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チャイコフスキーの「運命」の主題

2023-04-27 21:22:00 | ロマン派
芍薬の蕾が膨らんできました。
待ち遠しい💖

ガーベラももう少し。


不自由ですが、だいぶ元気になってきました。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没
1888年のチャイコフスキー
の、交響曲第5番ホ短調op64 は1888年に作曲されました。
第4番を作曲してから10年の間交響曲を書いていません。

「運命」の主題が四楽章を通して出て来て統一感があります。

1878年交響曲第4番を書いた後、メック夫人の支援により、金銭的心配が無くなり、モスクワ音楽院の教授を辞職し、親戚や知人の家を泊まり歩く放浪生活に入ります。

徐々に音楽で名声をあげますが、メック夫人

フォン メック夫人
の破産、妹の家庭の崩壊、進展しない離婚問題で自殺をはかる
チャイコフスキーと妻アントニーナ ミュリーコヴァ
など精神的には不安定でした。

1885年マイダーノヴォ


に家を借り6年の放浪生活をやめます。
観光客が増え、チャイコフスキーに面会に来る人も増え、それを避けるために
1888年にはフローロフスコエ

に転居し、そこで交響曲第5番を作曲します。

チャイコフスキーの残した作曲ノートには、「慰め、ひとすじ光…いや、希望はない」と書かれています。

この曲に標題はありませんがノートに

「序奏。運命の前での、あるいは同じことだが、人に計り難い神の摂理の前での完全な服従。アレグロ、I. XXXに対する不満、疑い、不平、非難。II. 信仰の抱擁に身を委ねるべきではないか??? もし実現できれば、すばらしい標題だ」

さらに友人のニコライ コンドラーチェフが梅毒で死に瀕していることを知って彼のいるドイツのアーヘン
アーヘンの大聖堂
に出向き、そこで40日間付き添います。

「アーヘンでの六週間、命運がつきながら死ぬこともできず、ひどく悩み苦しんでいる人間との生活は、言葉にならない程苦しいものでした。

これは私の人生の最も暗い部分の一つでしょう。

人生に疲れ、悲しい無気力に陥り、私自身ももうすぐ死ぬかもしれないという感情と、死が近づくことで私自身の人生において重要で本質的なものを成している全てが、小さな詰まらない、そして全く目的の無いもののような気がしているのです。

— 1887年9月12日(ユリウス暦8月31日)付けでフォン・メック夫人に宛てた手紙」

そして
「僕の宗教は限りなく明白になった。この間、僕は神について、生と死について、とくにアーヘンでは、何のために、どうやって、なぜ? が、私の中でしばしば起こり、不安気に飛びかうのかという、宿命的な問題についてたくさん考えた。 
— 1887年10月3日(ユリウス暦9月21日)付けの日記」

第4楽章では「運命」の主題が輝かしい変奏で現れ「運命に対する勝利」と言われています。
暗く始まるこの曲は、「元気がでるクラッシック」としていろいろなサイトであげられているのはこのせいかもしれません。