音楽の喜び フルートとともに

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リングキーに変える

2017-02-23 21:28:43 | フルートレッスン

昨日はMさんと、手作りデイ。
荷物が多いMさんを迎えに行こうとすると、家の前に大きなきんでんの車。

家を取り壊し、新築されるのでその際に電柱の位置を変えるそうです。
「そんなこと、できるんですね。」と、驚いている場合ではありません。

家から車を出すために、トラック2台が大移動。ようやく出発できました。

移動といっても、電柱の1本を根っこからボキッと折り、あたらしい電柱を新しい場所にくっつけるそうです。

折るのが大変で、2台のクレーン車が来て、1台の方に古い電柱を釣っておいて、倒れないようにして、もう1台で倒すのです。

機材を運ぶトラックがあと2台。

狭い道路はいっぱいいっぱい。

そこを、何度も行ったり来たり。
その度に「すみません。」と移動してくれます。
電信柱のような、大きなものを動かすのでも、小さな動きを意識的に、明確にしておくことが大切です。

手作り品というより、今日は企画会議。
部屋いっぱいに、布や材料を引っ張り出して、何ができるか?考えました。
途中で、ランチ。

ラ フォッタイユの前菜

ジャコとしめじのパスタ

これでもか!っと言うほど、かつお節と海苔がかかっていました。

帰ってまた企画。
今日は、考えるだけで終わってしまいました。
Mさんは、コツコツ作業していましたが…。

夕方は、松井山手でレッスン。
新しいフルートを買って、リングキーに慣れるのに奮闘中のKさん。

今までできていたことが、できなくなるのが一番ストレスがたまります。

ゆっくり、あわてず練習するのが効果があります。

慣れないということは、今まで無意識のうちにやっていたことを、意識化するいいチャンスです。

レイモンド ギオー先生が、言っておられたのは、意識的な練習をすること、無意識で機械的な練習は、あまり意味が無い。

少し難しいことを意識的にすることで、脳が動き、いろいろな動きを身につけることが出来ます。

今までできていたと思っていたことは、実は不十分だったり、明確ではなかったかもしれません。

それを明瞭にするいいチャンスです。
応援しています。


承天閣美術館伊藤若冲展

2017-02-23 00:18:04 | 本・映画など

月曜日相国寺、承天閣美術館に両親と伊藤若冲展を見に行きました。

母が「若冲を見にいきたい。」と、言い出して、いつ行けるか?考えていました。

そこへ、トヨペット伏見店で6ヶ月点検のお知らせ。

伏見まで行くなら、ちょうどいいかもしれない。

母に相談したら、すっかり乗り気に。
いろいろ考えた末に「あれ?月曜日はお父さん、家に居る日だった。」

「連れて行くしかないよ。」
「大丈夫かな?」
「大丈夫、大丈夫。」

最近では、歩ける距離がかなり減っています。
まず、車で行けること、歩く距離が少ないこと、車椅子を借りられこと、トイレがすぐ行けること。

外出の条件がいろいろ増えています。

相国寺は、金閣寺、銀閣寺もその敷地に持つ大きな寺院です。

門から美術館まではかなり距離があります。
第1、駐車場がそばにないとアウトです。
恐る恐る電話して
「身体が不自由なものが行きますが。」
と言うと
「総門から中に入って下さい。守衛がいますので、言って下さい。」
と、教えてくれました。

さて、車で行くと、守衛さんが
「1番奥なので、突き当りまでずっと行って下さい。」と言ってくれました。
参道のようなところを、車でまっすぐ入り、最後の承天閣美術館の門前まで車を入れさせてくれました。

先に中に入って、美術館の中の受付で車いすをお願いすると、「外に持っていけるのはこの車椅子だけなので、そこで乗り換えてください。」
「すみません、タイヤの空気が抜けているので押しにくいと思いますけど。大きな方ですか?」
「そんなに大きくないと思いますが、」
「すみません。」
とまた言われました。

確かに石畳の道を門から入り口まで結構あります。そこをタイヤで行くとなかなか進みません。

しかし、車椅子を借りるとやはり楽です。父も安心して見ることができました。
普通の美術館と違って、絨毯の上を靴を脱いで見ることができます。

本邦初公開の鸚鵡と牡丹の絵や、躍動感触れるシンプルな線の鶏。
レプリカでも見ものだったのは、金閣寺の茶室の再現。

若冲の襖絵のある部屋をそのまま再現されているものなどは、普通に見たのでは見られないような角度からの襖絵を見ることができてとても面白かったです。

ぶどうの弦が、描かれている襖を超えて、部屋いっぱいに溢れてくるような気がしました。

若冲は自分の絵を相国寺に寄進し、永代供養をお願いしていたようです。大火で財産を失い、家督を譲った弟にも先立たれ、それも解除し、伏見に移りそちらで大きな絵を描く仕事を引き受けていたそうです。
85歳で亡くなる寸前まで絵を描き続けていたそうです。