おはようございます。
11月初めに神奈川近代文学館で”大岡昇平の世界展”を見ている。その感想を。
大岡昇平というと武蔵野夫人や野火やレイテ戦記などの作品が思い浮かぶが、どれも読んでいない。大岡について何を知っていたかというと、ミーハー的なことばかりである。鎌倉・雪の下の小林秀雄宅の離れに住んでいたとか、井上靖の”蒼き狼”に史実と違うとかみついたこととか、大磯町の住民でもあったことから大磯図書館に大岡文庫がある、とか。また、10年ほど前、”駅からハイキング”で小金井の”はけの道(崖の湧き水)”を歩いたとき、この辺りは”武蔵野夫人”の舞台になったところと主催者が教えてくれたこととか、そういう程度のことしか知らなかった。
これらの断片知識をこの文学展がつなぎ合わせてくれ、なるほどと合点がいき、また素晴らしい作家であることを知った。
何故、小林と親しかったのか。なんと大岡は、学生時代、フランス語の家庭教師が小林秀雄だった。その関係で中原中也ともつきあうことになる。大岡はその後、京大の仏文に入り、その頃からスタンダールに傾倒し、生涯スタンダールを研究した。卒業後はしばらく会社員をしていた。
何故、武蔵野夫人の舞台が小金井のはけの道や三鷹の野川(ぼくの幼少年時代の遊び場)だったのか。成城中学のときの同級生、富永次郎と友人となり、戦後、小金井の彼の家に寄寓しているのだ。裏庭の崖がはけ(湧き水)だった。その体験が下敷きになっている。なお、富永次郎の兄、詩人、富永太郎に大岡は惚れこみ、彼は24歳で夭折するが、死後、富永の詩集を三度にわたり編んでいる。
大磯への転居は、戦後、小金井(富永宅)、鎌倉(小林宅と極楽寺など)と続いたあとで、1953年から16年余り過ごした。ここで、花影、レイテ戦記など多くの名作を生んだ。
大岡は将門記、天誅組など歴史小説も書いたが、井上靖や松本清張らの歴史小説に対し、史実に問題ありと激しく批判したこともあり、自身の小説は、史実に対して強いこだわりをもち、小説というより史伝に近いものだったようだ。それでは、教科書のようなつまらない小説だろう(笑)。
展覧会では、大岡昇平の生涯を、ご遺族から当館に寄贈された「大岡昇平文庫」の資料を中心に辿る。写真、愛用品、自筆原稿などが展示されている。これを機に大岡の小説、ぼくの故郷、武蔵野の風景がよく描写されているという”武蔵野夫人”や、ミーハー的関心からだが、大岡、小林、河上ら多くの文人たちの愛人となった銀座の文壇バーのママをモデルにしたという”花影”も読んでみたい。
以上では大岡の文学者としての価値は分からないと思うので、おわりに主催者の本展の紹介文を載せておこう。
日本の文学史上に大きな足跡を残し、昭和を代表する作家・大岡昇平(1909~1988)。若き日に小林秀雄、中原中也らと出会い、スタンダール研究家として知られた大岡は、1944年、35歳で出征し、九死に一生を得て帰還します。戦後、実体験をもとにした「俘虜記」で小説家デビュー、戦争文学の最高峰といわれる「野火」、ベストセラー「武蔵野夫人」を発表。その後もさまざまなジャンルの作品を手がけ、研究・評論・翻訳にも多くの業績を残しました。1967年には「レイテ戦記」の連載を開始、高い評価を得ています。本展では、ご遺族から当館に寄贈された「大岡昇平文庫」の資料を中心に、生き残った者としての責任を負いながら、一文学者として戦後日本を歩み続けた、その生涯を辿ります。
知識人である大岡が、一兵卒として体験した戦争。その透徹したまなざしが描き出した作品は、人間の根源的な問いを内包する、優れた世界文学として読みつがれています。戦後75年を迎える今、大岡作品が伝えるメッセージを改めて見つめ直す機会となれば幸いです。
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もうすぐ、閉幕だが、とても面白い展覧会だった。
それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!