音楽に向き合いとことん練習することと、人として成長することに関係がある。ということは、音楽をやるものはみんな感じていることですが、それを、見事に文章にして描いて見せてくれたのは、宮沢賢治です。
賢治はクラッシク音楽のファンで、たくさんのLP版を買い集め、そううまくはなりませんでしたが、セロを習ったりしていました。
音楽への憧れは相当強かったようで、作品の中にたくさんの音楽表現が含まれています。
「セロ弾きのゴーシュ」
オーケストラの中でもへたくそで、指揮者に指摘されて涙を流すゴーシュ。家にセロをもって帰って、練習していると猫がトマトのお土産をもってやってきて、「トロイメライでもひいてごらんなさい。」といいます。ゴーシュは猫が生意気に見えて、腹を立てて「インドの虎狩り」という激しい曲をわざと弾き、猫の舌でマッチをすり、追っ払ってしまいます。
練習二晩目、「ドレミファを教えてください。」とカッコウがやってきました。ひつこく練習をせがむカッコウに手が痛くなって、早く帰らせようとすると、
「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ。」と言われます。ドンと床を踏みならし、「食ってしまうぞ」と脅かして、やはり返してしまいます。
三日目。たぬきの子どもがやってきて、小太鼓の稽古を付けてくれるように頼みます。
何度も太鼓を叩いて練習しているとたぬきが「二番目の糸をひくときにはきたいに遅れるなぁ。」というとゴーシュは今度は「そうなんだ。」といい、朝まで二人で練習し、子だぬきはお礼をして帰って行きました。
四晩目は、野ねずみの親子がやってきて、セロを弾いてこどもの病気を治してくれと頼みます。子ねずみをセロの中に入れて、なんとかラプソディを弾いてやったら、元気になりました。そればかりか、パンをひとつまみやって、感謝されました。
そして、オーケストラとの本番。ゴーシュは素晴らしい演奏をしてみんなに認められます。
しかし、からかわれているると思ったゴーシュは、猫を思い出してアンコールにあの「インドの虎狩り」を演奏して、さっさと楽屋に帰ってしまいました。すると、みんながやってきて良かったと真面目にいうのです。うちに帰ってゴーシュは「ああ、カッコウ、あの時はすまなかったなぁ。」と空を見上げるのでした。
ゴーシュは楽団の中では下手くそで、そのことを指摘されて涙を流しても、誰にも聞かず、学ばず、一人で練習するしか知りません。
楽団の中では気の毒な存在ですが、初めは自分より小さな動物たちには、「生意気だ。」と横柄で乱暴な態度を取っています。そして、動物は言うまでもなく、人間に置き換えられるのです。
猫に音楽を頼まれた時には、さんざん嫌がらせをして帰しますが、カッコウの練習に付き合っていると、自分以上に真剣に練習するカッコウに、感心しながら素直になれず、つい乱暴な態度をとってしまっています。ところが、たぬきが「ちょっと遅れる」と言った時にはすっかり謙虚になって、一緒に練習します。たぬきに逆に気の毒そうに見られながら。
そして、ねずみの親子に音楽が動物たちの役に立っていることがわかった時には、自分がねずみたちの役にたちたいと音楽を演奏します。
孤独なゴーシュが、動物と音楽の練習をすることで、自分より力がないと思っている者に助けられ、謙虚さを覚え、相手の話しに耳を傾けることを学び、誰かの役に立つことに気がついていきます。
音楽のような限界のないものを追いかけている以上、命ある限り学び続けると決意するしかないのです。頭をたれて、あらゆる万物から学び続け、人にも自分にも期待と希望を持つことが、音楽を学ぶ姿勢だと私は思うのです。そして、そうすることが人としての成長にも繋がると信じています。
7月5日13時半~Tさんが大阪歴史博物館4階会議室で「セロ弾きのゴーシュ」の語りをされます。お手伝いして、背景のセロをパネルを切って色を塗って作りました。誰でも聴きに行けるそうです。ぜひおいでください。
”セロ弾きのゴーシュ”の話を、『かとうじ山の音楽会』の前日に書かれていたなんて!
なんか不思議な気持ちですね
『かとうじ』は、藤原嘉藤治のことで、宮澤賢治の友人です セロ弾きで、ゴーシュのモデルといわれている人です
音楽教師であり、開拓農家であり、賢治の全集刊行に尽力した人であり、何より 楽しくて魅力的な人だったようです
きっと、7月5日の語りの会は、楽しい会になりそうですね 「
「かとうじ」が応援しているように思います
素敵なコメントありがとうございました。