民宿のようなところだった。
翌日、いつものように朝8時に起きて、バインミーの屋台で朝食を済ませ、フラフラと辺りを散歩した後、いつものカフェでコーヒーを飲もうと席に着き、コーヒーをオーダーすると、いつも気さくな笑顔を見せていたウェイター君は厳しい表情でこう言った。
「NO!」
「ノー」とは一体どういうことだろう。わたしは、咄嗟にその言葉を理解できなかった。
まさか、コーヒーが品切れになることもあるまい。
わたしは、もう一度ウエイター君に「コーヒー」と言った。
だが、彼はわたしに背を向け店の奥に引っ込んでいった。
はて、一体どうしたことだろう。
仕方ない。次にわたしは、別の店に移り、また同じようにコーヒーを注文すると、またしても同じような扱いをされ、コーヒーはとうとう最後まで出てこなかった。
おかしい。何かがおかしい。
わたしが一体何をしたのか。考えに考えを巡らせてみたが、心当たりがない。
唯一、これが理由なのかな、と思えるのが、前日トンさんから依頼された宿の客引きだった。
要するにわたしが、客引きをしては都合の悪い人がいるのだ。
やはりわたしは単なる旅行者にすぎない。それが面白半分に彼らの生活の邪魔などしていいわけなどない。わたしはどうやら彼らの生活に立ち入りすぎたらしい。
もう、潮時かな。どうやら、わたしはつい長居をしすぎてしっまた。
気が付けば、このフォングーラオ通りに13日間も滞在してしまったのだ。
明日には、ここを出て行こう。
黄昏迫るフォングーラオ通りに佇みながら、わたしはそう思った。
そして、その足でわたしはシンカフェに赴き、翌日のカンボジア国境行きまでのバスチケットをブッキングした。
※写真はホーチミンのGPO(中央郵便局)でカッコつける熊猫刑事
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
その日はヴェトナム中が「コーヒーを飲んじゃいけない日」とかだったらかなり笑える話しだけどそれはないだろうね。
それにしても師は客引きの手伝いを結構してるね。俺はそういう経験は全くなかったよ・・・。
しかし、もし、師が書いたように海外客用旅行業シンジケートみたいなのがあって、それで師がそんな扱いを受けたのであれば、中々怖い話しではあるねえ。
客引きを理由にしているのも、あくまで想像だ。
コーヒーを飲んじゃ行けない日っていう理由にしておくかな。
旅行者は軽々しく、変な話しに乗っちゃいけないね。
ひどいことになると、それこそ川に死体が浮かぶかもね。