白鵬が昨日(5月30日)、めでたく横綱伝達式を終え、晴れて69代横綱になりました。これで、東西両横綱がモンゴル人で占められたことになります。ボクは日本の国技の相撲で、はじめてモンゴル人の朝青龍が横綱になったときに、ある壮大な仮説を思いつきました。でも、品格に欠ける(笑)横綱で、ちょっと違うかなと思い、その説は未発表のままにしておきました。しかし、今回、またもやモンゴル人の横綱誕生です。それも、ボクの仮説にぴったりの横綱です。そしてその口上が「精神一到」を貫き相撲道に精進します、です。「精神一到」、これでボクの、その仮説は、確信に変ったのです。
利己的遺伝子という言葉を耳にされたことがあると思います。ドーキンスが提唱した進化論の新しい考え方で、進化の主役は生物(人間も)でなくて、遺伝子だという面白い説です。すなわち、遺伝子が自分に都合のいいように(利己的に)進化する、生物はただの遺伝子の乗り物にすぎないというのです。ボクはこの説が大好きです。わるいことをしても、悪いのはボクじゃない、いけないのは遺伝子ちゃんだと言えるからです(汗)。
白鵬は義経遺伝子に動かされている、これがボクの仮説です。その理由を説明したいと思います。
まず、義経遺伝子がモンゴルに入った経過を簡単に説明します。高木彬光の「成吉思汗(ジンギスカン)の秘密」で明らかにされていますように、義経は衣川の戦いでは死んでいません(実際、義経の首は確認されていません)。落ちのびて、アイヌに渡り(アイヌ伝説がいっぱいありますし、碑もあります)、さらに蒙古に渡り、テムジン(天神の意味にとれます)になり、騎馬部隊(義経の得意の戦法です)を駆使し、蒙古を制圧、そしてジンギスカン(源義経の音読はゲン・ギ・ケイで、それがなまってゲンギス―ゼンギス―ジンギスになった)となり領土を拡大し、モンゴルの英雄となります。ジンギスカンの旗印は九りゅうの白旗で、源氏の白旗(それに九郎義経ですね)と同じです。まだまだ、たくさんの、なるほど、納得データがありますので、詳しく知りたい方は、この本を読んでください。
さて、ボクはこの高木説に加えて、弁慶も義経と共にモンゴルに渡ったという説を考えています。弁慶の仁王立ちがあるではないか、それは無理な仮説だと思う方もあるかも知れませんが、義経の家来には弁慶のほかに常陸坊とかの僧兵もいますし、身代わりは十分可能です。そして、ボクのこれから述べるけんきゅうからしても、そう考えた方が、しっくりいくのです。
さて、モンゴルに侵入した義経遺伝子は、何を考えるでしょうか。当然、いつの日か日本に戻り、そこで王者になり、積年の夢を果たしたいと思うでしょう。それが日本の武道の王者、できれば日本の国技の相撲の王者となれば申し分ありません。義経遺伝子は虎視眈々とこのチャンスを狙っていたのです。
ボクがこのことに初めに気づいたのは、白鵬と義経の世に出る状況が極めて良く似ていたからです。どちらも名門の出で(白鵬は国民的英雄、モンゴル相撲名横綱の子、義経も源氏の名門、義朝の子)、奇しくも、いずれも末っ子です。そして、同じ15,6才のとき、白鵬(当時の名前はムンフバト・ダヴァジャルガル)はモンゴルを、義経(当時の名前は牛若丸)は鞍馬山を出ています。そして22才のとき、白鵬は69代(逆さ読みしてください96、九郎です)横綱となり、いよいよ新たな相撲道に邁進することになります。一方、義経は、同じ22才のときに、九郎義経として、富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣で涙の初対面しているのです。まさにこの日が、その後「精神一到何事かならざらん」で奇跡のいくさを仕掛ける、いくさの天才、義経伝説の始まりなのです。
そして、ボクはいろいろ調べていくうちに、義経遺伝子が白鵬という乗り物に巧妙に仕組んだ、驚くべき事実を知ることになるのです。これは次回のお楽しみに。
・・・
本当は今日、全部書くつもりでしたが、松坂が打たれて、気が乗らないので明日にします。ボクが悪いんじゃない、ボクのブログ担当遺伝子ちゃんがいけない子なんです。
(つづく)
利己的遺伝子という言葉を耳にされたことがあると思います。ドーキンスが提唱した進化論の新しい考え方で、進化の主役は生物(人間も)でなくて、遺伝子だという面白い説です。すなわち、遺伝子が自分に都合のいいように(利己的に)進化する、生物はただの遺伝子の乗り物にすぎないというのです。ボクはこの説が大好きです。わるいことをしても、悪いのはボクじゃない、いけないのは遺伝子ちゃんだと言えるからです(汗)。
白鵬は義経遺伝子に動かされている、これがボクの仮説です。その理由を説明したいと思います。
まず、義経遺伝子がモンゴルに入った経過を簡単に説明します。高木彬光の「成吉思汗(ジンギスカン)の秘密」で明らかにされていますように、義経は衣川の戦いでは死んでいません(実際、義経の首は確認されていません)。落ちのびて、アイヌに渡り(アイヌ伝説がいっぱいありますし、碑もあります)、さらに蒙古に渡り、テムジン(天神の意味にとれます)になり、騎馬部隊(義経の得意の戦法です)を駆使し、蒙古を制圧、そしてジンギスカン(源義経の音読はゲン・ギ・ケイで、それがなまってゲンギス―ゼンギス―ジンギスになった)となり領土を拡大し、モンゴルの英雄となります。ジンギスカンの旗印は九りゅうの白旗で、源氏の白旗(それに九郎義経ですね)と同じです。まだまだ、たくさんの、なるほど、納得データがありますので、詳しく知りたい方は、この本を読んでください。
さて、ボクはこの高木説に加えて、弁慶も義経と共にモンゴルに渡ったという説を考えています。弁慶の仁王立ちがあるではないか、それは無理な仮説だと思う方もあるかも知れませんが、義経の家来には弁慶のほかに常陸坊とかの僧兵もいますし、身代わりは十分可能です。そして、ボクのこれから述べるけんきゅうからしても、そう考えた方が、しっくりいくのです。
さて、モンゴルに侵入した義経遺伝子は、何を考えるでしょうか。当然、いつの日か日本に戻り、そこで王者になり、積年の夢を果たしたいと思うでしょう。それが日本の武道の王者、できれば日本の国技の相撲の王者となれば申し分ありません。義経遺伝子は虎視眈々とこのチャンスを狙っていたのです。
ボクがこのことに初めに気づいたのは、白鵬と義経の世に出る状況が極めて良く似ていたからです。どちらも名門の出で(白鵬は国民的英雄、モンゴル相撲名横綱の子、義経も源氏の名門、義朝の子)、奇しくも、いずれも末っ子です。そして、同じ15,6才のとき、白鵬(当時の名前はムンフバト・ダヴァジャルガル)はモンゴルを、義経(当時の名前は牛若丸)は鞍馬山を出ています。そして22才のとき、白鵬は69代(逆さ読みしてください96、九郎です)横綱となり、いよいよ新たな相撲道に邁進することになります。一方、義経は、同じ22才のときに、九郎義経として、富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣で涙の初対面しているのです。まさにこの日が、その後「精神一到何事かならざらん」で奇跡のいくさを仕掛ける、いくさの天才、義経伝説の始まりなのです。
そして、ボクはいろいろ調べていくうちに、義経遺伝子が白鵬という乗り物に巧妙に仕組んだ、驚くべき事実を知ることになるのです。これは次回のお楽しみに。
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本当は今日、全部書くつもりでしたが、松坂が打たれて、気が乗らないので明日にします。ボクが悪いんじゃない、ボクのブログ担当遺伝子ちゃんがいけない子なんです。
(つづく)