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気ままに

大船での気ままな生活日誌

新横綱・白鵬は義経遺伝子に動かされている

2007-05-31 11:07:21 | Weblog
白鵬が昨日(5月30日)、めでたく横綱伝達式を終え、晴れて69代横綱になりました。これで、東西両横綱がモンゴル人で占められたことになります。ボクは日本の国技の相撲で、はじめてモンゴル人の朝青龍が横綱になったときに、ある壮大な仮説を思いつきました。でも、品格に欠ける(笑)横綱で、ちょっと違うかなと思い、その説は未発表のままにしておきました。しかし、今回、またもやモンゴル人の横綱誕生です。それも、ボクの仮説にぴったりの横綱です。そしてその口上が「精神一到」を貫き相撲道に精進します、です。「精神一到」、これでボクの、その仮説は、確信に変ったのです。

利己的遺伝子という言葉を耳にされたことがあると思います。ドーキンスが提唱した進化論の新しい考え方で、進化の主役は生物(人間も)でなくて、遺伝子だという面白い説です。すなわち、遺伝子が自分に都合のいいように(利己的に)進化する、生物はただの遺伝子の乗り物にすぎないというのです。ボクはこの説が大好きです。わるいことをしても、悪いのはボクじゃない、いけないのは遺伝子ちゃんだと言えるからです(汗)。


白鵬は義経遺伝子に動かされている、これがボクの仮説です。その理由を説明したいと思います。

まず、義経遺伝子がモンゴルに入った経過を簡単に説明します。高木彬光の「成吉思汗(ジンギスカン)の秘密」で明らかにされていますように、義経は衣川の戦いでは死んでいません(実際、義経の首は確認されていません)。落ちのびて、アイヌに渡り(アイヌ伝説がいっぱいありますし、碑もあります)、さらに蒙古に渡り、テムジン(天神の意味にとれます)になり、騎馬部隊(義経の得意の戦法です)を駆使し、蒙古を制圧、そしてジンギスカン(源義経の音読はゲン・ギ・ケイで、それがなまってゲンギス―ゼンギス―ジンギスになった)となり領土を拡大し、モンゴルの英雄となります。ジンギスカンの旗印は九りゅうの白旗で、源氏の白旗(それに九郎義経ですね)と同じです。まだまだ、たくさんの、なるほど、納得データがありますので、詳しく知りたい方は、この本を読んでください。

さて、ボクはこの高木説に加えて、弁慶も義経と共にモンゴルに渡ったという説を考えています。弁慶の仁王立ちがあるではないか、それは無理な仮説だと思う方もあるかも知れませんが、義経の家来には弁慶のほかに常陸坊とかの僧兵もいますし、身代わりは十分可能です。そして、ボクのこれから述べるけんきゅうからしても、そう考えた方が、しっくりいくのです。

さて、モンゴルに侵入した義経遺伝子は、何を考えるでしょうか。当然、いつの日か日本に戻り、そこで王者になり、積年の夢を果たしたいと思うでしょう。それが日本の武道の王者、できれば日本の国技の相撲の王者となれば申し分ありません。義経遺伝子は虎視眈々とこのチャンスを狙っていたのです。

ボクがこのことに初めに気づいたのは、白鵬と義経の世に出る状況が極めて良く似ていたからです。どちらも名門の出で(白鵬は国民的英雄、モンゴル相撲名横綱の子、義経も源氏の名門、義朝の子)、奇しくも、いずれも末っ子です。そして、同じ15,6才のとき、白鵬(当時の名前はムンフバト・ダヴァジャルガル)はモンゴルを、義経(当時の名前は牛若丸)は鞍馬山を出ています。そして22才のとき、白鵬は69代(逆さ読みしてください96、九郎です)横綱となり、いよいよ新たな相撲道に邁進することになります。一方、義経は、同じ22才のときに、九郎義経として、富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣で涙の初対面しているのです。まさにこの日が、その後「精神一到何事かならざらん」で奇跡のいくさを仕掛ける、いくさの天才、義経伝説の始まりなのです。

そして、ボクはいろいろ調べていくうちに、義経遺伝子が白鵬という乗り物に巧妙に仕組んだ、驚くべき事実を知ることになるのです。これは次回のお楽しみに。

・・・
本当は今日、全部書くつもりでしたが、松坂が打たれて、気が乗らないので明日にします。ボクが悪いんじゃない、ボクのブログ担当遺伝子ちゃんがいけない子なんです。

(つづく)





 



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どの山アジサイも”世界にひとつだけの花”

2007-05-30 09:15:59 | Weblog
ボクは去年ぐらいから、すっかり山アジサイのフアンになってしまい、今年も、先だっては、光則寺の山アジサイを観てきたばかりです。昨日は、毎年今頃開催している、大船フラワーセンターの”日本の自生アジサイ展”を観にいってきました。ヤマアジサイ、エゾアジサイ180種、250株が一同に展示されているのです。それはそれは見事なものでございます。

会場に入ると、まず数の多さに圧倒されます。立錐の余地がないほどアジサイの鉢が台の上に所狭しと並んでいます。そして、どの鉢の花もみな見頃で、それぞれ皆違う色合いであり、かたちであり、香りであるのです。まさに”百花園”です、秘密の花園です、”アルプスのお花畑”です。

少し、落ち着き、ひとつひとつも観ていくと、本当にどれもこれもみんな、すばらしいのです。可憐、清楚、清新、キュート、可愛らしい、清潔そう、理知的(?)、ときには、あでやか、妖艶、奔放、天然ぼけ(?)、それぞれの花にいろいろな形容詞があてはまり、それぞれが、とても個性的に美しいのです。

アジサイはもともと日本古来のもので、西洋アジサイも、江戸時代に海外に渡ったガクアジサイ(浜アジサイ)が品種改良されたものだそうです。ここに飾られているヤマアジサイは、日本全国の山間高地の沢筋に自生しているもので、花は一般に小振りで可愛らしく、そして産地によって異なる、非常に多種多様な色、かたちの花をつけます。

白舞妓、白妙、紅手まり、乙女の舞、みやび、こむらさき、伊予残雪など、素敵な名前をつけてもらっています。ボクは薔薇や芍薬などでは、どの品種がミスユニバース世界一(森理世さんおめでとう)か決めてしまう癖があるのですが、ヤマアジサイは、本当にどれもこれもすばらしく、世界一を決めることができませんでした。SMAPの”世界にひとつだけの花” のように、どの品種も、”特別な Only one”にみえましたよ。

さすが、この山アジサイ展は人気があります。鎌倉テレビが取材にきていて、カメラを回していました。ボクはさりげなくカメラの前を2,3度通り過ぎましたので、テレビに出ると思いますので鎌倉地区の人はみてくださいね。それと、6月2日(土)のNHKのおはようニッポンでも、全国版は6時半から1分、関東甲信越版では、7時40分から7分間放送があると、案内の張り紙がありました。

6月3日(日)までしかやっていませんので、近くの人は観に行ってくださいね。NHKの撮影は今日あたりだと思います。まだ薔薇園も十分観られますし、ショウブが咲き始め、山野草も見頃のがたくさんあります。それと、隣りで、さつきの凡才展、しし失礼しました、盆栽展もやっていますよ。

・・・・・
世界に一つだけの花

作詞・作曲 槇原 敬之
歌唱 SMAP

花屋の店先に並んだ
 いろんな花を見ていた
  人それぞれ 好みはあるけれど
   どれもみんな きれいだね

この中で誰が一番だなんて
 争うこともしないで
  バケツの中 誇らしげに
   しゃんと胸を張っている

それなのに 僕ら人間は
 どうしてこうも比べたがる?
  一人一人違うのに その中で
   一番になりたがる?

そうさ 僕らは 世界に一つだけの花
 一人一人違う種を持つ
  その花を咲かせることだけに
   一生懸命になればいい

小さい花や 大きな花 一つとして
 同じものはないから
  No.1にならなくてもいい
   もともと特別な Only one

ララーラ ラーララ ラーララ ラーララ・・・・・ 
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霊泉寺大けやきは良寛さん

2007-05-29 09:24:08 | Weblog
ボクらのバスツアーの宿泊先は上田からほど近い、美ヶ原高原のふもとにも近い、霊泉寺温泉の、とある和式旅館でした。美人の若女将とかわいい娘さん(幼稚園生)が迎えてくれました。むかしながらの小さな旅館ですが、温泉もかけ流しで、山菜、川魚のお料理もおいしく(秋は近くで採れる松茸が人気らしい)、そしてもちろんお酒もおいしく、”ふるさとへ帰ってきた、そんな感じの霊泉寺温泉”というキャッチコピーが素直に受け入れられるそんな居心地の良い温泉旅館でした。

ボクは、朝5時半に目が覚めて、早速、誰もいない露天風呂にひとりでゆったりつかり、そして、まだねぼけまなこのワイフを残して、ひとりで朝散歩に出掛けました。鄙びた温泉ですので、旅館は数軒しかありませんし、もちろん、お土産屋さんも、スナックも、射的場もありません。ただの静かな山村です。

踊り子草や、たぶん自生のオダマキが咲き乱れる道を少し歩くと、金剛山霊泉寺というお寺が目に入りました。ボクはほとんど予備知識なしでこのツアーに参加したので、この温泉の由来を全く知りませんでした。このお寺の山門近く案内板で、この温泉は数百年間、ここの寺湯であったことを知りました。その案内板をみている途中、ふと目をやると、向こうに巨大な樹木がどかーんとあるのに気づきました。あまりの幹の太さに度肝を抜かれ、ふらふらとその大木に近づいていきました。

木の前に立て看板があり、「丸子町天然記念物、霊泉寺大欅」とかかれていました。説明文として、目の高さの幹の太さ9.4メートル、樹の高さ35メートル、枝の広がり南北30メートル、東西27メートルとありました。しかし、一番知りたい樹齢については何の記載もありませんでした。でもこの太さからボクは千年と推定しました。というのは、前日みた生島足島神社の夫婦欅が樹齢800年ということでしたので、これよりもりっぱにみえたからです。

太い幹には、普段よくみる緑の苔がむしていて、なんだか、土や岩の上で増えるのと同じような気持ちでこの幹の上で増えている、そんな風情でした。苔が安心している、こんな安心を与える、この木はすごい、とボクは感心してしまいました。でもすぐその理由が分りました。

反対側に回って、表面に露出した巨大な根の一部(幹と言ったらよいか?)をみて驚きました。その根は左側の石垣の方に張り出しているのですが、根と石との境目がどこか分らないほどなのです。もう、けやきと石とが合体してしまって、オレは石なのか木なのか、自分でも分らなくなってしまっているようなのです。その証拠に、さっき向こう側でみた、(こちら側にもありますが)あの緑の、同じ苔が石垣にも生えているのです。きっと、苔も、はじめは石垣だけを住処にしていましたが、いつの頃からか境目が分らなくなって、どんどん木の方に進出していったのでしょう。

苔をやさしく受け入れ、まるで遊んでやっているような姿の大けやきでした。それは、まるで、子供たちと手毬をついて遊んでいる良寛さんのようでした。

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無名戦士の墓

2007-05-28 17:28:48 | Weblog
この土日、ボクらは、一風変ったバスツアーに参加してきました。観るところは、ほとんどお墓とか野原だとか、水田だとかです。そんなとこ、おらがくにさには、どこでもあるでごわす(どこのくに?)と言われそうなツアーです。

あの武田信玄が生涯二度、戦に負けていますが、その二度の相手の武将が、今の、上田市に隣接する坂城(さかき)町にお城をもっていた村上義清(NHKの風林火山では永島敏行が演じています、昨日の放送に出ていました)です。

はじめの戦いが、”上田原の戦い”で、信玄も傷を負い、板垣信方(千葉真一)や甘利虎泰(竜雷太)という信玄が最も信頼していた有力武将を失います。大敗北といってよいでしょう。そして、2年後に、信玄は復讐戦として砥石城を攻めますが、またもや敗走、世にいう”砥石くずれ”になってしまったのです。今回のツアーで、その時代の戦いの跡を観てきたというわけです。

冒頭述べましたように、戦いの跡と言っても、「上田原古戦場」という大きな石碑は建っていますが、まわりはただの野原であったり水田であったりします。それでも、板垣信方の墓(板垣神社という名前になっていました)や雨宮刑部の墓、そしてアップした無名戦士の墓などをお参りしているうちに、ただの野原も、”強者どもの夢の跡”のように、みえてくるから不思議です。

とくに、田植えの終わったばかりの、畦道の片隅にひっそりと佇んでいた、崩れかけた数個の五輪塔には心をひかれました。村上軍とかかれた赤い旗が折からの5月の風にはためいていて、その横に「無名戦士の墓」と書かれた案内板がたっていました。たぶん、村上軍の名だたる武将のお墓だったのでしょうが、ボクには最前線で戦った、文字通り無名の戦士たちのお墓のようにみえました。

個人旅行なら、ボクはこういう場所で、たいてい1時間ぐらい座り込みます。それができず、ちょっと残念でした。十分お話もできず、名残り惜しかったです。去年、頼朝ゆかりの場所を訪ねて、ひとりで伊豆を回ったときがあり、そのときも修善寺の、”此の里に悲しきものの 二つあり 範頼の墓と頼家の墓と”(正岡子規)の、お墓の前でたっぷり時間をとって、おふたりの愚痴を聞いてあげたものでした。

村上義清は、その後、結局はこの地を追い出され、越後に逃れ、上杉謙信の家来になります。終焉の地もいろいろ説があり、越後の2カ所のほか、常総国宮原(今の市川市です、そこが地盤であった常総村上氏が祖であったそうです)の説もあるそうです。また、子孫の方が、水戸徳川に仕え、現在でも、ボクが幼少年時代を過ごした三鷹市にも家系が続いているそうです。ひょっとして、あの村上君がそうだったのかもしれない、そういえば、チャンバラが強かった、など思い出していました。

説明がじょうずな若い学芸員さんに連れられて、近くの、江戸時代の当地の代官によって建立されたという、村上義清の供養塔をお参りしてきました。





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南洋杉のつぶやき

2007-05-26 06:36:58 | Weblog
江ノ島のサムエル・コッキング苑(旧江ノ島植物園)を回っているとき、多くの椰子の木に混じって、2本のとても存在感のある杉のような大木に気づきました。すくっと立ち、凛としていますが、威圧感はなく、むしろ幾分悲しげな風情を背中に漂わせていました。

お名前を拝見すると、手前の木には「シマナンヨウスギ(島南洋杉)」と向こうの木には「クックアローカリア」という名札がつけてありました。どちらも、ナンヨウスギ科に属するそうで、日本の杉とは明らかに異なりますが、濃い緑色の杉っぱをたくさんつけていました。両方ともあの、世界周遊家キャプテン・クックが南太平洋パイレ群島で発見したものだそうです。

ボクはすぐ、この風格のある、背丈16メートル、胴回り3メートルもある、2本の杉の大木に、それぞれシマナン酋長、クック将軍とあだなをつけました。そして、いつものように話しかけてみました。いつ頃から江ノ島に来られたんですかとお聞きしましたら、将軍が即座に「明治15年、1882年にはるばると南太平洋のパイレ群島から運ばれてきた」と答えてくれました。そして聞きもしないのに、「来た頃は夏はまだいいのだが、秋口になると寒くてな、真冬はこごえてしまうようだったよ、慣れるのに10年かかったよ」と続けました。

ボクは、自分の単身赴任の海外生活時代を思い出して、ホームシックに罹らなかったですかと聞いてみました。これも将軍が答えてくれました。「隣りに酋長君もいたしね、それに、回りに椰子の木君たちもおおぜいいるしね、連中はフラダンスやったり椰子酒呑んで騒いだり、うるさいくらいで、ホームシックかかる暇がなかったよ」

そのほかいろいろの話をしてくれました。ここの庭園はアイルランド人の貿易商サムエル・コッキングという人が私財をなげうって、明治15年(1882年)から数年にわたってつくり、当時の広さは1万平米もあったとか、そして当時としては珍しい660平米の温室まであったという話をしてくれました。その温室の遺構が今も見られるようになっています。

そして、自分の仲間が、現在、観葉植物として人気があることや、クリスマスツリーにも利用されていることを得意気に話してくれました。ボクは、それは、それは、ご種族のご繁栄おめでとうございます、と言って、風雪を感じさせる、クック将軍の皮のはげかけた太い幹をわんちゃんのお腹をさするように、なでてあげました。将軍は目を細め嬉しそうにしていましたが、隣りの、今まで一言も発していなかった、シマナン酋長が口をもごもごさせているのに気づきました。そして、ちょうど笠智衆のような口調でぼつぼつ話し出したのです。

とととんでもない、とんでいすたんぷーる、かっぱどきあ、とわけのわからないことを口ごもったあと、驚くべきことを話し出したのです。種族の繁栄なんかとんでもない、と言うのです。もう大部前から生まれ故郷の、南洋の島の仲間達がいなくなってしまった。遠く離れたここ江ノ島とか、将軍が話していたような、観葉植物として増やされ、からくも種族の命をつないでいるのだそうです。

ボクは小津安二郎のローアングルで(木を見上げるのだから、あたりまえですが)、笠智衆を見上げたのです。笠智衆は「いなくなってしまった」と言ったあと、くるりと脊を向け、相模湾の向こうに続く、太平洋、そのずっと先の、故郷の南太平洋の方をみつめていました。背中が少し小刻みにふるえているようでした。

「いなくなってしまった」のではない、「人間たちに大量に伐採されてしまった」のだ。ひどい奴らだと、ボクは言いかけて口をつぐんだのでした。どこからか、おまえ達だって悪い、森林資源をつかいほうだい、つかってたのは誰れだ、という声が聞こえてきたからです。

ボクは小津映画を観たあとのように、”映画を観たあとから物語は始まる”、”客にみやげをもたして帰さなければならない”のような気持ちで、そこを離れたあとも、しばらくそのことを考え続けさせられたのでした。






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タンメン記念日

2007-05-25 11:11:11 | Weblog
昨日、ボクは思いがけず(渋澤達彦さんのおかげで)、地元、大船に本格的なおいしいお蕎麦屋さんがあるのをはじめて知り、大喜びしました。そして、その翌日、こんどは、なんと、ボクがお蕎麦の次ぎに好きな麺類、タンメンのおいしいお店に出会ったのです。それで、この記念日に、タンメンちゃんについて書いておこうと思います。

タンメンちゃんは同期のラーメンちゃんに較べると、本当に地味です。ラーメンちゃんには、ラーメン激戦区とかラーメン横丁とかが、全国のあちこちにありますし、新横浜にはラーメン博物館まであります。そして、喜多方ラーメン、佐野ラーメン、札幌ラーメンとか、有名銘柄がたくさんあり、味を競っています。

それに対し、タンメンちゃんには、タンメン横丁なんて聞いたことありませんし、もし、タンメン博物館なんかできたとしても、ああ、やっぱり博物館行きか、かわいそうに現役引退かと、かえってイメージを落としてしまいます。

第一、タンメン屋という専門店をみたことがありません。たいていラーメン屋さんや大衆中華料理屋さんの、メニューの片隅に申し訳なさそうに載っているだけです。きっとコックさんも、ほかの料理を作ったときの、余った野菜を使うのにちょうどいいから、タンメンのメニューを入れておこう、そんな感じなのです。それは、まだ良心的な(?)方で、メニューに入れてないラーメン屋さんの方が多いのです。

サラリーマンに例えると、ラーメンちゃんは、皆に好かれる性格で、会議のときも気の利いた発言をし、仕事もてきぱきする、そんな社員です。一方、タンメンちゃんは、たんたんとしていて、自分から進んで売り込むようなことはせず、会議のときでも、会社にとって、もうけになるいい案が浮かんでも、こんなことやったら、世の中のためにならないと、口をつぐみます。でくのぼーと陰口をたたかれていますが、雨にも負けず、風にも負けず、夏の暑さだけには負ける、とても純真ないい青年です。

タンメンちゃんの同期に、名前が似ているのですが、性格がゼンゼン違う社員がいて、彼らにも出世競争で遅れをとっています。ひとりはたんたんめんちゃんです。辛口発言でみなに嫌われていますが、要領の良いところがあって出世してきました。労働組合の委員長をやって、労使協調路線を確立させたのが評価されたようです。

もうひとりは、わんたんめんちゃんです。カラオケでいつも歌う唄が、先だって亡くなられた植木等さんのすーだら節です。スイスイスダラッタ、スラスラスイが口癖です。頭の中はからっぽですが、のらりくらりと、人の心をつかむ特技があり、とくに年寄りを喜ばす殺し文句をうまく使い、実力はないのに、もうタンメンちゃんの上のポスト、係長代理代行心得控えになっています。

・・
ボクはこちらに越してきてから、ずいぶんと美味しいタンメンを探し求めてきました。でも大船、鎌倉のどのお店もボクを満足させることが出来ませんでした。たいていのお店のタンメンは、一番ボクが重視しているお汁が落第なのです。油濃くってとても呑む気がおこりません。タンメンを売り物にしている、あるお店のもそうでした。

ボクの理想のタンメンは、以前住んでいた常磐沿線の、偶然みつけた住宅街の小さなラーメン屋さんのタンメンなのです。麺もよし、野菜もいっぱい、そして、汁は、たんたんとしながらもタンメン独特のボクの味蕾を微妙に刺激する心地よい味、もちろん油っぽくなどなく、おいしくて一滴も残さず飲み干してしまう、そんなおいしいおいしいタンメンだったのです。

ただ1軒だけ、大船にまあまあ合格のお店があって、タンメンを食べるときはそこに行くのですが、昨日、もう一軒、ここに匹敵するか、ちょっと上かもしれないお店をみつけたというわけなのです。そこは、大船でなくモノレールの江ノ島駅を降りて海岸に向かう通りにあります。でもあの、ボクの”幻のタンメン”にはまだまだ及びません。

ボクは江ノ島のてっぺんにある、サムエル・コッキング苑のマイマミビーチ広場から、眼下のヨットハーバー(写真)を眺めていました。そして、”幻のタンメン”を求めて、”航海”するのもなかなかいいなと思ったのでした。今日は、タンメン記念日にしようと、ボクは黒革の手帖の、その日の日付の欄に、タンメンと書いて、つづけて()内にそのお店の名前を書き入れたのでした。
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渋澤達彦 お蕎麦とタンポポ

2007-05-24 10:46:47 | Weblog
鎌倉文学館で特別展「渋澤達彦、カマクラノ日々」が開催されていました。ボクは、これまで渋澤達彦さんの著作を読んだことがなく、馴染みのうすい作家でしたので、外の華やかな薔薇園に較べて、正直言って「渋澤達彦展」への関心はうすかったのです。でも、どういう人で、この世の中をどういう風にみているのだろう、ちょっと知りたくて覗いてみました。

廊下に、鎌倉の野に咲く日本タンポポの、大きな写真パネルが飾ってあって、その下に次ぎのような渋澤達彦さんの言葉が紹介されていました。

「花の中では何が好きかと訊かれた場合、私はいつもタンポポと答えることにしています。日本の原野に昔から自生していたはずなのに、花鳥風月的な情緒によって汚染されていないところが何よりいいのです」

そして、ボクは彼のことをもう少し知りたくなって、第一展示場、そして階下の第二展示場と、海の見える休憩室で休んでいた、ワイフがあきれるほど、長時間観てしまったのです。

なんと、初めての作品がジャン・コクトーの「大股開き」(汗)の翻訳でした。そして、マルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」等の翻訳本を多数出版しますが、途中、わいせつ罪で起訴され、いわゆるサド裁判が始まります。結局有罪となりますが、この間、多くの友人ができ、本人はむしろ楽しくすごしていたようです。

その友人の一人に三島由紀夫がいます。そう言えば、三島に「サド侯爵夫人」の作品がありますね。彼の、「サド侯爵の生涯」を読んで構想したそうですよ。植谷雄高らたくさんの友人に囲まれて、そして、龍子さんとの再婚を経て、著作を重ね、晩年は古典に関心を向け、本人がいう「小説というより物語」という小説を書き残しています。唐草物語、ねむり姫、うつろ舟、高丘親王航海記といった作品をものし、昭和62年、59才の若さで生涯を閉じます。

・・・
ボクは、こういう展示で、ミーハー的な情報を得るのも大好きです。ここでも、渋澤達彦さんの好きな、散歩コース、鎌倉の景色、鎌倉の書店などがあって、みんなメモしてきましたが、教えません(笑)。知りたい人は文学館まで足を運んでくださいね。でも好きなお店だけは教えてあげましょうね。丸山亭、天ぷらひろみ、手打ち蕎麦鎌倉の三つです。はじめの二つのお店は鎌倉では有名で、ボクも入ったことがありますが、そのお蕎麦屋さんは知りませんでした。こちらに越してきてからまだ、2年ですから、まだ知らないお店はいっぱいあります。家に帰って調べてびっくり、お蕎麦屋さんは大船にあったんでやんす。灯台元暗しとはこのことですね。でも、大船といっても小袋谷のあたりで、ボクが散歩でも、めったに行かない方面でした。

もちろん、翌日出掛けました。まず、大船図書館に行って、彼の作品、ねむり姫と高丘親王航海記を拾い読みしました。たしかに小説というより物語だ、でもボクの”趣味”にはちょっと合わないようだ(ごめんなさい)、でもエッセイは是非読んでみたいと思い、あちこち探しましたがみつかりませんでした。

そして、お蕎麦屋さんへ向かいました。途中、家と家の間の空き地に、とてもきれいなタンポポが群生しているのをみつけました。よくみる西洋タンポポとは違うので、渋澤達彦さんが好きだった日本タンポポの種類かもしれません。渋澤達彦さんが天国からおりてきて、道案内してくれているのかとふと思いました。そこから、いくらも歩かない内に、そのお蕎麦屋さんの看板が目に入りました。

ここは、靴をぬいでお座敷でいただく方式です。午後1時近くになっていましたが、蕎麦通らしい人が5,6名、蕎麦をすすっていました。そして、セイロを1枚、大盛り(ボクは必ず大盛りにします)で頼みました。値段もいいです。1300円、大盛りは200円追加です。「日本一の蕎麦どころ、北海道・幌加内産特約店」と書かれた小さい紙が、壁のはじっこに貼ってありました。

そして、お蕎麦がきました。一目みて、量がすごい、大盛りにする必要はなかった、そして、わさびはすり下ろしたばかりのもの。蕎麦つゆにわさびとネギを入れて、蕎麦をつけて、一口。う、うまい、また一口、うまい、かたさもちょうどいい、飲み込んだあと、残るかすかな甘みのような余韻。ボクはもう一気に、飲み込むようにいただいてしまったんでごわす。

ふーとボクは息をついて、そば湯をいただきながら、渋澤達彦さんのことを考えていました。彼は北鎌倉の明月院の近くに住んでいて、好きな散歩コースの第一に挙げていたのが、明月院の脇の坂道を上がり、今泉台に出て、鎌倉湖(散在が池)に遊び、そして大船の常楽寺に下るというものでした。このお蕎麦屋さんは、常楽寺の近くなのです。なるほど、散歩のあとは、ここで、昼酒をいただき(ボクならそうする)、おいしい蕎麦でしめる、最高のコースですね。近いうちに、ボクも同じコース(もちろん昼酒、お蕎麦つきで)で歩いてみようと思いました。

渋澤達彦さんのおかげで、きれいなタンポポが観られたし、おいしいお蕎麦もいただけたし、とても嬉しい一日でした。

















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薔薇と鎌倉文士と

2007-05-23 09:41:18 | Weblog
鎌倉文学館でバラ祭りをやっているから、行ってみない? というワイフの誘いにのってふたりで、のこのこ出掛けてみました。ここは鎌倉見物の人気スポットのひとつですが、とくに春と秋の薔薇シーズンは人で溢れます。この日もかなりの賑わいでした。

まず、文学館内の見物です。常設展は、ときどき模様替えしますので、思いがけない、貴重品をみられることもあり、いつも楽しみにしています。前回は小津安二郎監督の遺品の数々が展示してあって、小津フアンのボクとしては”有頂天”になってしまいました。ピケ帽子、パイプ、湯飲み、懐中時計等々、それにカニ足の愛称で知られる赤い色の三脚(カニみたいでしたよ、ローアングル撮影用のカメラ台だそうです)までありました。

この日も、有頂天展示がありましたよ。ボクの敬愛する、歌人山崎方代さんの書の掛け軸です。ご自分の歌を書かれていました。太い、少し丸っこい、方代さんの心みたいにとても温かそうな字でした。

鎌倉の谷戸を埋めて咲き垂るる きぶしの花に命をよせる 方代

星野立子さんの、細い、でもしなやかな書も、その隣りの部屋にありました。
ばらの香か 今ゆき過ぎし 人の香か 立子

堀口大学さんの、色紙。
詩人とは ひとりで じっと 或ることだ  大学

現役の鎌倉文士、お二人が並んで展示されていました。井上ひさしさんと柳美里さん。ボクは井上ひさしさんと波長が合うんですよ(笑)。何度も出会っています。鎌倉駅のホーム、佐助の紅茶専門店(近くにお住まいなのです)、小町通り等々です。たいしたものでしょ。しかし、柳さんと出会ったことはありません。彼女がある雑誌によく西口のラーメン屋さんに行くと書いておられたので、ある日、そのラーメン屋さんで待機していたのですが、現われてくれませんでした。でも、とてもおいしいラーメンでしたよ。もちろん、黒革の手帖のお気に入り覧にメモしておきました。この展示でも、メモしておきたい、井上ひさしさんの色紙の、いい文章がありました。さすが、ですね。

むずかしいことを やさしく
やさしいことを ふかく 
ふかいことをゆかいに
ゆかいなことをまじめに
書くこと

・・・・・ 
薔薇は見事でしたよ。大船フラワーセンターにもいた、トゲのない”鎌倉ちゃん”も大きな黄色い花を咲かせていました。薔薇美人コンテストの投票箱があったので、鎌倉ちゃんに1票入れときました。
・・
特別展で”渋澤達彦、カマクラノ日々”もやっていました。別の機会に紹介しますね。


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おんめさまの、八重のドクダミ開花

2007-05-22 09:14:14 | Weblog
朝の散歩の途中、道ばたのドクダミ(じゅうやく)に、4つの白い花弁(本当は総包片だそうですが)をつけた、清楚な花が咲き始めているのに気づきました。じゃー、あの大巧寺の八重咲きのドクダミも開花しているかもしれないと、出掛けてみました。

鎌倉駅を降りて、すぐのところにこのお寺はあります。山門をくぐって、細い小径を通って、本堂前の庭を目指します。小径の脇には、いくつもの山あじさいが美しい清楚な花を見せてくれます、そしてむかし小さな試験管を洗うときに使ったような、白いブラシのような、コバナズイナの花、黄ショウブ、ユキノシタ、ハクチョウゲ、そして、先日行った光則寺にもあった、ちょっと匂いがきつい、ニオイバンマツリの白と紫の5弁の花が迎えてくれます。「小さな草花も精一杯生きています、みんなで大切にしましょう」の立て札が草花の中で目をひからせていました。ほんとにそうですね、とボクもあいずちを打って、ちょっと歩いた先に、その、ドクダミの小群落があります。

その小群落はドクダミの葉っぱばかりが目立っていましたが、よくみると、3つ、4つ、白い花が咲いているではありませんか。一重ではない、まさしく八重の花でした。万歳!桜でも、標準木の3,4輪が開花すれば開花宣言です。ボクもここで、ドクダミちゃんの開花宣言をしたいと思います。

桜やバラですと、開花すると朝日新聞でも取り上げてくれます。でもドクダミちゃんの開花は、神奈川新聞はおろか、湘南のミニコミ紙さえ載せてくれません。ドクダミちゃんがかわいそうになり、ボクのブログには必ず載せてやるからね、とそのとき、約束したのです。

大巧寺は安産、子育てのお寺として有名で、よく、お腹の大きな若奥さんや、お礼参りの赤ちゃんを抱いた若いご夫婦をみかけます。地元では「おんめさま」として慕われています。ドクダミちゃんが「おんめさま」のお庭にご奉公するのは、適材適所だと思います。というのは、ドクダミちゃんはどんどん増えますし(安産)、そして自分が薬の原料になるくらいですから、とても丈夫で、よく育つ(子育て)からです。

ドクダミちゃんをみていると、まるで昭和2~30年代の子供達のようにみえます。みんな貧乏だったけど、明るい、元気な子ばかりでした。いたずらして、先生にぶん殴られたり、ちゃんばらごっこして傷だらけになったり、ばーかば-か、おまえのかあさんでべそ、と言われても、みんな、そんなことあたりまえで、平気な顔をしていました。

でも、ここの八重のドクダミちゃんはちょっとおしゃれですね。クローバの首飾りや野菊のかんざしをつけているオシャマな女の子といった感じでしょうか。しばらくそこにしゃがみ、白い八重の花を触ったり、のぞいたりしていました。

そして、この6月が予定日の、甥夫婦の赤ちゃんが元気に生まれてくるように、おんめさまにお参りしました。6月はあじさいとショウブの季節ですので、いい子が生まれてくると思います。女の子ならアジにうるサイ、お料理じょうずな、そして食べ歩きの好きなこに育つでしょう。男の子ならショウブごとに強いこに育ち、宝くじをあて親孝行することでしょう。

そんなわけで、今日、ボクは、いつもの倍のお賽銭をおんめさまにあげたのでした。








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ソーレ ソレソレ お祭りだ

2007-05-21 10:59:21 | Weblog
ボクは、毎日がお祭りの縁日みたいな浅草が大好きです。その浅草が、一年中で一番華やかな日々を迎える三社祭に行かないわけにはいきません。最終日の日曜日に行ってきました。暑いくらいの、晴れ上がったお祭り日和の日でした。

お昼過ぎ、銀座線浅草駅を出るともうすごい人出。ワイフはこれがイヤでついて来ません(笑)。でも祭りはこうじゃなくっちゃね。神輿が2台、雷門の前でワッショイワッショイやってます。どこかのおばさんが「あの神輿、一之宮だ」と自信ありげに叫んでいました。そんなはずはない、みこしが少し小さいし、ボクの事前調査では今頃、馬道通りの上の方にいるはずなのです。念のため近くの祭り半纏を着たおじさんに聞いてみましたら、町内会の神輿だと言っていました。そこでしばらく楽しんで、ごったがえす人混みを分け、浅草神社に向かいました。

この三社祭は、よく観音様の浅草寺のお祭りだと間違えられていますが、そうでなくて隣りの浅草神社の例大祭なのです。ここに、一乃宮、二乃宮、三乃宮の3台の御神輿を保管している大きな蔵があります。今朝6時にここで、神輿宮出しの儀式を終え、3台の神輿はそれぞれ、東部、西部、南部方面に巡行中ですので、今は空っぽになっています。ボクは神社のお参りを済ませてから、一乃宮が回っているはずの東部方面に向かいました。馬車通りを上がり、言問通りとの交差点を抜け、さらに進むと、人だかりがみえてきました。思ったとおりでした、その少し入った横道に、雷門前でみた神輿とは、ちょっと品格の違う(笑)御神輿がかつがれていました。そして、間違いなく、その御神輿は「一乃宮」の”表札”を掲げていました。

そしてボクはそこから、ずっと、2時間近くもこの御神輿のあとをつけて行ったのでございます。御神輿は5,60人の人(数えたわけではないので推測)がかついでいますが、その3倍くらいの祭り半纏を着た人々が、担ぎ手の控えでぞろぞろついていきます。ボクがその中に紛れ込んでいるという図式でござんす。

天狗の面をつけた人を先頭に、馬に乗ったお公家さん風の人と、そして、ピーヒャラ ピーヒャラ テンツクテンツクと景気をつける山車などが、御神輿を先導していきます。20,30分もたつと、自分が神輿をかついでいるような気持ちになって、自然とワッショイ、ワッショイと言っていたんでありんす。

町内ごとに、引き継ぎがあり、担ぎ手が交代します。そのとき、みなさんが大きな拍手で御神輿を迎えます。競馬フアンが、優勝したディープインパクトを迎えるときにやるように、両手を上げて、ぱちぱちぱちとやるのです。ボクももちろんやりましたよ。御神輿さんおめでとう、ありがとう、という感じですね。

地元の人と一緒に歩いていると、いろいろの話し声が聞けて面白いですよ。昔は引き継ぎのときは、なかなか引き渡さないで、けんかになったんだよな、今はおとなしくなった、とか。でも、一度、なんと警察署の前の引き継ぎ場所で、怒声が聞こえ、一悶着ありそうになりました。御神輿の上に乗っている人と下の人がなにやら争っているようでした。ボクは、やれ、やれ、いいぞと心の中で叫びながら、前の方に人をかき分けて進んでいきました。でもすぐ納まってしまいました。お祭りに喧嘩はつきものです、もう少し、もめて欲しかったんでごわす。

この引き継ぎを最後にボクは、少し痛くなった腰をさすりながら、でもとても満足して、浅草を離れたんでやんす。

・・・・・
お祭りマンボ


作詞/作曲 原 六朗 
歌唱   美空ひばり

私のとなりのおじさんは
 神田の生まれで チャキチャキ江戸っ子
  お祭りさわぎが大好きで
   ねじりはちまき そろいのゆかた
    雨が降ろうが ヤリが降ろうが
    朝から晩まで おみこしかついで
    ワッショイワッショイ ワッショイワッショイ
    景気をつけろ 塩まいておくれ
     ワッショイワッショイ ワッショイワッショイ
      ソーレ ソレソレ お祭りだ


おじさんおじさん 大変だ
 どこかで半鐘が なっている
  火事は近いよ すりばんだ
   何をいっても ワッショイワッショイ
    何をきいても ワッショイワッショイ
    ワッショイワッショイ ワッショイワッショイ
     ソーレ ソレソレ お祭りだ


そのまた隣の おばさんは
 浅草育ちで チョッピリ美人で
  お祭りさわぎが 大好きで
   意気な素足に しぼりのゆかた
    雨が降ろうが ヤリが降ろうが
    朝から晩まで おかぐら見物
    ピーヒャラピーヒャラ テンツクテンツク
    おかめと 鬼が
    ハンニャとヒョットコが
    ピーヒャラピーヒャラ テンツクテンツク
     ソーレ ソレソレ お祭りだ


おばさんおばさん 大変だ
 おうちは留守だよ からっぽだ
  こっそり空き巣が ねらってる
   何をいっても ピーヒャラヒャ
    何をきいても テンツクツ
     ピーヒャラピーヒャラ テンツクテンツク
      ソーレ ソレソレ お祭りだ


お祭りすんで 日が暮れて
 つめたい風の 吹く夜は
  家を焼かれた おじさんと
   ヘソクリとられた おばさんの
    ほんにせつない ためいきばかり
     いくら泣いても かえらない
      いくら泣いても あとの祭りよ


 
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