音楽の喜び フルートとともに

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引き揚げられた旗艦から

2023-06-10 21:10:00 | 楽器
オルラヤは、セリ科の植物だそうです。
六甲ポートアイランドに植えてありました。

バラ、カクテル。

メアリー ローズ…かも、バラは品種がありすぎて確信は持てません。

メアリー ローズというのは、1982年ソーレント水道から引き揚げられたイングランド王ヘンリー8世の旗艦に因んで1983年に作られたバラだそうです。

ヘンリー8世(1491-1547年)


と言えば、イングランド王で、キャサリン・オブ・アラゴン、アン・ブーリン、ジェーン・シーモア、アン・オブ・クレーヴズ、キャサリン・ハワード、キャサリン・パーと、6度結婚しては、離婚した王。

カトリックでは、離婚は赦されないからとプロテスタントに改宗してしまった…。

彼はイングランドにおける海軍の創始者でもありました。
戦艦メアリー・ローズは、1512年建造され、33年間、フランス、スコットランド、ブルターニュで闘いました。

1509年初めの妻キャサリン・オブ・アラゴンと結婚して2ヶ月後に建造が始められました。

アラゴンはスペイン北東部の王国で、当時神聖ローマ帝国や、フランスを
含む大連合の国々と、闘うための反フランス同盟のための政略結婚でした。


1540年に描かれた絵画『ドーバーでのヘンリー8世の乗船(金襴の陣)』。画中の船は、「メアリー・ローズ」でも使用されたものと同様の木製パネルで装飾されています。
1512年フランスに対する、スペイン、イングランドの同盟国による戦争で旗艦として初めて戦闘に参加。
フランス同盟軍のブルターニュ船を12隻拿捕し、勝利をおさめます。
その年サン マシューの海戦でも勝利します。

1513年スコットランドに、フランスの同盟軍にフロドゥンの闘いで大敗します。
その後平和が続きますが、1522年再び神聖ローマ帝国、フランス、スコットランド軍と闘い、パリの間近まで迫りました。1525年にはフランスのフランソワ1世が捕虜になり、
パヴィアのつづれ織りの一部(ベルナールト・ファン・オルレイのデザイン,1531年頃)
戦争は終結しますが、痛み分けでほとんど双方とも戦果はありませんでした。

1545年再びフランス海軍はソレント海峡までやってきます。

イギリス本土からワイト島を分けるソレント海峡を臨む衛星画像

狭い海峡で反撃が難しく、メアリー ローズは、ガレー船と戦闘中に突然傾き、砲門から浸水し急速に沈み始めます。
急激な浸水に400名のうち、35名しか生存者はいませんでした。

沈んだ原因は重い武器を積み、砲門を開いたまま急激に向きを変えたためだと後になって分析されています。

1965年学術調査が行われ、1971年ローズメアリーが発見されます。
1982年、入念な準備の結果メアリー・ローズは引き揚げられました。

博物館で展示されているメアリー・ローズ
船内から他の多くの調度品とともにフィドル2丁、演奏用の弓1丁、スティル ショーム(ドゥセイン)、ティバーパイプ、ティバードラムが発見されます。
スティル ショーム

はオーボエの前身で16世紀には姿を消した楽器でした。これを元に再現され、現在のオーボエよりも音が小さく、豊かな低音が得られることがわかっています。

フィドルは、現存するフィドルとは、形が違い、再現が試みられていますが、ヘッドと弓部分が失われていて、正確な再現はされていません。


ジーグ

2023-06-09 21:00:00 | リズム
木曜日は、マザーズデイ。
まあ、いつもの検診日ですが…。
朝8:00に出て、母を迎えに行き、車で医療センターへ。
血液検査と尿検査をして診察。
「なかなかいいですよ。というのは、心臓の手術をした割には、という意味ですが。」と先生。
「肩を剥離骨折したとか。」
「はい、剪定をしていてこけました。」
「剪定はしないほうがいいです。」
「こけて、ハサミもあるし、大事になります。」
「何年も前から、私達がするからせんといて!」と言っている身としては、『先生、もっと言ってやって!』という気分でした。言わなかったけど…。

会計で、12:00。

まず買物があるということで久御山イオンへ。
遅いお昼ごはんを食べて

ギブスを外して、リハビリ中。
少し痛いそうですが、元気です。
その節には皆さんにもご心配頂いて、温かい励ましの言葉の数々、本当にありがとうございました。

その後日用品を買いたして、マイナンバーカードのポイントが受け取れるクレカをつくったので、前回紐づけできなかったポイント手続きのために、そのまま役所へ。

「全部持ってきた。」というので、安心して、作ったばかりのイオンカードとマイナカードを出したら…。
「銀行口座の通帳ありますか?」
「持ってきてないわ。」
ということで撃沈。

病院からFAXしておいた薬を、駅前薬局で頂いて、母を送って帰宅4:00…やっぱりそれくらいなるよね。
くたびれた~。

役所は一筋縄ではすみませんね。

ジーグgigueというリズムは、アイルランドや、イギリスのスコットランド由来のリズムだと言われています。

フランス語の giguer はしゃぐ から来たとか、
ドイツ語の giga フィドルヴァイオリンという意味から来たとか言われています。

15世紀、イギリスで喜劇を演じる時に使われたおちゃらけた音楽。
即興的で飛び跳ねるような特徴を持つこのリズムは、大人気になり、イタリアや、フランスの宮廷の踊りとして普及しました。

イタリアのジーグはgiga
8分の6拍子、 8分の9拍子  8分の12拍子の速いテンポで、分散和音が急速に駆け回る明快な構成になっています。

フランスの場合は17世紀のリュート奏者のジャック ゴーティエ(1600-1652年)


が、イギリスの宮廷で楽士をしていましたが、フランスに帰国した時に持ち帰り、広めました。

フランスのジーグは8分の6拍子、4分の6拍子で跳躍と旋律の模倣による対位法的な舞踊で、付点のリズムが特徴的です。

時代が下ると、特長的ないろいろなリズムの入った組曲に組み入れられます。
アルマンド(ドイツ起源) クーラント(フランス イタリア起源) サラバンド(スペイン起源) ジーグ(イギリス起源)
という順番で演奏されることが多くなります。

フランス風のジーグ



シーボルトが持ち帰った曲作り

2023-06-08 21:00:00 | ロマン派
ご近所の紫陽花が素敵です。
色が変わっていくので全然飽きません。










フランツ フォン シーボルト 神聖ローマ帝国司教領ヴュルツブルク生まれ、ミュンヘン没


はプラントハンターで日本で結婚したお滝さん(柄本滝)


を置いてドイツに帰国した後(日本地図を持っていたために国外退去処分になりました)、彼女に未練があり、何度も手紙を送り、紫陽花の学名をotaksaと名付けました。

ライデン植物園に433もの日本からの植物を持ち帰りました。

ライデン植物園のシーボルトの胸像

日本庭園

シーボルトは音楽にも造詣が深く1823年出島商館の外科部屋でピアノを弾いたという記録が残っています。

1819年製作のイギリスのウィアム ロルフ&サンズのスクエアピアノを持ち込みました。

これが日本最古の現存するピアノです。
このピアノは1829年、シーボルトが帰国する際に山口県萩の豪商熊谷義比に譲られ、現在熊谷美術館に所蔵されています。


痛みが酷く何十年も弾かれませんでしたが、昨年完全修復され12月に演奏会が開かれ、今年5月からは美術館で一般公開されているそうです。

ピアノの日 7月6日は、シーボルトがピアノを日本に持込んだ日です。

そして、シーボルトはドイツに日本の歌を採譜して持ち帰っています。

ヨーゼフ キュフナー(1776-1856年)


にそれを元にした曲作りを依頼しました。
1836年彼は7曲からなる「日本の旋律」を作曲しています。
和声は全てキュフナーの創作です。





イサクとアブラハムのお話し

2023-06-07 21:00:00 | 現代
京都、今出川大宮のF先生のレッスン。

京阪特急で出町柳まで出て、バスで10分。
レッスンが終わったらル メックでパンを買って帰りました。

オレンジジャムの挟まったパンが大好き。

こっちはラムレーズンバター。
生地がモチモチで中身をひきたてています。

先生の家は京町家。

函谷鉾のちまきがついていました。
函谷関の戦い、紀元前241年
楚・趙・魏・韓・燕の五国合従軍と秦の合戦の時
斉の宰相 孟嘗君

が秦の昭襄王から逃れるために、日頃取るに足らない才能と言われていた食客に頼み鶏の真似をして鳴いてもらいます。
すると、他の鶏も釣られて鳴き出し、これを聞いた門番が朝と間違えて門を開け、孟嘗君はこれに乗じて逃げ助かりました。

函谷鉾の三日月は函谷関にかかる月と闇を象徴。

真鍮の雄鶏と雌鶏が飾られています。

他にも、

ゴブラン織りの絨毯16世紀ベルギーで作られた「イサクの嫁選び」18世紀から飾られています。
これはイサクが、嫁選びに際して父アブラハムと、神の教えを従順に守り、素直に従った。という旧約聖書の一場面を描いたものです。

このイサクと父のアブラハムの話しはストラヴィンスキーやブリテンも描いています。違うエピソードですが、やはり、自らのエゴを捨て、主に従うということが主題になっています。

ちょっと現代の私にしたら受け入れられないような話しです。

イーゴリ ストラヴィンスキー(1882-1971年)ロシア帝国サンクトペテルブルグ ロモノソフ生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク没

は、ポーランド系小貴族の家庭に生まれます。現在のリトアニア大公国の土地を支配していました。
サンクトペテルブルク大学法学部に進学するも、リムスキーコルサコフに出会い、音楽を学ぶことになります。

左からストラヴィンスキー、リムスキー=コルサコフ、その娘のナジェージダ、シテインベルク、カーチャ(ストラヴィンスキーの妻)(1908年)
1910年、バレエ・リュスのために作曲した「火の鳥」で人気になります。

1914年冬、第一次世界大戦で保養中のスイスから戻れなくなり移住します。
ロシア10月革命で土地は、取り上げられ、バレエ・リュスも公演出来なくなります。
1920年、フランスに移住します。
1938年長女を結核でうしない、相次いで妻と母を亡くします。

その頃ドイツからは「退廃音楽」として排除され、フランスでは、興味を持たれなくなりました。

1925年からニューヨークを訪れ、公演や講習を行い、1939年ハーバード大学から招聘され6回の連続講義をすると、そのままニューヨークに移住します。

1951年頃から12音技法を取り入れるようになります。
この頃作曲されたものの1つに宗教的バラッド「イサクとアブラハム」があります。

75歳を過ぎたストラヴィンスキーの変貌に周囲はたいへん驚かされました。

この曲は神がアブラハムを呼び、大切な一人息子イサクを生贄に捧げなさいと言われ、二人はモリヤの地に向かいます。

『イサクの犠牲』、 アンドレア・デル・サルト、(1527-1529年)、アルテ・マイスター絵画館 (ドレスデン)
イサクを縛り、殺そうとする時、主が現れ、主に従う心を讃え、イサクの子どもたちが繁栄するだろうと約束します。






幻の水平線

2023-06-06 21:00:00 | 近代
月曜の朝10:00からは阪急塚口近くのT-raumでハープのレッスンでした。

ヤフー路線検索して、早めに着く、乗換が少ないルートを選んで出発!
ところが、牧野発8:33 京阪本線準急でゆったり座って、半分居眠り、天満橋まで来たら、「次は大江橋」

「え?!」

中之島線?!

いい方法はないかと検索して渡辺橋まで行ってしまいました。

結局、反転して大江橋に戻って、御堂筋線の淀屋橋まで歩いて梅田に出るのが1番近いみたい。

大江橋から淀屋橋まで徒歩2分。

御堂筋線に乗って阪急梅田駅まで慌てていくと、大丈夫。
41分の普通三ノ宮行きに乗れました。
早めに出たはずが、ジャストに着きました。

しかし、中之島行きと電車には書いてあったはず、車内放送も聞いていれば途中でわかったはず。
ネットの情報ばかりを鵜呑みにして、リアルを無視してはいけないと常々言ってきたのにこの始末!
ああ情けない。

ガブリエル フォーレ(1845-1924年)フランス王国パミエ生まれ、フランス共和国パリ没

歌曲集「幻の水平線」はジャン ド ラ ヴィーユ ミルモン(1886-1914年)の詩に1921年に音楽をつけたものです。

1920年75歳頃から体力と聴力の衰えに苦しんでいたフォーレは、レジオン ド ヌール勲章を授与されるなど、功なり遂げた感がありましたが、「フランス6人組」など若手の求めに応じ、彼らへの手助けを惜しみませんでした。

1921年に作曲されたフォーレ最後の歌曲集「幻の水平線」op118
は、第一次世界大戦で27歳で亡くなった詩人のミルモン

の詩を取り上げています。

彼はキケロの詩の翻訳者、文学教授、ボルドーの市会議員としても有名な父アンリの元に6人兄弟の1人として生まれました。

パリで官職を得て高齢者支援を行っています。軍曹として採用され、ヴェルサイユで地雷の爆発により生き埋めになりました。
助け出された時には生きていましたが、背骨が折れていてすぐに亡くなりました。


パリ音楽院在学中にフォーレと知り合ったリリック バリトンのシャルル バンゼラ

に献呈されています。

1922年5月に国民音楽協会の演奏会で、バンゼラの歌とフォーレのピアノ伴奏によって初演されています。

バンゼラもパリ音楽院在学中に第一次世界大戦に参戦するために休学しています。
当時人気のバリトンでドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」でペレアスを演じ、あたり役になりました。

幻の水平線
第一曲海は果てしなく
海は果てしなく、私の夢は狂おしい
海は太陽に向かって歌う、断崖に打ち寄せながら
そして私の軽やかな夢はこの上なく満ち足りて
海の上で踊るのだ 酔いしれた鳥のように

波の巨大な動きに運びさられ
そよ風に揺られ 波の襞目の中へと巻き込まれ
船の航跡に戯れながら、夢たちはエスコートするだろう
私の心がその逃走に付き従ってきた船たちを

風や潮に酔い 泡に焼かれている
やさしく慰めて涙を洗ってくれる海の泡に
夢たちは知るのだろう 海の広さとその心地よい塩辛さを
迷ったかもめたちは、その夢を自分たちのものだと思い込むだろう



アルモニコの意味

2023-06-05 21:14:00 | バロック
今日はフルートオーケストラ、エスカル。
本番前、最後の全員合奏でした。

六甲ライナーで海を渡って、

センターアイランド


サロン ド オルフェオ
ベートーヴェンの「田園」第1楽章を合わせました。

お昼を頂いて、
昼からはピアノ合わせ。

ぺリローのバラード。
ピアニストが素晴らしい!
楽しいコンサートになりそうです。
人口島の六甲アイランドも、子ども達の声がこだまする

生活の場に。

アントニオ ヴィヴァルディ(1678-1741年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

の「調和の霊感」
(L'estro armonico)作品3
は、1711年アムステルダムのエティエンヌ ロジェから出版されました。
全12曲からなる協奏曲集です。

1711年の表紙
トスカーナ大公コジモ3世の長男フェルディナンド ド メディチ(フェルディナンド3世という名で)へ献呈されました。
フェルディナンド3世はメディチ家を継いだ場合の敬称でしたが、数年後彼は梅毒で亡くなり、トスカーナ大公フェルディナンド3世はレオポルド1世の次男フェルディナンドが継ぎました。
L'estro Armonico 
イタリア語の辞書によりますと
L'estroは、霊感、インスピレーションの他に気まぐれ、発情、虻アブという意味です。

Armonicoは和声、調和する、釣り合いのとれた、調和の
という意味です。
直訳すると、和声からくるインスピレーションで作った曲という意味になります。
アルモニコという意味には深い意味があります。
アルモニコ=ハーモニーについて子どもたちに向けた東京交響楽団の説明を見つけました。
たくさんの物どうしの関係がうまくいっていること」、むずかしく言えば「調和」という意味です。人間のハーモニーが乱れると、けんかや戦争になります。体の中のハーモニーが乱れると、病気になります。昔のギリシャの人は、空のたくさんの星が、たがいにぶつかりもしないで動いているのはとても不思議だと思い、広い宇宙をひとつにまとめている、その不思議な力を「ハルモニア」、つまり「ハーモニー」と呼びました。」
第8番です。

シチリア島の夕べの祈り

2023-06-04 21:00:00 | ロマン派
行き先も決めず、レンタカーで走った沖縄の旅。

島と島を繋ぐ橋を渡って
藪地島、どんどん狭くなる道に不安に思いかけた時

猫さん、のんびりお休み中。
車を降りて、崖を下ると



ジャネー洞と言うそうです。
中には入れませんが、6500年前の土器が発掘されたのは1950年代。

発見されたのはヤブチ式土器というそうです。

ガジュマルの木と



ギンネムの木

そして、

やっぱり海。

ジュゼッペ ヴェルディ(1813-1901年)フランス帝国タロ地区レ ロンコーレ生まれ、イタリア王国ミラノ没

のオペラ「シチリアの晩鐘」は「シチリア島の夕べの祈り」とも呼ばれています。

1852年パリオペラ座の依頼で第一回パリ万国博覧会のために書かれました。 
台本はウジェーヌ スクリーブ(1791-1861年)フランスパリウマレ、パリ没

1282年フランス軍に支配されていたシチリア島で実際に起きた事件を元に描かれています。

「シチリア島の晩祷」と呼ばれる歴史的事件。
当時シチリア島は、ホーフェンシュタウヘン王家を断絶させたフランス王家のアンジュー家のシャルル ダンジューに支配されていました。
彼は東ローマ帝国の征服を計画していて、そのための食糧や家畜の調達を住民から行い不満がくすぶっていました。

1282年3月30日アンジュー家の兵がパレルモでイタリア系の女性を暴行します。
このことがきっかけで暴動が起こり、シチリア全土に拡大。
4000人のフランス系の住民が殺されました。

その日は復活祭の翌日で「夕べの祈り」のために教会の前に住民たちが集まっていて、暴動が起きたときに「夕べの晩鐘」が鳴っていたため、この時の暴動を夕べの祈り、晩祷と呼ぶようになりました。

依頼者はフランス、パリオベラ座、ヴェルディ自身はフランスに支配されていたイタリアの生まれで、独立運動にも1役買っていました(ヴェルディ自身は積極的に関与したわけではありませんが。)そして平和の祭典「パリ万国博覧会」での上演。

この複雑な関係をヴェルディはどう処理したのでしょう?

オベラ「シチリア島の晩鐘」では、

1855年スコア
主人公のアンリはフランス人の総督モンフォールの息子であることが物語の後半に明かされます。

ヒロインは前シチリア王家の娘のエレーヌ公女。

怒るシチリア島の住民の中で担ぎ上げられるエレーヌ。

思わず父親をかばってしまうアンリ。
二人はなんとか暴動を回避しようとしますが、止められずに巻き込まれていきます。

この物語を、シチリア側にも、フランス側にもつけない主人公とヒロインの苦しみと葛藤の悲劇として描いています。





モーツァルトの愛したホルン奏者

2023-06-03 21:02:00 | 古典
6月2日雨ですね~。
枚方も何度も警報が出たり、解除されたりでスマホが鳴っていました。

朝10:00に電話があり、身体の具合の悪いお母さんのサボート頼まれました。12:00から3時間。
依頼者宅で赤ちゃんを見ました。
雨が降ると急に具合が悪くなる人が多いのかな。
赤ちゃんは可愛くて、少しグズっただけで鈴の入ったおもちゃであやしていると、すぐ寝てしまいました。
寝顔いいですね~。

梅雨になると紫陽花が目立ちますね。
少し近所を歩くだけでいろいろな紫陽花が目に入ります。
なんだか忙しかった今週の最後に、エアーポケットに入ったみたいな赤ちゃんとのひとときでした。

眠れる曲ランキングを見ると「G線上のアリア」チャイコフスキーの「弦楽四重奏」などなど有名どころが並んでいます。

その中でウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没


の「ホルン協奏曲第3番」が入っていました。
モーツァルトはホルン協奏曲を第一番から第四番までと、他にもホルンの曲をいくつか書いています。

友人のホルン奏者ヨーゼフ ロイトゲフ(1732-1811年)ノイラーフェンヒルト生まれ、ウィーン没
に、多くの曲を献呈してします。
彼は名手だったらしく1763年エステルハージ家で務めている時にハイドンからも曲を献呈されています。
1ヶ月しかここでは務めず、ザルツブルクに移り、大司教の音楽団にはいり、レオポルド モーツァルト



ミヒャエル ハイドン(ハイドンの弟)
と同僚になります。
ここで7歳のウォルフガング モーツァルトとも友だちになりました。

1763年家族とともに旅行中にレオポルドが友人にあてた手紙の中でウォルフガングが会いたいと言っている中に、他の友人とともにロイトゲフの名前もあがっています。

最終的にウォルフガングも採用され、ロイトゲフの同僚になります。

2人は度々仕事を休み、演奏旅行に出かけました。

1773年にはレオポルドと3人でイタリアに演奏旅行をしています。
1782年にはレオポルドが彼にお金を貸して家を買っていることがわかっています。しかし、返済が滞ったらしく、ウォルフガングは同情しながら、分割なら払えそうだと父にかいています。

ウォルフガングはロイトゲフをしばしばからかっていたらしく、楽譜に彼が遅れる箇所を記したり、「ウォルフガング モーツァルトはロイトゲフ、ロバ、牛、シンプトンを憐れむ」とK417の楽譜に書いています。

1791年6月にはコンスタンツェの不在の間、ロイドトフを自宅に泊めて、「楽しかったです。」と手紙に書いています。

そういう関係の中で、ホルンの名曲が生まれました。



大フィルコンサートに行ってきました。

2023-06-02 21:00:00 | 近代
水曜日、ピアノの坂田さんと大阪フィルハーモニーのコンサートに行ってきました。

会場はシンフォニーホール

ショスタコーヴィチの交響曲第5番の解説を開演前に指揮者の大植英次さんが事前にレクチャーしてくれました。

当時ショスタコーヴィチは、将来を嘱望された作曲家から、一転し、「堕落音楽」と批判されていました。
なので、この音楽に言いたいことを隠して入れています。

2楽章はマリオネットを動かしているような弦のスタカートの主題。
これはスターリンが世界を操っていると幹部たちは思ったけれど実はショスタコーヴィチが操っているという意味にとれます。
最後のフィナーレはソ連の勝利と
本当はカルメンの「ハバネラ」主題が隠されていて「愛は自由な鳥、誰も飼いならすことはできない」と言う歌詞のとおり、強権的なソ連の崩壊を描いています。

初演時、ソ連の幹部たちは手を叩いて拍手喝采。だがショスタコーヴィチは唇をかんで一度お辞儀をしたのみで退出しました。

第4楽章のコーダのテンポは、旧来演奏されていたものより速いテンポだと思います。
1982年僕の師匠のバーンスタインがモスクワで演奏した時に速く演奏したら、ショスタコーヴィチは「自分の考えていた通りの演奏だ。」と言っていました。
なのでテンポは速く演奏します。

ということで、演奏されました。

隠された意味、テンボ。
いずれも諸説ありますが、演奏する指揮者の口から聴けたというのがおもしろかったです。

この前大阪エスカルで一緒に合奏してくださった井上登紀さんはピッコロで、枚方在住のハーピスト平野花子さんも演奏されていて、嬉しかった!
地元のオケならではですね。

バーンスタインか大フィルの演奏を載せたいところですが、共有できない設定なので…。
こちらのテンボもなかなかいいです。




フレールジャック、日本ではあの歌!

2023-06-01 20:59:00 | 民謡
5月30日(火)は、牧野生涯学習センターの音楽室で「聴き合い会」をしました。
ワンコインで15分出演。
お互いの演奏を聴きあったり、合奏をしたりして、お互いを励まし合いましょう。音楽活動を活性化できればとセンメルトリオの3人で始めました。

おかげさまで楽しい会になりました。
楽器はリュート、ギター、ウクレレ、ヴァイオリンヴィオラ、ピアノ、フルート、トラヴェルソ。加えてソプラノ。

枚方市、寝屋川市、富田林市、河内長野市、茨木市、堺市、西宮市、箕面市、一番遠方は香川県高松市から、海を渡って泊まりで来てくれました。
うれしいサプライズでした。

写真は11弦(11コース)リュート。

ルネサンスのブランルを演奏してくれました。

楽譜も、ルネサンス期の表記です。

後半はセッション。
初めましてのヴィオラとフルートとソプラノ、ピアノで合奏をしたり、即席のフルート五重奏と、楽しみました。

最後には、ロンドントリオを全員で合奏しました。
楽しかった〜!と言うお声を多数頂きました。

演奏終了後は、もちろん近所の居酒屋さんで打上げ。あれ?これだけ参加の人も…。

次回は6月30日(金)牧野生涯学習センター音楽室13:00〜です。
一緒に演奏しませんか?
申込みは久米まで。

「フレール ジャック」というのは、フランスに古くから広まっている民謡です。

ジャン フィリップ ラモー(1683-1764年)フランス王国ディジョン生まれ、フランス王国パリ没

父がディジョン大聖堂のオルガ二ストでした。
ラモー自身もパリで学んだ後、クレルモン大聖堂のオルガニストになります。パリ、ディジョン、リヨンのオルガニストにもなります。
四十代になるとオペラの作曲に没頭します。リュリに取って代わります。

1772年 Diapason général de tous les instruments à ventの写本にルイ ジョゼフ プランクール(パリオベラ座のヴァイオリニスト)がカノン4曲がラモーの作品であると書いています。

その中の一曲が「フルール ジャック」です。
2曲はラモーの作品であることがしられていますが、この曲をラモー自身は目録にも載せていません。

1811年ピエール カペル編の歌曲集が出版されました。シャンソン小屋で歌われていたものを集めたこの曲集に「フレール ジャック」が入っていました。
その中にはラモーの他の曲も何曲か載っています。

修道士の、朝課のための曲だと言われています。

日本では「鐘がなる」と、なぜか「グーチョキパーで何作ろう?」など、作者不詳の替歌が多数。
「味噌汁飲みたいな、ナメコがいいな、おかわりはい!」
「アンパン食パン」
などなど、こどもの手遊び歌として使われているようです。

「フレール ジャック」
第一声:Frère Jacques, Frère Jacques, (ジャック修道士よ、ジャック修道士よ)
第二声:Dormez-vous ? Dormez-vous ?(お眠りですか? お眠りですか?)
第三声:Sonnez les matines ! Sonnez les matines !(朝のお勤めの鐘を鳴らしてください! 朝のお勤めの鐘を鳴らしてください!)
第四声: Ding ! Ding ! Dong ! Ding ! Ding ! Dong !(キン! コン! カン! キン! コン! カン!)