病院の朝食。
お昼ご飯
夕ご飯
お昼ご飯
の描いた「庭師」1587-1590年には
の宮廷画家となり、後にその息子の マクシミリアン2世(1527-1576年)
や孫にあたるルドルフ2世(1552-1612年)
にも仕えました。
といった傑作を完成させ、プラハに送っています。
「ウェイター」1564年作は中之島美術館に所蔵されています。
皇帝マクシミリアン1世(1459-1519年)
のアウクスブルクの宮廷に加わり、1504年の一度きりの里帰りを除いて、バーゼルには二度と帰国しませんでした。
に好意的になり、後に宗教裁判所で訊問を受けて僧籍を諦めざるを得なくなります。
お昼ご飯
夕ご飯
お昼ご飯
白ご飯とパンは残しました。
うちの食事より野菜が少なくてびっくりしました。
高いものね。野菜。
近所の安さが売りの業務用スーパーでキャベツ700円…びっくり!
久御山イオンの道の駅でアスパラ菜、わさび菜、水菜が一束100円だったのでそういうのを買ってきて料理しています。
優等生だった小松菜だって198円だったから…。
アスパラ菜って初めてですが、なんとか料理しています。
しかし、年中キャベツがあるなんて元々不思議なことですね。
春までうちではキャベツはお休みです。
旬の白菜が高いのは悲しいけど。
みんな、身体に気をつけて、なんとか乗り切りましょう。
ジュゼッペ・アルチンボルド(1526〜1593年)イタリア ミラノ生没
の描いた「庭師」1587-1590年には
お皿に盛られた大根や玉ねぎなどの野菜が描かれています。
静物画のように緻密に描かれた果物、野菜、動植物、本などを寄せ集めた、珍奇な肖像画の製作で世に知られています。
この画面を、そのままひっくり返してみてください。
この画面を、そのままひっくり返してみてください。
アルチンボルドは画家の息子として生まれました。
1549年よりステンドグラスのデザインを始め、ミラノのドゥオーモに作品を残しました。
1556年、ジュゼッペ・メーダと共にモンツァ大聖堂のフレスコ画を制作します。1558年にはコモ大聖堂聖母マリアを描いたタペストリーのデザインを手がけました。
1562年、アルチンボルドはウィーンにてフェルディナント1世(1503-1564年)
の宮廷画家となり、後にその息子の マクシミリアン2世(1527-1576年)
や孫にあたるルドルフ2世(1552-1612年)
にも仕えました。
アルチンボルドは画家としてだけでなく、宮廷の装飾や衣装のデザインも手がけました。
また、祝典や馬場槍試合の企画、水力技師などで非凡な才能を発揮しました。
ハープシコードのような楽器も発明しましたた。
アルチンボルドが描いた伝統的な宗教画は現在では忘れ去られてしまっていますが、野菜や果物、木の根といったもので構成された独特の肖像画は、現在でも多くの人を魅了し続けています。
多くの学者たちは、アルチンボルドの作風は謎やパズル、風変わりなものに魅了されていたルネサンス期を反映していると言います。
1593年、アルチンボルドはウィーンでの公務を引退した後、故郷のミラノで死去しました(死因は腎結石)。
死の少し前に『フローラ』、
『ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世』
といった傑作を完成させ、プラハに送っています。
ルドルフ2世はこの風変わりな肖像画を大変気に入り、アルチンボルドに高い地位を与えました。
1648年にスウェーデンがプラハを侵略した際、ルドルフ2世のコレクションから多くの作品が持ち去られました。
アルチンボルドの作品はウィーンの美術史美術館、インスブルックのアンブラス城(ルドルフ2世のその他のコレクションも所蔵)、パリのルーヴル美術館、スウェーデンのいくつかの美術館に分かれて所蔵されています。
「ウェイター」1564年作は中之島美術館に所蔵されています。
この頃ウィーンで活躍した作曲家にルートヴィヒ ゼンフル(1486-1543年)スイス バーゼル生まれ、ミュンヘン没
皇帝マクシミリアン1世(1459-1519年)
のアウクスブルクの宮廷に加わり、1504年の一度きりの里帰りを除いて、バーゼルには二度と帰国しませんでした。
1497年にウィーンの帝室礼拝堂の聖歌隊員となりますが、やがて声変わりを迎えると、当時の聖歌隊を追われました。
当時の習慣に従って、おそらく1500年から1504年までの間に、3年にわたって聖職者を目指して学生生活を送っています。
この間にハインリヒ・イザークに師事し、その浄書係も務めた。イザークのライフワークにして最大の作品である《コラリス・コンスタンティヌス》を写譜したことや、この作品をイザークが完成させられずに世を去ると、ゼンフル青年が補筆して実用版をまとめ上げました。
1508年から1510年までしばらく研修旅行でイタリアを巡った後、ウィーンの帝室礼拝堂に復帰し、1517年に旧師イザークが没すると、その後任としてマクシミリアン1世より宮廷作曲家に任命されました。
翌1518年に狩猟の事故で片足を切断、1年のあいだ廃疾者として過ごします。
そのうえ1519年にマクシミリアン1世が崩御すると、新皇帝カール5世は宮廷楽団員をあらかた解雇し、ゼンフルも職を失いました。
しかもカール5世は、前皇帝がゼンフルに保証した廃疾給付の支払いを反古にしました。
それからゼンフルは2年間、主に職探しのため各地を遍歴しますが、積極的な作曲活動も行ないました。
1521年にはウォルムス帝国議会にも出席し、公式にプロテスタントに改宗したことはなかったものの、
マルティン・ルター(1483-1546年)
に好意的になり、後に宗教裁判所で訊問を受けて僧籍を諦めざるを得なくなります。
1530年よりルター派のプロイセン大公アルブレヒトや、ルター本人と旺盛な文通を行うに至りました。
最終的にゼンフルはミュンヘンの宮廷楽団員として雇われ、そのままこの地で一生を送ることとなりました。
当時のバイエルン大公が、比較的プロテスタントに寛容だったためもあります。アルブレヒト大公との往復書簡からすると、ゼンフルは1540年になるまでには病に倒れていたらしく、1543年の前半には故人となりました。
「あなた無しでは喜びはありません。」
あ、ウチもキャベツ高いから買ってないです!もやしざんまいです✌️
アルチンボルトの作品の展覧会が関西で行われた時、見にいったことがあります。
画家もユーモア、ちょっと変わったセンスが問われますね。
退院しました!
ゆっくり復帰しています。
本当にキャベツ高いですね〜😭
そうですね。ユーモアと変わったセンス。必要ですね。
結構まっとうな絵も描いていたようなのですが、残ったのは野菜の絵でした。
こういうものを楽しむ気風もルネサンス期にあったみたいです。