『窓の向こうのガーシュウィン』を読んでいたら、認知症かどうか調べるために
「長谷川式」でテストしてみようという話が出てきた。
「長谷川式」?そうだわ、私、NHKスペシャルで長谷川先生の姿を見てえらく感激して
書き留めておいたんだわ、とそのことを思い出して下書きを探し出した。あった。
今は冗談のように、夫に夫から「アキヤマサン(脳神経外科)に行ったら!?」
と言い合いっこしているけれど、遠からず直面するだろう認知症に対する
漠とした不安は身近に潜んでいる。
公式ホームページから
自ら認知症であるという重い事実を公表した医師がいる。
認知症医療の第一人者、長谷川和夫さん(90)。
「長谷川式」と呼ばれる早期診断の検査指標を開発、
「痴呆」という呼称を「認知症」に変えることを提唱するなど、
人生を認知症医療に捧げてきた。
認知症専門医が認知症になったという現実をどう受け入れ、何に気づくのか。
誰もが認知症になりうる時代。
長谷川さんの姿を通して認知症を生き抜くための手がかりや希望をつむぐ。
長谷川さんは研究の師から「君が認知症になって初めて君の研究は完成する」
と言われたそうだ。
ずしんとくる言葉だ、けれどご自分がそうなるとは当時は想像だにしなかった
ことであろう。
そしてある患者さんが発した「僕の心の高鳴りはどこへ行ってしまったんだろうか」
という悲痛な叫びが今も忘れられないと話す。
その患者さんの奥様が 五線譜に書き留められた言葉を見せてくださった。
「僕にはメロディーがない。和音がない。共鳴がない。
帰ってきてくれ、僕の心よ。すべての思いの源よ、再び帰ってきてくれ。
あの美しい心の高鳴りはもう永遠に与えられないのだろうか」
つらいだろうなと思う。
比べることに何の意味もないが、今の自分だって「心の高鳴り」がないことに
虚しさを感じる時があるのだからそのつらさの想像はつく。
書き留めた長谷川先生の言葉、ほんの少し。
自分自身が壊れていきつつあるというのがほのかに分かっている。
いつも確認していなくてはいけない、そういう感じ。
「確かさ」という生活の観念が、生きているうえでの
「確かさ」というのが少なくなってきたように思う。
年を取るということは容易ではない。
僕の生きがいは何だろう。
夢と現実の境目がよくわからなくて、
夢の中のことが現実に起こっているような気がして
はっきりしないことがある。
認知症を生きるとはどういうことか。
余分なものがはぎとられるわけだよね、認知症になると。
心配はあるけれど心配する気づきがない。よくできているよね。
神様が用意してくれたひとつの救い。
最後に番組のスタッフが質問した。
「認知症になっての景色ってどんな景色ですか?」
「変わらない。ふつうだ。前と同じ景色だよ。
夕日が沈んで行くとき富士山が見えるときふつうだ。会う人もふつうだ。変わらない。」
「認知症になっても見える景色は変わらない」。
この言葉を聞いたとき「そうか、認知症になっても見える景色は変わらないのか」
と全身がほわっと緩むような安堵した気分になって。
ま、認知症になってもそれはそれで仕方ないかと思えたのよ。
(そばで生活を共にしたり介護する立場になったりしたら、
これはまた別な話になるだろうけれど)
番組ディレクターの言葉。
番組で紹介できなかった長谷川さんの言葉…。
「認知症の人は、急にぱっと認知症になったわけではない。
通常の状態と連続しているんだ。だから普通の人なんだよ。」
よろしかったらご覧ください
「認知症の第一人者が認知症になった」
そして、今日から自分もその病気が始まるかもしれないという年齢になり、この動画は貴重なことに気づかせてくれました。
これまでは介護する方の大変さは思っても、ご本人の心の内を見ることはなかったのです。
誰も認知症になりたいなんて思わないのにこの現実
さてどうしましょう?
長谷川先生が、認知症になってもみている世界を
「ふつうだ」「不幸じゃない」「神様が用意してくれたひとつの救いだ」
と言ってらっしゃることで、根拠のない安堵が体を包みます。
なんて、きれいごとかしら。