音楽の喜び フルートとともに

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構想21年

2023-04-05 21:27:00 | ロマン派
月曜夕方は渡辺橋サロン ド プリンシパルフルートアンサンブル練習でした。



美しい夕暮れ。満潮で海から川の水が上がっていました。

今日はアンダーソンの「ブルータンゴ」とベートーヴェンの「田園」を

アルトフルートと

バスフルートを入れて合奏しました。
本番は、田園を私もバスフルートで参加することになりました。
バス2本持っている人に借りることに。
ただし、神戸なので4月30日に神戸で練習するときに貸し出してくれることになりました。

それまではコンサートフルートで代用。低音が得意になりそうです。


ヨハネス ブラームス(1833〜1897年)自由ハンザ都市ハンブルク生まれ、オーストリアハンガリー帝国ウィーン没

コントラバス奏者の父から音楽の手ほどきを受けたブラームス。
ピアノを7歳の時にオットー コッセルに学びます。

10歳の時に初めてステージに立ち、評価されるとエドゥアルド マルクスゼンに師事しました。


この頃から作曲を始めます。しかし、自己評価が厳しく、この頃の作品は破棄され存在しません。
13歳後の頃から家計を助けるために、レストランや居酒屋でピアノを演奏をしました。

20歳の頃に書いたピアノ曲アルバムのページが最古の曲です。

1853年20歳

この頃、シューマンに会いに行き、シューマンはブラームスを熱烈に称賛します。ブラームスもまたシューマンを深く尊敬し、没後も変わりませんでした。

クララとシューマン
1854年シューマンが自殺未遂を起こして療養施設に収容されると、ブラームスはデュッセルドルフに駆けつけ、シューマン家の家政を手伝いました。

クララ シューマンとの関係も深くなり、以来、生涯クララの支援をします。
1856年シューマンが亡くなります。1858年にはアガーテ フォン ジーボルトと婚約しながら、1859年には結婚には踏み切れないという理由で一方的に破談にしました。

1862年ウィーンを初めて訪れた後、ウィーンジングアカデミーの指揮者となります。

1865年には母が1872年には父が死去しています。1868年に完成したドイツレクイエムなどの作品で高い評価を得ます。

1869年までには活動の本拠地をウィーンに移すことに決めました。

1867年交響曲第1番ハ短調 op68を書きます。

ベートーベンの交響曲を意識するあまり、この交響曲は着想から完成までに21年という歳月を要しています。

ブラームス
指揮者のハンス フォン ビューローは「ベートーヴェンの第10交響曲。」と絶賛しました。

ハ短調はベートーベンの交響曲第5番運命と同じで、第4楽章の第一主題はベートーベンの交響曲第9番の第4楽章の歓喜の歌を思わせるものとなっています。

ブラームスが交響曲を書こうと思いたったのは、22歳の時のシューマンの「マンフレッド序曲」を聞いてからです。
しかし、交響曲を書くうえはベートーベンに比肩しうるものでなければならないと考えていました。

「ベートーベンという巨人が背後から行進してくるのを聞くと、とても交響曲を書く気にはならない」とビューローへの手紙に書いています。

初演は1876年フェリクス オットー デッソフ指揮、カールスルーエ宮廷劇場管弦楽団です。その後改訂版の樂譜が1877年ジムロック社より出版されました。
初演稿とこの決定稿では第2楽章の校正がかなり違いますが、最近は初演稿が演奏されることもあります。

なお、ブラームスと対立するとみられている。ワーグナーは1873年、ブルックナーの第3番第1楽章を見て、「私はベートーベンに到達するものをただ一人知っている。ブルックナー君だよ。」と賞賛しています。
ブラームスではないのです…。