木曜日は母を京都医療センターに連れて行く日でした。
現在はサツキが咲いています。
名曲「春の海」から「水の変態」「水三題」、「さらし風手事」「道灌」と宮城道雄の足跡をたどります。
1872年神戸外国人居留地
へ渡り、昼間は箏、夜間は尺八を教えて家計を助けました。
を書き上げます。この時、伊藤博文
に評価されます。
の中の短歌に興味を持ち、作曲にしました。
小山田に霧の中道踏み分けて
白玉の秋の木の葉に宿れりと
心臓手術後の定期検診。
今日はだいぶ状態がよかったです。
病院の駐車場は山の中みたい。
1908年に設立されて、1937〜1945年まで旧陸軍病院でした。ちょっと怪しい祠もあります。
現在はサツキが咲いています。
診察してもらって帰ろうとしたら、先生に「先生、これ行かれませんか?」
と、母、先生を自分の出るコンサートにお誘いしていました。
「宮城道雄をしのぶ箏の夕べ」
第48回水辺の情景
「宮城道雄をしのぶ箏の夕べ」
第48回水辺の情景
6月11日(日)午後三時〜いずみホール
名曲「春の海」から「水の変態」「水三題」、「さらし風手事」「道灌」と宮城道雄の足跡をたどります。
看護師さんが「私、お琴やってたんです。」と言われて、早速彼女にもチラシを渡しました。
病院の後は、イオン久御山で買物。
ランチを食べて、駅前薬局で薬を出してもらって帰ったのは4時すぎ。
なかなかハードです。
宮城道雄(1894〜1956年)兵庫県神戸市生まれ、東京刈谷豊田総合病院没
韓国在住の頃の宮城道雄
神戸三宮、外国人居留地
1872年神戸外国人居留地
の中で生まれます。生後200日に眼病を患い、4歳の時に母と離別して祖母ミネのもとで育てられました。
7歳の頃に失明。
この失明が転機となり、音楽の道を志します。
8歳で生田流箏曲の2代菊中検校に師事します。その後、兄弟子の菊西繁樹の紹介により2代中島検校に師事しました。
2年後に師匠死没したため、以降は3代中島検校に師事して11歳で免許皆伝となります。
師匠の「中」の字を貰い受け、中菅道夫と名乗りました。
13歳の夏一家の収入を支えるため、父の滞在する。
朝鮮の仁川
へ渡り、昼間は箏、夜間は尺八を教えて家計を助けました。
道雄は既存の曲の演奏だけでは満足せず、新しい作曲を目指し、1909年には14歳で第1作の箏曲、「水の変態」
を書き上げます。この時、伊藤博文
に評価されます。
彼は道雄を上京させて支援することを約束しましたが、同年に伊藤は暗殺されたため、叶いませんでした。
「水の変態」
道雄は弟が朗読していた「高等小学読本」(小学校の教科書巻四 第十三課)
の中の短歌に興味を持ち、作曲にしました。
水が霧、霰、雲、露、雨、霜、雪と姿を変える様子を七種の短歌に読まれたものです。
小山田に霧の中道踏み分けて
人来(く)と見しは案山子(かかし)なりけり
むら雲の絶え間に星の見えながら
夜行く袖に散る霰(あられ)かな
明け渡る高嶺の雲にたなびかれ
光消え行く弓張りの月
白玉の秋の木の葉に宿れりと
見ゆるは露のはかるなりけり
今日の雨に萩も尾花もうなだれて
うれひ顔なる秋の夕
朝日射すかたへは消えて軒高き
家のかげに残る霜の寒けさ
更くる夜の軒の雫(しずく)のたえゆくは
雨もや雪に降りかはるらん
宮城道雄自身の演奏がありました。
字が間違っています。「道夫」→「道雄」
この頃は今のナイロン弦ではなく、絹の弦です。失われた音です。