“パフューム” そして 香り

2007年03月17日 | movie
世界がひれ伏す香りとは……
映画「パフューム」

この1ヵ月の間、映画を4本。
映画は観始めると、立て続けに見ることが多い。
そして、何故か忙しい時に限って観に行きたくなる。
毎日の時間の足りなさを嘆いているというのに。
テスト期間になると、何故か小説を読みたくなるのと同じ。

新聞屋さんから頂いた招待券で「ダヴィンチ、コード」
今更だけれど、駄作。
多分、原作は面白いのだと思う。
「あなたになら言える秘密のこと」
そして「ドリーム・ガールズ」と今回の「パフューム」

「ドリームガールズ」は久々のミュージカルだった。
ショウビジネスの栄光と挫折の物語。そして、人種差別のエピソードも少し。
わたしは多分ダイアナ・ロスとシュープリームスの時代に、厚生年金ホールに友人に誘われて観に行った記憶がある。
あまりの昔の事でよく覚えていないけれど、最後にダイアナが長いトレーンをひいた派手なドレスで、わたしの好きな“Ain't No Mountain High Enough ”を歌ったシーンだけは鮮明だ。
映画ではビヨンセがどきっとするくらい、ダイアナに似ていた。

そして、「パフューム」
映像では「香り、匂い」は表現できないが、私たちの脳の中では嗅覚の記憶として存在している。
だから、市場の腐臭も、森の苔やシダ類の湿った匂い、熟れきった果実の芳醇な香り、バラ、ラヴェンダーの甘く爽やかな香りが、映像を観ただけで、それまでに脳にインプットされていた香りが、自然と浮き上がってくる。
「ひれ伏す香り」という意味がだんだん見えてくるけれど、それはマル秘ということで。
音楽がサイモン・ラトル指揮のベルリンフィルなので、これも思いがけなかった。

今日は友人に誘われて、アロマテラピーの講習会に参加した。
ちょうど香りつながり。
香りの持つ自然治癒力に、以前から興味があったのだ。
日々ストレスにさらされて身体のリズムやエネルギーが狂うと、自律神経や内分泌、免疫系のバランスも乱れる。
そういう時に自分の自然治癒力を刺激して、本来の自分になる手助けをするのがアロマテラピーだそうだ。
わたしはイラついたときに、庭のラヴェンダーを摘んで香りをかぐだけでも、何だか落ち着く。
心療内科などでも、診療室にアロマテラピーを取り入れているところが増えているらしい。



                  
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歳を重ねて

2007年03月16日 | diary
『齢(よわい)82になりました。
もう人間関係はわずらわしく、これからは皆様とは一切交際を絶ちたいと…』
何日前かに、父の元に届いた父の友人の葉書に書かれていた言葉。

わたしの友人にも、そう宣言して去っていった人がいた。
今は家族と犬3匹で人とも余り付き合わず、暮らしているらしいが。
2,3年経ったころに、さすがに淋しくなったのかコンタクトをとって来た。
しかし、既に共通の話題も無く、思い出話をするにはまだ若すぎた。

人間関係は、確かに煩わしい事の方が多いかもしれない。
人はそれで悩む事が多いのだから。
だからといって、荒野や山の一軒家に住むわけにもいかない。
わたしはいっさい関係を絶つ勇気もないし、嫌いな人も多いけれど、誰もがどこかで誰かと繋がっていたいと思うのは健全な事だと思う。

父はその友人の事は語りたがらなかったが、わざわざ絶交の宣言をしなくてもまわりの人間は気がつけば哀しいかな、いなくなっていくのだ。
そして、必ずしも長生きが幸せとは言いがたいようにも思える。
長生きをすると、人を送る回数は増え、その度に寂しさは倍加する。

歳を重ねると、これが待っているから楽しみ…そんな事は無いのだ。

今日友人から電話があった。
友人の油絵の先生が急死をし、彼女は自分と同年齢だったその先生の早い死にも動揺し、アトリエを訪ねたときに見た大きな真っ白のキャンバスに絵を描く為に一番最初に引く対角線を見たことでも動揺していた。

好く死ぬ事は難しい。
そして人の死を受け入れる事も。
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今にも切れそうな・・・

2007年03月12日 | diary
気になっていた友人から、久しぶりに電話があった。
去年から様々な問題を抱え、彼女は鬱に入っていた。
だから思いのほか、元気な声を聞けて嬉しかった。
しかし、少々心配なのは、京都時代の大学の先輩に誘われてある宗教に入ったとのこと。
別にその宗教をわたしは否定をしないが、そういう不安定な精神状態のとき故、彼女の事が気になっていた。

我が家の近くにオープンしたばかりのレストランに、他の友人も誘いランチを一緒に。
前回会ったときは、彼女の悩みを聞いていたら私まで何だか具合が悪くなってしまった。
今日はとても元気で、知り合った頃のざっくばらんで陽気な彼女に戻っていた。

お喋りをしていると、彼女が急に外を見て!と言うのでレストランの前の歩道を見ると、まだ22,3とおぼしきカップルが歩道のど真ん中に立ち止まり、何か言い合っている。
その男の子の顔が尋常では無いのだ。
ナイフを持っていたら今にも…そんな嫌な雰囲気が、みている私たちにも見て取れた。
レストランの人もウインドウ越しに心配そうに見ている。
男の子は何かを女の子に訴えているらしいが、更に泣きながら喚いている。
目が釣りあがり、怖ろしい形相だった。
その今にも切れそうな勢いに、Kが切れ掛かった時の事をわたしは思い出していた。
同じ目をしていたのだ。
子供に「貴方のためよ」と言いながら、親の論理を押し付け勝ちだが、子供にしたらそれが一番ウザイことなのかもしれない。
分かってはいても、愚かな母はつい…。
その時のKと同じ目だった。

多分、男の子は女の子に許せないほどの理不尽な事をいわれたのだろうか。
気がつくともういなかった。
ただの痴話げんかなのかもしれないけれど。

Kとは、離れて暮らしているけれど、ジャズやクラシックのコンサートへ行ったり、趣味的には夫より気があっているような。
色々な山や谷を経たからこそ、今はやっと大人として互いに尊重して近づけた気がする。
来月のキース・ジャレットのコンサート、Kと行こうか夫と行こうか、それともジャズ好きの友人を誘おうか今から考慮中なのだ。
コメント (1)
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SURREALISME  シュールな1日

2007年03月09日 | art
 「現実」とは、いったい何なのでしょう?

いきなり、そう突きつけられて、即答えられるでしょうか。
哲学、科学、様々な学問を駆使して、人はその謎を解明しようとする。
その謎に向き合った芸術運動が「シュルレアリスム」超現実主義だ。

埼玉県立近代美術館で開催されている「シュルレアリスム展 謎をめぐる不思議な旅」を観た。
館内は、相変わらず人もまばら。
しかし、この美術館に、マスターピースは殆ど来ないけれど、ひとつひとつの企画展が丁寧につくられている。
だからわたしは興味をひく企画展には、年に何回か足を運ぶ。
因みに、次回は「澁澤龍彦 幻想美術館」これも興味深い。


■ 現実と夢の境界は果たしてあるのでしょうか?
私たちが普段みている世界は本当の現実といえるのでしょうか?
そんな「謎をめぐる不思議な旅」へのパスポートを渡されて、シュールな世界へ入っていく。

意識を超えて
心の闇
夢の遠近法
無垢なるイメージを求めて

■そして最後は、シュルレアリスムはどこにでも存在しています。
公園のゆれる葉、石ころ、そこから何が浮かび上がって来ますか?
超現実の世界は今もあなたの身近にあるのです。
今、あなたが当たり前に見ているその景色、それは本当に現実の世界ですか?

確かに自分を取り巻く物、そして言葉などそれらを突き詰めて凝視したり思考していると、意識をしていないのにも関わらず、まぼろしのように思いもつかなかった世界があらわれてくる。
例えば、1枚の葉を見つめているだけで、その1枚が頭の中で様々に形を変えていきそのうちに別の形を形成する。
既成概念にとらわれている私たちの意識をいかに解放していくか、それがシュルレアリスムの根底に流れている。

日常や理性の束縛から心を解き放ち、様々な表現を求めたこの分野で、わたしの好きな芸術家は多い。
カメラマンのマン・レイ。シュルレアリスムといえば、マグリットやキリコ。
ダリ、デュシャン、ミロ、レオノール・フィニ。
中でマグリットが1番手かもしれない。

しかし、わたしはデルヴォーに惹かれる。
画布に流れる沈黙の世界の、それこそシュールに流れる空気そのものが好きなのだ。
キャンバスの上をさまよう謎めいた人物たちが、シュールな世界で、見えないものと交わしている秘密のやりとりを眺めていると、その前に立つわたしは、いつも知らないうちにその世界に引き込まれているのだ。

           
           p.デルヴォー 「森」

美術館を出て公園を歩き、いつか実を拾い集めた楓(ふう)の樹を探した。
公園内の樹は殆ど葉を落としていたが、枝先にいくつか実の残った楓の樹をみつけた。
根元にまだ、実が落ちている。
思いのほか、大木だった。
この実もずっと眺めていたら、何かが浮かび上がってくるのだろうか。
何かが見えてきた時に、わたしはシュールな超現実的な世界に足を踏み入れたといえるのだろう。

                          
シュール満載な一日だった。
    
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AND ALL THAT JAZZ (俗:何だかんだと)

2007年03月06日 | jazz
ピアノのレッスンへ行く朝に、先生から電話が入った。
先生の知り合いで、カルチャーセンターでやはりジャズピアノを教えている方が、個人レッスンを是非見学したいとのこと。
そこでわたしのレッスンを、と頼まれた。

何でわたしなんだろうと思いつつ、ミッドエイジのおばさんのジャズピアノプレイはレアだ。
だから、他の若い生徒さんのほうが良いのにと思った。

少し早めに行き先生と雑談をしていると、先生と同年代の女性の方がみえ自己紹介をして早速レッスン開始。
その女性の方は、ノートなどを出して何か書き込み始めている。
いつもの通り、指ならしのハノンから、リズムトレーニングでは先生の弾くボサノヴァとセッション。
次に超苦手なメロディーヒアリング。
冷蔵庫に頭を入れて「あれ。何を出そうと思っていたのだろう?」そんな今のわたしの頭には、たかが8小節とはいえ1,2回聴いただけでは覚えられない。

そして、今日あげる予定の“there will never be another you”
これは結構自分でも弾いていて気に行っている、ご機嫌なナンバー。
先生に頂いた練習用のベースとドラムのCDにあわせて家で弾いていると、滅多に褒めない夫が「本物のジャズを聴いているみたい」というけれど…
まるでジャズを知らない人に褒められてもね~と思いながらも、褒められる事は嬉しい。

MDに入れる前に、1回弾くと女性が拍手しながら「お上手ですね」
すると、先生「彼女がすべてアドリブを作ったんですよ」とご満悦。
女性「あら、そうなんですか。すごいですね」
何がすごいかは分からないが、、、、
しかし、フレーズも我ながら気に入って、4beat♪227で弾けるようになった。

わたしがピアノを弾いていて何が楽しいかといえば
ベースやドラムとセッションをして、のってくると頭や体が興奮状態になり、それこそグルービングハイになるのがたまらないのだ。

あと2曲“it might as well be spring”と“beautiful love”
テンションコードの間違いの指摘と、エンディングを決めて中身のいつも濃いレッスンも終盤へ。
少し時間が余ったので、いつもの通りセッション。

わたしは、自分をよく見せようとする人品卑しいところがある。
だから、そんな時はリキを入れすぎて、結果はいつも空回り。
「何を弾きますか」との問いに、ほらほらまた変なリキが入ってきたのを感じた。
「わたしの得意な“someday my prince will come”を」と言ったのは良いけれど…
ああ!やはり、リキが入り過ぎて、いつもは上手く弾けるのに、エエカッコつけ過ぎてメロメロ~~。
思った通り、最低な出来。
終わり悪ければ、すべて駄目!
そんな自分に自己嫌悪。

帰宅して、好きなキース・ジャレットの“so tender”を聴いたら、やっと落ち着いた。

何だか、疲れた一日だった。
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