日も明けきらない早朝に起き出して、雇ったバイクタクシーに飛び乗った。
舗装もされていない褐色の土を駆って、まだ暗い密林を走る。
宿から走ること15分。
アンコールワットの正門に着いた。
どうやら、日の出に間に合ったらしい。
既に何十人とも数えられないバックパッカーが集まり、今や遅し、固唾をのんでその時を待っている。
しばらくすると、空に明るみが射してきた。そして、中央祠堂がの先端から一筋の光が射し込むと、人だかりから歓声があがる。
それは、まさに息を飲む神々しさであった。
シェムリアップに到着して3日目、ようやくわたしはバイクタクシーのある男と契約を結んだ。
契約というほど大それたものではないが、とにかくアンコールワット遺跡群をまる2日間に渡り、チャーターしたのである。
アジアを旅する者にとって、「寺」はきっても切り離せない関係にある。
大抵の者なら、日々の暇つぶしに寺院巡りをすることは一度や二度ではないだろう。
長期滞在者なら、アジアの寺は食傷気味という輩は多い。わたしもそのうちの一人なのだが、このアンコール寺院群だけは別格だった。
寺の歴史などやアジア史などは全く知らず、ただミーハーなだけなのだが、アンコールともなれば、見逃す手はない。
実は、バイクタクシーの料金を値切るために無為に3日も費やしたが、実は金額なんていくらでもよかった。それだけ、アンコールに行く価値は高いと貧乏旅行者でも思っていたのである。
中央祠堂に燦々と太陽が昇り、アンコールの雄姿が少しずつ露になってくると、その圧倒的な存在感に、集まったバックパッカーたちは溜息とも、感嘆ともつかぬ声をあげるのであった。
アンコールは宇宙だった。
現代人には到底理解できない、天文や数学や人類史観や宗教観が渾然となったまるで宇宙のようだった。
わたしは夢中になって、アンコールを見て回った。
西参道の石畳、そして本殿、塔門テラス、沐浴場、スールヤヴァルマン2世の浮き彫り、第一回廊の乳海攪拌、そして第三回廊の連子窓など、その意味はよくは分からなかったが、わたしは時間を忘れて夢中になった。
途中、日本人ツアー客の一団を見つけては、どさくさにまぎれて日本人ガイドの声に耳をそばだてた。森本右近太夫一房という日本人が残したとされる15世紀の落書きは探すことはできなかったが、とにかく1日中、食事を忘れてわたしはアンコールに魅入ったのである。
翌日はアンコールだけでなく、アンコールトムのバイヨンやジャングルに侵食されたタ・プローム、タ・ケウ、そしてバンテアイ・クディやスラ・スランといったアンコール周辺の遺跡群にも足を運んだ。なにしろ、アンコール遺跡群には大小700もの遺跡があるとされる。とにかく、それらを全てくまなく見るためには、膨大な時間が必要であろう。 それを僅かバイタクとの契約の2日間で見ようというのだから、無理があるというものだ。
遺跡群に着くと男の子が近づいきててこんなことを言った。
「日本人かい?案内してあげるよ」
まだ、年端もいかない小さな子だった。わたしは小さな衝撃を受けた。中国やヴェトナムでは子供など近寄ってくることは皆無だった。だが、アンコールの近くに住む子供達は全く外国人に臆することなく話しかけてくる。確かに、ツーリストずれをしてるのだろう。そして、外国人の懐をあてにもしているのだろう。したたかではあるが、ガイドをしてお金を得ようとしている。それは、それで立派なことではないか。
そう思いながら曖昧な態度をとっていると、勝手に英語と日本語でガイドを始めるのだった。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
舗装もされていない褐色の土を駆って、まだ暗い密林を走る。
宿から走ること15分。
アンコールワットの正門に着いた。
どうやら、日の出に間に合ったらしい。
既に何十人とも数えられないバックパッカーが集まり、今や遅し、固唾をのんでその時を待っている。
しばらくすると、空に明るみが射してきた。そして、中央祠堂がの先端から一筋の光が射し込むと、人だかりから歓声があがる。
それは、まさに息を飲む神々しさであった。
シェムリアップに到着して3日目、ようやくわたしはバイクタクシーのある男と契約を結んだ。
契約というほど大それたものではないが、とにかくアンコールワット遺跡群をまる2日間に渡り、チャーターしたのである。
アジアを旅する者にとって、「寺」はきっても切り離せない関係にある。
大抵の者なら、日々の暇つぶしに寺院巡りをすることは一度や二度ではないだろう。
長期滞在者なら、アジアの寺は食傷気味という輩は多い。わたしもそのうちの一人なのだが、このアンコール寺院群だけは別格だった。
寺の歴史などやアジア史などは全く知らず、ただミーハーなだけなのだが、アンコールともなれば、見逃す手はない。
実は、バイクタクシーの料金を値切るために無為に3日も費やしたが、実は金額なんていくらでもよかった。それだけ、アンコールに行く価値は高いと貧乏旅行者でも思っていたのである。
中央祠堂に燦々と太陽が昇り、アンコールの雄姿が少しずつ露になってくると、その圧倒的な存在感に、集まったバックパッカーたちは溜息とも、感嘆ともつかぬ声をあげるのであった。
アンコールは宇宙だった。
現代人には到底理解できない、天文や数学や人類史観や宗教観が渾然となったまるで宇宙のようだった。
わたしは夢中になって、アンコールを見て回った。
西参道の石畳、そして本殿、塔門テラス、沐浴場、スールヤヴァルマン2世の浮き彫り、第一回廊の乳海攪拌、そして第三回廊の連子窓など、その意味はよくは分からなかったが、わたしは時間を忘れて夢中になった。
途中、日本人ツアー客の一団を見つけては、どさくさにまぎれて日本人ガイドの声に耳をそばだてた。森本右近太夫一房という日本人が残したとされる15世紀の落書きは探すことはできなかったが、とにかく1日中、食事を忘れてわたしはアンコールに魅入ったのである。
翌日はアンコールだけでなく、アンコールトムのバイヨンやジャングルに侵食されたタ・プローム、タ・ケウ、そしてバンテアイ・クディやスラ・スランといったアンコール周辺の遺跡群にも足を運んだ。なにしろ、アンコール遺跡群には大小700もの遺跡があるとされる。とにかく、それらを全てくまなく見るためには、膨大な時間が必要であろう。 それを僅かバイタクとの契約の2日間で見ようというのだから、無理があるというものだ。
遺跡群に着くと男の子が近づいきててこんなことを言った。
「日本人かい?案内してあげるよ」
まだ、年端もいかない小さな子だった。わたしは小さな衝撃を受けた。中国やヴェトナムでは子供など近寄ってくることは皆無だった。だが、アンコールの近くに住む子供達は全く外国人に臆することなく話しかけてくる。確かに、ツーリストずれをしてるのだろう。そして、外国人の懐をあてにもしているのだろう。したたかではあるが、ガイドをしてお金を得ようとしている。それは、それで立派なことではないか。
そう思いながら曖昧な態度をとっていると、勝手に英語と日本語でガイドを始めるのだった。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
さて、遅くなったが今年もよろしく師よ。
この記事を読むとまたシェムリアップに行きたくなるねえ。俺は特にバイヨン寺院と寺の建物に大きな木が侵食し、木の幹や根っこが、石造りの寺院のあちこちから伸びているタプロームに再訪したいなあ。
これを読むと師がアンコールの神秘に深く興味を抱いて熱く巡っていた画が浮かんでくるようだよ。
今、一緒に行ければ、結構楽しいだろうなあ。昔と違った動きがまたできるだろうしね。
さて、俺の方もオレ深、書き進めないとなあ。
太陽が昇ってくる角度までほぼ同じだよ。
ちなみにオレの写真は「写ルんです」で撮ったもの。それでも、なかなかよく撮れているでしょ。
このアンコールワットの巻も1回で書いてしまおうと思ったけれど、難航して中途半端に終わってしまった。また次週、続きをアップする予定だよ。
師が、アンコール編を書くのは、まだまだ随分と先だろうな。