京都今出川大宮の富久田治彦先生のレッスンでした。
出町柳大橋やばかった。
フルート四重奏曲イ短調第1楽章ホフマイスターの歌曲「自然に寄す」の主題による変奏1786年
夕べから大雨。
早めに出たけど、踏切に立入りがあり、安全確認のため停車。
「やっぱり〜。」と思っていたら3分で動きました。
バス停は少し距離があります。
豪雨でやっぱりスニーカーの中まで水が侵入してきました。
おまけにバスは、側溝のちょうど水が溜まっている前で停まりました。
試験かな?高校生が多勢いて黒い革靴でダボダボ入って乗っています。
彼らの靴は多分もうすでにビショビショ。
私は敷石に乗ってステップに乗ってなるべく濡れないようにしましたが…やっぱり靴下は前半分が濡れてたので、先生のお宅のスリッパを汚さないように靴下をぬぎました。
ホフマイスターの「フルートとヴィオラの二重奏」を見て頂きました。
楽譜には書いていなくても、スタカートで演奏したり、スラーにした方が良いところなど、時代に合わせた演奏をしましょう。
出町柳大橋やばかった。
フランツ アントン ホフマイスター(1754-1812年)南西ドイツ(現バーデン=ヴュルテンベルク州)のロッテンブルク・アム・ネッカー生まれ、オーストリア大公国ウィーン没
14歳のとき、彼は法律を学ぶためにウィーンに向かいました。しかし、学業を終えた後、彼は音楽家になる決心をし、1780年代までには、広範かつ多様な作品を残し、ウィーンで最も人気のある作曲家の一人となりました。
1785年までにウィーンの音楽出版を初めました。
ホフマイスターは自作や多くの当時重要な作曲家(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、クレメンティ、アルブレヒツベルガー、ディッタースドルフ、ヴァンハルなど)の出版を行いました。
モーツァルトは弦楽四重奏曲第20番
をホフマイスターに捧げ、
弦楽四重奏第20番1786年
フルート四重奏曲第4番
フルート四重奏曲第4番
の変奏曲にホフマイスターの歌曲の主題を使っています。
フルート四重奏曲イ短調第1楽章ホフマイスターの歌曲「自然に寄す」の主題による変奏1786年
またベートーヴェンは手紙の中でホフマイスターを“もっとも愛しい兄弟”と綴っています。
ホフマイスターの出版活動は1791年にピークを迎えましたが、その後は作曲活動へとシフトしました。
彼のオペラの多くは1790年代はじめに作曲・上演されましたが、ビジネスセンスの欠如と相まって、作曲数も減っていきました。
1799年にホフマイスターとフルート奏者のフランツ・トゥルナーは遠く離れたロンドンまでのコンサートツアーに出発します。
しかし、ライプツィヒ郊外まで来ると、2人は“1年以内に”音楽出版業で提携する約束をし、
Bureau de Musique(ビュロー・ドゥ・ミュジック)を設立しました。
(のち1814年に買収されてペータース社となり、現在も著名な楽譜出版社として存続しています)。
ペータース版ベートーヴェン ピアノソナタ
彼らの出版物の中には1802年に出版されたバッハの鍵盤楽曲集第1巻もありました。
1805年までホフマイスターはウィーンの会社とライプツィヒの新しい出版社を行き来していましたが、同年3月にビュロー・ドゥ・ミュジックの独占的な所有権をキューネルに譲渡しました。
ホフマイスターの関心は危機にあったウィーンの会社にあり、1806年には作曲の時間を取るためにChemische Druckerey(ケーミッシェ/ヒェーミッシェ・ドゥルッケライ)に売却したと言われています。
ホフマイスターの膨大な作品の中でも特に目立つのはフルート作品で、25曲以上の協奏曲やフルートを主役にした室内楽作品などがあります。
これらの作品の多くは、ウィーンで増加していたアマチュア音楽家を念頭に置いて作曲されたもので、彼らにとってフルートは最も好まれた楽器の1つでした。
ホフマイスターはまた、少なくとも8曲のオペラ、50曲以上の交響曲、多数の協奏曲(よく演奏されるビオラ協奏曲を含む)、大量の弦楽器室内楽、ピアノ曲、および数曲の歌曲集を作曲しました。
「フルート四重奏」op18No1第1楽章
靴下まで濡れて大変でしたね💦
レッスンおつかれ様でした~
気を付けてくださいね
大雨のあと、各地で被害が出ていますね。大阪や京都は幸い、それほど大きな被害は出ていませんでしたね。
ありがとうございます😊
帰ったら上から下まで全部着換えました💦
気をつけますね。
気をつけますね。
そうですね。
大雨、大阪と京都はあまり被害ありませんでしたね。
先生も京都は北から南に水は抜ける、平安時代から治水工事が進んでいるから大丈夫と言っておられました。
大橋の上もこの水にも関わらずいつも通りの混雑でした。