気ままに

大船での気ままな生活日誌

おいらの奥入瀬  オイラの公式

2007-06-30 09:46:31 | Weblog
昨日に引き続き、オイラの奥入瀬を紹介したいと思います。タケシさん風にね(笑)

・・・
この写真をみてくれ。オイラ、カンドーしちまったよ。倒木が苔野郎にぐるっと巻かれ、緑の巨大巻きずしみたいになってんだろ。死んだはずだよお冨さんが、倒木のおっさん、息を吹き返してんだよ。苔野郎が息をするのと一緒に、まねして息してるうちにすっかり自分の息になってしまったんだな。よかったね、おっさんと、オイラ声かけてやったら、本当はゆっくり寝ていたかったんだなんて、減らず口聞いてたけど、嬉しそうだったよ。

横の岩にも苔野郎がはりついていて、お岩さんも息をしていた。お岩さん、むかしは”うらめしや”が口癖だったけど、今は”ありがたや、ありがたや”だそうだ。オイラが守屋浩だね、と言ったら、そんな古い歌手知らないわ、なんて言いやがるんだよ、何万年も生きてるくせにな。幾つになっても女は若いふりしてーんだな。

この景色をみて、オイラ、苔野郎もバカにできんな、と思ったわけ。死んじまった奴を生き返らせ、もともと生き物ではない奴まで息をさせる。大げさに言えば、生物と無生物の、こけ橋じゃない、架け橋になっている。サイモンとガーファンクルだ、すごい、とオイラは思ったのだ。

そして、だじゃれの名人のオイラは、すぐオイラーの公式を思い出した。去年観た映画「博士の愛した数式」に出てくる、数式のことだ。オイラ、数学のことはよく知らねーが、この数式は、原作の小川洋子さんの説明が良かったんでよく憶えてんだ。

e のπi乗+1= 0 って数式だ。この数式内の、eとは、ー1の平方根のことで、永遠に数字が並ぶ無理数で、円周率πもよく知られているように永遠の数字だ。iは虚数だ。地の果てまで循環する数と決して顔を見せない虚数が簡潔な軌跡を描いて着地する、オイラーという一人の天才が1つだけ足し算をした途端、なんの前触れもなく、大きく変貌する、すべてが0に抱き留められる。

見事な調和だ。オイラ、この奥入瀬の見事な調和が、この苔野郎によって成り立っていることに気づいたってわけ。もしこいつらが居なかったら、奥入瀬だって、さびしい景色だよ。岩はしわだらけの肌を丸出しで、倒木だって帯状疱疹のあとみたいな染みだらけの背中をみせ、道だって殺風景だ。苔野郎は、こうした連中に息を吹きかけ、見事に生き返らせている。隙間という隙間を緑で埋め尽くし、見事な調和をつくっている。

苔野郎はオイラーの公式のプラス1に相当するということだ。このことはオイラが気づいたことだから、オイラの公式と命名することにした。

オイラ、これから苔野郎なんて言わないよ。かみさんの好きな、”よんさま”に倣って、”こけさま”って呼ぶことにするよ。



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奥入瀬渓谷の自然はのびやか

2007-06-29 10:50:46 | Weblog
オイラ、奥入瀬に行ってきました。いきなり、つまらないオヤジギャグでどうもすみませんね。せっかくですから、今日はボクではなく、タケシさん風に、オイラでいこうと思います。ついでながら、ボクは、このブログでは、当初、”私”を使っていました。途中からボク(僕、ぼく、も使ったことがあります)に変わりました。それぞれ、微妙なニュアンスの違いがあり、視点をあげたり、さげたり、ななめにしたり、意外に面白い効果があることが分かりました。今後、あたい、とか、わて、おいどん、わたす、みー、わし、たか(?)、あるいは、我が輩とか拙者とか朕とか、いろいろ使ってみたいと思います。いろんな自分を発見できるかもしれませんね。

・・・
オイラ、青森ちゅうとこは、現役時代には、一度も行ったことはなかった。行ったことのない県は高知と青森の2県だけだった。それが、引退してからの2年間に、ねぶた祭りを皮切りに、こんどでもう5度も行ったことになるわけ。すっかり気に入ってしまって、オイラの先祖はきっと三内丸山あたりから出てきたんじゃねーかと思ってしまうほど。

その理由が今度、奥入瀬渓流をかみさん(いつもはワイフと言っていますが、今日はオイラに合わせています)と歩いてみて分ったような気がしたわけ。まず、第一に奥入瀬川の水が実に自由気ままに遊んでいるのが気に入ったね。今のオイラみたいだね。あるときは、ゆったり、ゆうゆうと、あるときは怒濤の滝の流れに、そしてあるときは、千千に乱れるさざ波に、誰に何を言われて動いているわけではない、太古のむかしから、十和田湖からの水が遊びにきて、気ままを楽しんでいる。

そして、川縁の岩、こいつらがまた、輪をかけたような自遊人。好き勝手な大きさで、あるものはごっつく、あるものはまあるく、あるものはどでかい、あるものは、キュートにと、どれひとつ同じものがない。太古のむかしから、かってに転がったり、休んだり、昼寝をしたり、たまには本を読んだり、今のオイラみたいだね。

渓流の植物たちはもちろん、水や岩に負けてないね。大昔からあるようなシダ類が、思いっきり羽根をひろげて遊んでる。数種類のしだがあるようだけど、どいつもこいつも、大きな葉っぱをのばせるだけのばして、誰にも気兼ねせず生きてるってかんじだね。それと苔の野郎も結構目立ってたね。ちび介だけど、数で勝負だというふうに、あちこちで勢力を伸ばしていたね。岩の上とか、死んじまった倒木の幹とか、やっと生きている、歳とった大木の幹とかに居て、きれいな、うっとりするような緑色をみせていたね。それに、おタッチするととてもいい感触。キャバクラなんかに行く必要ないね。オイラ感心したのは、苔野郎がついている岩とか木とかがちっとも嫌な顔をしていないことだった。かゆくて嫌だというのが普通だが、ここの奴らは喜んで苔野郎を迎えている。

もちろんブナやカツラ、トチノキ、ミズナラ、カエデ類、等々の大木もゆっくり、半分居眠りしながら、いい呼吸をしていたよ。オイラ、大きなブナの幹に耳をつけてみた。本当にトックントックンと脈拍みたいに、呼吸しているのが聞こえたよ。オイラの不整脈とは違って、落ち着いたゆったりしたリズムだった。

こんな大木にからみついて生きている奴もいたよ。ちょうど花盛りできれいだったね。蔓紫陽花だ、むかしから絡みついて居る奴だから、蔓もぶっといね。でも、大木の奴は、いやがっていないのがよく分る。何だか夫婦みたいな関係だなとオイラは感じたね。どうも、この辺では、いやいやつきあっているという組み合わせは皆無だね。そう感じるね。

花といえば、今一番、目につくのは、オニシモツケという奴だ。こいつは、シモツケの花に似た、白い細かいの花をいっぱいつける。ミヤマカラマツというのも、あちこちで白い可愛い花をつけていた。エゾアジサイは楽しみにしていたが、まだ早かった。とにかく、四季折々、いろいろの花が緑の中にいろどりを添えている。

またここには蕗がいっぱい生えているが、その葉っぱのどでかいのには驚いた。関東あたりでみる葉っぱの倍はあるのじゃないかと思う。この蕗の大きな葉っぱをみて、のびのび生きるっていうのはいいな、ここの植物たちは、本当に幸せもんだなとオイラ思ったわけ。

水も岩も植物も、今回触れなっかたけど動物も、みんな、びのびとしている、そうゆう自然の中を歩くと、きっと人間も、連中ののびのびした気持ちが音もなく入ってきて、同じ色の気持ちに染まるのではないか、とオイラは思った。

そして、オイラが青森を何度も訪れるようになった理由も、きっとそうゆうところにあるのではないかと思うのだ。







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百合の女王、カサブランカ 見頃

2007-06-26 06:38:28 | Weblog
百合の女王、カサブランカが見頃になりました。大船フラワーセンターの門をくぐると、白とピンク系の百合の花が大勢で迎えてくれます。白いのが、女王カサブランカで、全部で1200本、ピンク系はシーラという名前で(そんな百合はシーラね、なんて言わないでくださいね)、これが300本、ずらり鉢植えが並べてあります。壮観ですよ。

近づいてみると、あれあれ、どの花にも、あのチョコバナナみたいな形と色をした葯がついていません。そばの立て札に気づき、みると、花粉が衣服につくとなかなかとれないので、開花時に葯を除去したと書いてありました。でも百合ちゃんにしてみればかわいそう、去勢されたわんちゃんみたいなものですものね。それに、観る側からも、あのミニチョコバナナがあってこそ、白い百合の花が映えるというものです。

でもご安心を、でした。左方向に少し歩くと、展示場側の樹木園内に地植えされているカサブランカがいくつもあります。そこのカサブランカちゃん達は、自然のままの、りっぱな葯をつけていました。パチリと写真も撮ってあげました。

この品種は、もともと日本原産のものがオランダで改良されて出来たものだそうです。そして、そこの育種家がカサブランカという名前をつけたのです。その人は、品種名にみな都市の名前をつけていたようです(考えるのがめんどうだったのでしょうね)。ボクはてっきり、イングリッド・バーグマン とハンフリー・ボガートの、あの名画「カサブランカ」からきているのかと思いました。でも、百合の女王と呼ばれるようになり、「カサブランカ」を知っている人は、きっと白百合をイングリッド・バーグマンに重ね合わせるのではないでしょうか。

よくみると、確かに、女王という風格です。汚れのない純白の花、立つ姿も、後ろ姿も、歩く姿も(みたことありませんが、そうゆう例えもあるので)気品に溢れています。花言葉も、まさに「高貴」だそうです。ぴったり、イングリッド・バーグマンさまですね。

ボクは野球選手にそれぞれテーマ曲がついてるように、百合も種類が多いので、それぞれの百合にふさわしいテーマ曲をつけてあげようとかねがね思っていました。で、本日発表したいと思います。以下のようでありんす。

山百合:「山の人気者」・・ 山の人気者 それはミルク屋 朝から夜まで・・
鉄砲百合:「戦争を知らないこどもたち」・・ 戦争がおわって ぼくらは育った・・
透かし百合:「透明人間のうた」・・ むかしのテレビドラマ、主題歌があったような気がする・・
鹿の子百合:「あ(か)のこはだーれ」・・ かのこはだーれ、誰でしょね 苦し紛れ(汗)・・
鬼百合:「小さい秋みつけた」・・目隠し鬼さん 手のある方へ すましたお耳に・・
姫百合:「月の砂漠」・・ 先の鞍には王子様 あとの鞍にはお姫様 乗ったふたりは・・

さて、カサブランカちゃんにはどういうテーマ曲にしましょうか。郷ひろみの「哀愁のカサブランカ」や「カスバの女」も考えたのですが、女王さまの歌としては寂しすぎます。それで、どうしても歌手とか題名は思い出せないのですが、こんな歌詞の歌がありましたね。”夢のカサブランカ 白いおうちは 貴方の帰る日 今日も待ってた・・”という歌です。ロマンチックな歌詞なので、彼女のテーマソングにしてもいいかなと思っています。

百合のテーマ曲に、小百合ちゃんの歌がないのはおかしいと、タモリさん始め全国のサユリストの皆さんに怒られそうですね。ご心配いりませんよ、ちゃーんと考えていますよ。小百合さんにはこの百合・ソフトボールチームの総監督をしてもらうつもりです。それで、チームの応援歌として、小百合ちゃんの歌を採用しよういうわけです。

”寒い朝”では、今の花の季節が合わないし、”泥だらけの純情”(サユリストでなければ知らない歌でしょうね)では、きれいどころが揃っている百合チームにそぐいませんね。やっぱり、”いつでも夢を”でしょうか。これに決定したいと思います。

みなさんも、百合チームを応援してくださいね。カサブランカちゃんはもちろん、エースで四番です。サウスポーだと聞いています。フラワーセンター選手権の第一戦はナデシコチームが相手だそうです。優勝候補らしいです。明日、試合ですので、是非応援に行ってくださね。忘れている人がいると困りますので、応援歌の歌詞をのせておきます。

・・・・・
いつでも夢を

作詩 佐伯孝夫  
作曲 吉田 正
歌唱 吉永小百合 橋 幸夫

星よりひそかに 雨よりやさしく
 あの娘はいつも歌っている
  声がきこえる 淋しい胸に
   涙に濡れたこの胸に
    言っているいる お持ちなさいな
     いつでも夢を いつでも夢を
      星よりひそかに 雨よりやさしく
       あの娘はいつも歌っている

歩いて歩いて 悲しい夜更けも
 あの娘の声は 流れ来る
  すすり泣いてる この顔上げて
   きいてる歌の懐かしさ
    言っているいる お持ちなさいな
     いつでも夢を いつでも夢を
      歩いて歩いて 悲しい夜更けも
       あの娘の声は流れくる

言っているいる お持ちなさいな
 いつでも夢を いつでも夢を
  はかない涙を うれしい涙に
   あの娘はかえる 歌声で
    あの娘はかえる 歌声で

・・・
JRポスターの、小百合ちゃんの笑顔と”たくさんたくさん旅しようね”の言葉につい、ふらふらと(汗)、今日から、2,3日東北旅行に行ってきます。のちほど報告しますね。
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おりょうさんの横須賀

2007-06-25 08:24:44 | Weblog
ボクは京浜急行の京浜大津駅を降り、あるお寺を探していました。なかなか見つからず、また駅の近くに戻ってきてしまいました。ため息をついて、ふと見上げた先に「坂本龍馬」と書かれた白い旗が翻っているのに気づきました。それは、お蕎麦屋さんのでした。ちょうどお腹もすいてきたし、きっと、そのお寺のことも聞けるだろうと思い、入りました。

そこのメニューに「龍馬、おりょう夫婦蕎麦、1000円」というのがありましたので、うふふ、これはいいねと、迷わずそれを頼みました。横の壁に、これを紹介した毎日新聞の記事のコピーが貼ってありました。近くのおりょうさんゆかりのお寺を訪ねにきた龍馬フアンの人に、帰りに食べていってもらおうと考案したメニューだそうです。龍馬が好きだったという鶏肉入りの筑前煮と地魚の唐揚げをのせた暖かい汁蕎麦です。しばらくして、まさにその通りの、大きな丼にいっぱい具をのせたお蕎麦がきました。なかなか、おいしかったですよ。龍馬になったつもりで、げにまっことうまいちや、と言いながら掻き込みました。ここのご主人にお寺の場所や、昨年秋に、おりょうさんの没100年記念行事がその、信楽寺(しんぎょうじ)で行われたこと、龍馬とおりょうさんの実物大の木彫り像が出来上がったこと、など貴重なお話を聞くことができました。

おりょうさんというと、京都伏見の船宿寺田屋で、素っ裸でお風呂から飛び出し、二階の龍馬に刺客の襲撃を知らせ、逃がしてやったことが頭に浮かびますね。そしてそれが縁でふたりの仲が深まり結ばれ、日本で最初の新婚旅行と言われていますが、九州、霧島の温泉に行っています。しかし、このハネムーンも翌年までしかもちませんでした、京都近江屋襲撃事件で龍馬が死亡したからです。

その後のおりょうさんの消息については、ボクは全く知りませんでした。司馬遼太郎さんの”街道をゆく、三浦半島記”を読んでいて、おりょうさんが晩年は今の横須賀市に居住し、お墓もそこにあることを知り、びっくりしました。ボクは司馬さんの描く、龍馬が大好きでしたし、当然、龍馬が愛したおりょうさんも好きでした。是非、一度、お墓参りしたいとかねがね思っていたのです。

しかし、司馬さんの著書の記述だけでは、明確にその場所を決めることができませんでした。その記述とは「横須賀の古い市街地を歩いている。山門がすでに高い。その山門へのぼる石段の下に、つまり狭い道路に沿って寺の石塀を背に、いわば路傍にはみだして墓が一基ある、路傍の墓である」でした。司馬さんは、龍馬の妻の墓としてあまりにみじめだとい感慨をもったようで、お寺の名前も出しませんでした。

最近になって、ひょんなところから、そのお寺の名前を知ることになり、今日、訪ねたということなのです。お蕎麦屋さんのご主人のおかげで、こんどはすぐ見つかりました。住宅街の中にある浄土宗のお寺でした。おりょうさんのお墓は路傍にあるのかと思っていましたが、現在は境内の墓地の奥まったところにありました。きっと司馬さんの本が出版されてから、これはまずいと、移転させたのではないかと推測します(笑)。アップした写真は山門前から撮ったものですが、右側の石塀が新しくなっていますね、以前はそこにお墓があったのだと思います。

ボクは誰もいないおりょうさんのお墓(坂本龍子の墓と案内されています)の前でお参りしました。小さな墓石を想像していたのですが、おりょうさんらしからぬ、ずいぶんと大きな石碑でした。

龍馬が亡くなってからの、おりょうさんの消息は、あまり詳しくは分っていませんが、下関から長崎を経て土佐に行ったようです。龍馬の実家に身を寄せますが、龍馬の姉乙女ともうまくいかず、また流浪の旅が始まります。京都、大阪、東京、神奈川へと移っていったのでした。神奈川宿で仲居をしていたときに、西村松兵衛と知り合い、明治8年(1875)7月、に再婚したのです。

そして横須賀に移り、晩年を横須賀市米が浜で長屋住まいをされていたようです。明治39年1月15日になくなりました。葬儀には近くの海軍士官の方も来られていたそうです。日本海軍の祖ともいうべき海援隊をつくった龍馬の妻だった人の送りですからね。

結婚後西村姓になっても、私は龍馬の妻だったと、いつも言っていたそうです。わずかな期間でしたけれど、日本の夜明けをつくった龍馬と共にすごした頃が、彼女の人生の中で唯一、きらきらまぶしく輝いていた時期だったのでしょう。

ボクは、おりょうさんは土佐の出身だと思っていたのですが、そうではなく、京都府下の町医者、楢崎將作の長女として生まれているのです。ですから、横須賀は縁もゆかりもないところなのです。きっと海が好きで、海援隊までつくって、いつも海外に目を向けていた龍馬がおりょうさんに乗り移って、港町・横須賀に連れてきたのかもしれませんね。

今回、龍馬とおりょうさんの実物大の木彫り像をみることが出来ませんでしたが、毎年秋に、おりょうさんまつりがあるそうですので、是非そのとき訪ね、仲の良いふたりをみてみたいと思います。

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夜明けの歌が聞こえてくるような

2007-06-24 16:13:48 | Weblog
今朝の朝焼けも、とてもきれいでした。
昨日のよりも、茜色にも深みがあり、北東の方角への拡がりもありました。

でも、昨日の朝焼けと違って、今日のは、ほんの一瞬でした。

夜明けのうたが聞こえてくるような、
そんなすばらしい朝焼けでした。

・・・・・
夜明けのうた

作詞  岩谷 時子
作曲  いずみたく
歌唱  岸洋子

夜明けのうたよ あたしの心の
 きのうの悲しみ 流しておくれ
  夜明けのうたよ あたしの心に
   若い力を 満たしておくれ

夜明けのうたよ あたしの心の
 あふれる想いを 判っておくれ
  夜明けのうたよ あたしの心に
   大きな望みを 抱(かせておくれ

夜明けのうたよ あたしの心の
 小さな倖せ 守っておくれ
  夜明けのうたよ あたしの心に
   思い出させる ふるさとの空


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ブラッスリー ポール・ボキューズ ミュゼ

2007-06-24 09:35:43 | Weblog
ブラッスリー ポール・ボキューズ ミュゼ。国立新美術館の中央部の、逆円錐(写真)の上部にある、人気のフランス料理店の名前です。

朝一番で、並ばずにモネ大回顧展に入り、出てきたのが10時半前でした。ワイフの要望で、そのお店で昼食をとる予定でしたので、エスカレーターで上がっていくと、な、なんと、なんと、もうすごい行列です。11時オープンというのに、もうこんなに、ナヌッ・・。止めて蕎麦屋にでもしようよ、とボク。一応並んでみようよ、とワイフ。そのうち、係りの女の人が来て、第1回目の入場は、あの青いスカートをはいた人で終わりです、と少し前の行列を指さしテ、この辺の方は2時間待つことになりますがよろしいですか、と。ムム、止めてタンメンでも食べにいかない?とボク。2時間なんてかかるわけない、早い人は1時間で出てくる、とワイフ。

11時前に行列が動き始め、ボクらの少し前で満席(180席ぐらい)になり、椅子に座って待つことになりました。椅子にも座れず、待つ人がずっと向こうまで続いていました。待つ間、青山二郎の文庫本を読んでいました。ワイフはこのお店のパンフをどこからか持ってきて、みていました。のぞき見してみると、ポール・ボキューズという料理人は凄い人らしい。フランスのリヨンでレストランをもち、42年間も連続してミシュランの三つ星を維持しているらしい。そんなすごい人のお店の、日本第一号店なんだそうだ、それなら待つかいがあるかも知れない、それに、フランス料理は芸術だとうたっている、モネの芸術をみたあと、いただく食事には、タンメンちゃんよりこちらの方が似合っている、ボクの側室、日傘の女も喜んでくれるだろう、そんなことを思いながら、待ったの de Arinsu 。

ワイフの予言通り、1時間もすると、第一陣が出てきました。そして、12時すぎに食事を始めることができました。ランチメニューを注文し、早速、赤ワインがきました。一口、う、ううまい。ボクの好みの味だ・・茂木健一郎さんが司会している、先週の”プロフェッショナル”で、ソムリエの佐藤陽一さんは、お客のその日の体調とか気分を察して、ワインの種類を決めるのだそうだ、凄い、きっとこのお店も、そいうソムリエがいて、双眼鏡でボクの顔を観察して、ワインの種類を決めたに違いない、間違いないと、思ったのでした。

ボクはフランスパンをつまみにワインをちびちびと飲んで待っていました(ワインとフランスのパンは相性がいいんですよね)。そして前菜がきました。ボクのは鴨のテリーヌ。一口。う、う、うふふ、ふ、フランスだ、ボクは何故だか、テリーヌを口の中に入れた瞬間、パリの味や香りが口の中いっぱいに広がってきたのです。ボクは仕事で3ヶ月ほどパリに暮らしたことがあります。そのとき、せっかくだからと、パリのいいレストランにも入りました。そのときの味が記憶のように残っていたのかもしれません。テリーヌなんか、どこでつくっても同じだよ、と言う方もあるかも知れませんが、ボクには確かに、そのとき、そう感じたのです。

メインはボクは牛肉、ワイフは鶏肉にしました。ボクは一級グルメには、あまりうるさくありませんが、とてもおいしいお料理と思いました。そして、さっきも言ったように、フランス本場の香りや味のようだと感じました。そして、ボクはグラスワインをもう一杯頼んで、味の芸術をゆっくりと堪能したのでした。

・・・・・
モネ大回顧展も残すところ、あと1週間になってしまいました。ボクのお気に入り、日傘の女にお別れしてきました。ますます輝きを増していました。たくさんの人に観られて、ますますきれいになったように思いました。是非、来年はパリに行って、オルセー美術館で再会したいと思います。そして、出来ればリヨンの、そのレストランにも行ってみたいですね。
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朝焼け雲

2007-06-23 06:45:39 | Weblog
きれいな朝焼け雲でした。
刻一刻変化していく茜雲についうっとり。
お日様が昇るまで、見続けてしまいました。

そして、またベットに寝ころんで、ふと気づくと、
寝室の白い壁に、少し開けていた窓の影がうつり、
それが、ほんのり赤いのです。なんともいえないいい色です。
でもそれはすぐ消えました。真っ赤な日の出のときだけでした。

お日様は光と影を描く天才です。

モネも光と影を描く天才です。

今日これから、ワイフとモネ展に行きます。
ボクは二度目です。もうすぐ終わるので、ボクのお気に入り、
第一側室、日傘の女にお別れにいくのです。
因みに第二側室はモナリザです。どちらもパリですね。

空約束になるかも知れませんが、
来年はパリでお会いしましょうね、
と日傘の女に言うつもりです。




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海辺のコッホ

2007-06-22 08:37:17 | Weblog

稲村ヶ崎の鎌倉海浜公園の登りつめたところにコッホ博士の記念碑が建っています。今日はこれについて紹介したいと思います。タイトルは、「海辺のカフカ」に似せて、「海辺のコッホ」にしてみました。ついでに、文体も村上春樹風にしてみました(笑)。登場人物は、「海辺のカフカ」と同じ、ボクと図書館の大島さんと佐伯さんです。

・・・・・
2006年12月28日、ボクは稲村ヶ崎の海浜公園にいる。江ノ島と冨士を浮かべた七里ヶ浜の海は前日の大雨で土色になっている。そのとき、もうひとりのボク、グラスと呼ばれる少年(原作ではカラスと呼ばれる少年)がささやく。「君、昨日の大雨で成就院の紫陽花がダメになる」と。その予言が当っていたことを、一昨日の紫陽花見物で知り、さすが予言者だとボクは感心した。そして、ボクは石段を登り、稲村ヶ崎の突端まで来た。そこに、何ともいえない存在感を示す石碑があった。コッホの記念碑であった。コッホの魂が乗り移ったような佇まいであった。

なぜ、この場所にあの偉大な細菌学者ロベルト・コッホの碑があるのだろう、ボクは不思議に思い、その説明文を読み始めた。そのときグラスと呼ばれる少年がささやく。「そんなところには、たいしたことは書いていない、ガマくら図書館の資料室に一級文献があるはずだ」と予言する。そして、「もうお腹がすいた、お昼はどのグラスでいくか、今日はワイングラスでなくて、ビールグラスでどうか」と聞いてくる。ボクはうなずく。近くの七里ヶ浜の「珊瑚礁」で、シーフードサラダとビーフカレーを食べる予定にしていたので、ビールが合うと思ったからだ。

そのことがあってから、すぐお正月を迎え、そして、梅が咲き、河津桜が満開になり、ソメイヨシノが咲き始めて、ボクは死ぬほど忙しくなって、すっかり、そのことを忘れていた。その上、ボクは、遊び過ぎの疲労が原因で帯状疱疹に罹り、しばらく歩けなくなってしまっていたのだった。

先日、大船ルミネでかつカレーを食べているとき、もう一人のボクがささやいた。「カレーで思い出した、そろそろあの件を調べよう」ボクはうなずいた。その図書館の名前はガマ蔵図書館といい、館長の大島さんは筑波山の四六のガマの口上で財をなしこの私設図書館をつくった。

ボクはその日の午後、その図書館を訪ねた。門前には大きな四六のガマの瀬戸物の置物が見張り番をしていた。お客はボクのほかに誰もいなかった。窓口にいた佐伯さん(名札をつけていたので分ったのだ)に、尋ねた。コッホの・・と言いかけたとたん、佐伯さんは、分ったと言って、書棚の方に姿を消した。そして一冊の本をボクの前にどすんと置いた。その本は小林秀雄の「ゴッホの手紙」であった。そ、そうか、ボクは小林秀雄が好きでね、早とちりしてしまったねと言いながら、うしろを振り向き、50代半ばのスリムな、明月院の紫陽花のような水色のワンピースがよく似合う美人司書の吉永さんに声をかけた。

吉永さんはにっこり笑いながら立ち上がり、ボクがここに来るのを前もって知っていたかのように、手際よく二つの史料を取り出してきてくれた。そして関係のページに付箋までつけてくれていた。

そこにはコッホ博士の来歴や鎌倉に滞在した理由などが詳しく記されていた。結核菌やコレラ菌を発見し、1905年にノーベル賞を受賞し、1908年(明治41年)、彼が65歳になったとき、二度目の妻を伴い、世界漫遊の旅に出た。そのとき、弟子の北里柴三郎が招待し、日本に2ヶ月ほど滞在したのであった。

夫妻はとくに鎌倉を気に入られ、一ヶ月ほど由比ヶ浜の海浜ホテルに宿泊した。奇遇にもこのホテルのコック長がドイツ人で、かってコッホがアフリカ旅行したときの船のボーイ長であり、アフリカ上陸後マラリヤに罹り、コッホの治療を受けたということであった。海浜ホテルは今はなくなってしまったが、瀟洒な洋式ホテルで明治19年に創立されたという。

夫妻は近くの雲仙山(その先端部が稲村ヶ崎になる)の頂上からの江ノ島、富士山を見渡せるこの景観をことのほか好まれ、専用のベンチまでつくった。はじめ記念碑はこの雲仙山頂に建てられたが、荒れ果てて、昭和58年(1983年)の結核菌発見100年記念を期に、ここの公園内に移された。

コッホ博士は日本を離れ、2年後にその生涯を閉じるが、鎌倉で奥さんとご一緒にすごされた一ヶ月が、どれほど、心穏やかで、のびやかな日々であったか想像にかたくない。

ボクは吉永さんと佐伯さんにお礼を言って、図書館を出た。そして、鎌倉駅から江ノ電に乗って、稲村ヶ崎駅で降りた。そして、稲村ヶ崎のコッホの碑の前に立った。その日は夕焼けがとてもきれいで、七里ヶ浜の海の向こうの夕映えに浮かぶ富士山もことのほか美しかった。ボクはこの景色に酔いしれながら、学生時代からのあこがれの人、コッホ博士が晩年の一時期を、ボクの晩年と同じく、この鎌倉の地ですごされたということが、何故だかとても嬉しく感じていた。

グラスと呼ばれる少年が、「今日はコッホ博士のドイツビールと北里柴三郎博士の熊本名酒、香露だね、ビール用と冷酒用のグラスを用意するよ、いいかね」とささやいた。ボクは大きくうなずいた。

・・・・・
参考資料
大仏二郎編 素顔の鎌倉
細菌学雑誌特別号(明治41年6月)

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歩けることのありがたさ

2007-06-21 08:08:19 | Weblog
ボクの紫陽花行脚は続いています。昨日は北鎌倉の円覚寺と浄智寺を訪ねました。両寺とも紫陽花に関してはメジャーでないので、観光客も少なく、ゆっくりと見物できます。紫陽花は、それなりに(笑)良かったですよ。でも今日、ご紹介するのは、紫陽花のことではなく、円覚寺境内の一番奥にある黄梅院の山門前の掲示板(?)に貼ってあった、ある言葉についてです。そこにはこう書かれていたのです。

歩けることのありがたさ 日射しをあびるありがたさ 今生きていられるありがたさ

ボクは、この言葉の前でしばらく立ちつくしてまいました。2ヶ月ほど前、ボクが心からそう思った言葉が、そこに書かれていたからです。ボクは数ヶ月前、突然、帯状疱疹という病気に罹ってしまい、痛くて、一ヶ月近く、自由に歩けない状態が続きました。そして回復して、ある日の上野公園で、ボクは自分が無意識のうちに普通の早さで歩いていることに気づきました。じわじわと嬉しさがこみ上げてきて、普通に歩けるって、なんて幸せなことなんだろう、しみじみと思ったのでした。

最近の新聞記事で帯状疱疹の後遺症の神経痛で苦しんでいる方が多数いることを知りました。ボクだってその可能性は十分あったのです。おかげさまで、痛みはその後も全くなく後遺症の心配はほとんどなくなっています。

こうして普通に外を歩ける、そしてお日様の暖かい光を受けられる、そして普通に生きていける、それだけで十分幸せだと思います。

今まで黙っていたのですが(笑)、うちのワイフも足の踵が痛くて十分歩けない状態がしばらく続いていたのです。最近ようやくボクのロング散歩にもついてこられるくらいに回復してきました。ワイフも、もちろんこの言葉に深くうなずいていましたよ。

・・・・・
写真は紫陽花の咲く、円覚寺境内です。



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桑とグミの実をみて思い出したこと

2007-06-20 08:05:33 | Weblog
先週、近所のいたち川沿いで、大きな桑の木に熟した桑の実がたくさんなっているのを見つけました(写真)。そして、昨日は、ご近所のお庭で真っ赤な実をつけたグミの木をみました。桑の実とグミの実、どちらも最近、都会ではあまり目にしなくなりましたが、ボクらの子供の頃にはごく身近な木の実でした。

ボクは子供の頃は東京の多摩地区に住んでいましたが、当時はまだまだ周囲に畑も多く、麦やウド、里芋等の畑に混じって桑畑もありました。ですから、山(林のことを山と呼んでいました)や川での遊びの帰りに、桑の実をつまんで食べ、口元を真っ赤にしたものでした。

グミの木は我が家の猫の額のような庭の生け垣の一部として植えられていました。今頃の実のなる時期は、いつもお腹を減らしていたボクたちには、グミの実は格好のおやつになっていました。甘酸っぱい味でしたが、当時は本当においしく食べたものでした。

グミの木とさわらの木の生け垣で囲まれたボクの家の小さな庭は、生き物でいっぱいでした。とり小屋には鶏が5羽ぐらいいて、餌をやったり、毎朝の卵を回収したりするにがボクの仕事でした。鶏にはそれぞれ名前をつけて可愛がってあげました。すっかり慣れてしまって、ボクが小屋に入ると、だっこしてというふうに、羽根を少し拡げて、かがむような格好をして、目をぱちくりさせます。その代わりボクは鶏が大好きなはこべを毎日、山に採りに行ったものでした。

犬もいました。今のぬいぐるみのような可愛いわんちゃんと違って、拾ってきたスピッツ系の雑種犬です。名前もシロ、エス、コロ(3代飼いました)と、今のわんちゃんのようにしゃれた名前はつけてもらえませんでした。あの頃はほとんど放し飼いみたいなもので、子供たちと一緒に飛び回っていました。そして、おやじがつくった小さな池には、金魚やめだかやおたまじゃくしや、川で採ってきたえびがにや鮒が泳いでいました。山で採ってきたかぶとむしや、さいかち(日本のはさみのような角をもつかぶと虫をそう呼んでいました)も飼っていました。

植物もいっぱいでした。ホオズキ、オシロイバナ、ジュズ玉、ダリア(むかし型の(笑)、百日草、こすもす、なでしこ、ひまわり、朝顔等々。今ではあまり庭には植えられない草花が多いですね。たまに、これらの草花をご近所の庭でみつけると嬉しくなります。そうそう、縁側前の棚には葡萄のつるがからんでいました。小さい粒が少しずつ大きくなり、そして色づいていく、そして秋には黒いブドウでいっぱいなりました。甘すっぱい味でした。

あの何もなかった時代に、こんな楽しい庭をつくってくれていた、父や母に感謝しなければいけないなと改めて思います。今日、ボクの大好物の、塩漬けのらっきょうをもらいに行きますので、母にそんな話もしようかと思っています。



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