火曜日久しぶりに赤ちゃんのサポートでした。
実は赤ちゃんのお兄さんがインフルエンザから肺炎になり入院。
その後、赤ちゃんは腸炎にかかりという具合でお兄さんを保育園に送っている間赤ちゃんの保育という任務ができなくなっていました。
病児保育は制度上できないので、残念でした。
本当は子どもが病気の時こそ、助けが欲しいのにね。
ジョージ ガーシュイン(1898-1937年)アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク・ブルックリン生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス没
東欧系ユダヤ人の移民の子として、ニューヨークのブルックリンに生まれました。父親はロシア、母親はベラルーシからの移民でした。
初めてクラシック音楽に触れたのは、小学生のときに聴いたドヴォルザークの「ユーモレスク」でした。
父親はジョージが12歳の時、兄のアイラに音楽を学ばせようとピアノを買ぃましたが、文学肌のアイラがピアノを弾かなかったため、代わってジョージがこれに親しむことになりました。
13歳の時から正式にピアノを習い始め、また、ヘンリー・カウエルに和声を習うようになりました。
しかし、少年期はいわゆる不良少年で、女性関係も派手で、交際した女性を妊娠させたりといった騒動もありました。
彼は陽気な性格で、ティン・パン・アレー
ティン・パン・アレーにあった楽譜出版社
では、楽譜を売ることにも才能を表していました。
では、楽譜を売ることにも才能を表していました。
出世作となったのは、作詞家アーヴィング・シーザー(1895-1986年)
との共作になる1919年の歌曲「スワニー」
アル・ジョルソン(『スワニー』の楽譜カバー)
で、人気歌手アル・ジョルソンに気に入られて、彼が繰り返し歌ったことからヒットし、一躍人気となりました。
で、人気歌手アル・ジョルソンに気に入られて、彼が繰り返し歌ったことからヒットし、一躍人気となりました。
この頃ガーシュインは「子守歌」(こもりうた、Lullaby)を作曲しました。
弦楽四重奏のための作品。
訳さずに「ララバイ」とも呼ばれています。
ガーシュインは、学生の課題曲として「子守唄」を 作曲しました。
彼の教師であるハンガリー移民のエドワード・キレニは、彼にクラシック音楽理論の徹底的な講義を授け、シェーンベルクやドビュッシーなど当時のヨーロッパの作曲家を紹介しました。
「子守唄」はガーシュインの最初の「本格的な」作品でした。
兄のアイラ・ガーシュインは、このカルテットが音楽仲間のプライベートな集まりで何度も演奏され、「いつも歓迎された」と回想しています。
この曲の主題歌は、1922年の失敗作ミュージカル『ブルーマンデー』のアリア(「誰か私のジョーを見た人はいるか」)の冒頭に使われました。
ミュージカル「ブルーマンデー」CD
このショーは失敗に終わりましたが、おそらくこのショーがきっかけでポール・ホイットマンが 1924年に『ラプソディ・イン・ブルー』を作曲することになりました。
約40年後、アイラは『子守唄』の原稿をハーモニカの名手ラリー・アドラーに見せ、アドラーが編曲したハーモニカと弦楽四重奏曲は1963年のエディンバラ音楽祭で演奏されました。
この曲は1967年にジュリアード弦楽四重奏団によってアメリカ議会図書館で初演され、弦楽オーケストラによる演奏も時折聞かれます。
New York: New World Music Corporation, 1968. Plate NW-1006-24(10)
この曲は多彩なハーモニーとシンコペーションのリズムが使われブルースや、ラグタイムを思わせます。
作詞家として弟ジョージと共に多くのヒット曲を世に送り出した兄のアイラ・ガーシュウィン
ジョージとアイラ
は「他の有名な作品と同列には扱えないでしょうが、私はこのチャーミングで慈しみを持った音楽が大好きです」というコメントを残しています。
は「他の有名な作品と同列には扱えないでしょうが、私はこのチャーミングで慈しみを持った音楽が大好きです」というコメントを残しています。
大の字に寝ていて可愛い〜❤
お世話おつかれさまですねー😊👶
ガ―シュインの曲は、ジャズのスタンダードナンバーになっているものが多く、インスト、ヴォーカル問わず耳にすることが多いです。それらには、好きな曲もたくさんあるのですが、今回、ご紹介の「ララバイ」は、全く知りませんでした。
クラシックの演奏会で、「ラプソディ・イン・ブルー」などを聴く機会はありますが、こういう室内楽作品は聞いたことがありません。CDなり探して聴いてみようと思います。ご紹介ありがとうございます。
いつも、コメントを残していただきありがとうございます(*^_^*)