JR二条城駅までSuicaのチャージに行ったついでに、嵐山まで行きました。
渡月橋の側を散策。
温かい日でカルガモが仲良く日向ぼっこ。
渡月橋の側を散策。
温かい日でカルガモが仲良く日向ぼっこ。
嵐電嵐山駅、足湯ができていました。
「キエフの大門」は、モデスト ムソルグスキー(1839-1881年)
が、1874年に作曲したピアノ組曲「展覧会の絵」10曲のうちの10番目、最終曲です。
1870年頃、ヴィクトル ハルトマンとう建築家と出会います。
親交を結ぶも3年後、ハルトマンは、39歳で動脈瘤により急死します。
ムソルグスキーは衝撃を受け、ハルトマンの健康に気を配るなど「もっとなにか出来たのではないか?」と落ち込みます。
未亡人のために、友人たちがハルトマンの展覧会をサンクトペテルブルク美術アカデミーで開催します。
そこを訪れたムソルグスキーは、半年後「展覧会の絵」を完成させます。
「キエフの大門」はウクライナの首都キエフに1037年ヤロスラウ賢公が町の境界線に土塁を盛り、その上に城壁を作らせ、西に向かう入口に大門を建築しました。
キリスト教の町であることを見せるために受胎告知の教会が門の上に作られていたそうで「黄金の門」と呼ばれていたそうです。
1240年、モンゴル帝国の軍勢によって破壊されます。
再建されることなく放置されていたこの門に注目が集まったのは1832年ロフヴィーツィクィイが発掘調査を行い、史跡として保存しました。
その後、
1869年キエフ市が門を再建しようとコンペティションを開きます。
ハルトマンは絵を描き、そのコンペに応募しましたが、途中でコンペは中止されました。
1982年になって黄金の門は復元。
遺跡を覆うように建設されました。
「キエフの大門」は、ハルトマンの絵を見たムソルグスキーによって作曲されました。
私は展覧会の絵の最後はキエフの大門をくぐって新しい世界に臨む友への祝福の曲のような気がしています。
ハルトマン作キエフの大門
数年前に嵐山行ったとき、渡月橋は中国人観光客で溢れていました。
電車の中はあちこちで中国語が飛び交い、
まるで中国にいるような感覚だったのを思い出します。
いつも応援ありがとうございます。
確かに数年前は中国語が飛び交っていましたね。
静かですが、閉店されて歯抜けになっていました。京都の観光地は大変です。
感情を高揚させて盛り上げるというタイプの演奏ではなく ひとつひとつの音を神々しく磨き上げてながら音楽を慎重に頂点に持ち上げていくタイプの演奏だと思いました。
大きい音は神々しく 小さい音も本当に美しく出ていると思いました。
プロムナードの主題を回想するところもいいですね。
画像のチェリビダッケさんの指揮棒を持たない方の手 つまり左手の構えがすっとしてますね。
あの左手の構えが、チェリビダッケさんの慎重な音の作り方の象徴のように思えました。
すごいですね。
戦争の時だからこそ 神々しいものを忘れないようにしたいと思います。
は
ひとつひとつの音を神々しく磨き上げながら
の入力ミスでした すみません
本当に素晴らしい演奏ですね!
チェリビダッケさんは繊細かつ華麗ですね。左手の構えですか。そうかもしれませんね。
不安な時代にこそ、個々人の人間の美しさ、前向きで人を信じる心、希望の力を大事にしないとと思っています。
コメント返信ありがとうございました。