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この写真をみてくれ。オイラ、カンドーしちまったよ。倒木が苔野郎にぐるっと巻かれ、緑の巨大巻きずしみたいになってんだろ。死んだはずだよお冨さんが、倒木のおっさん、息を吹き返してんだよ。苔野郎が息をするのと一緒に、まねして息してるうちにすっかり自分の息になってしまったんだな。よかったね、おっさんと、オイラ声かけてやったら、本当はゆっくり寝ていたかったんだなんて、減らず口聞いてたけど、嬉しそうだったよ。
横の岩にも苔野郎がはりついていて、お岩さんも息をしていた。お岩さん、むかしは”うらめしや”が口癖だったけど、今は”ありがたや、ありがたや”だそうだ。オイラが守屋浩だね、と言ったら、そんな古い歌手知らないわ、なんて言いやがるんだよ、何万年も生きてるくせにな。幾つになっても女は若いふりしてーんだな。
この景色をみて、オイラ、苔野郎もバカにできんな、と思ったわけ。死んじまった奴を生き返らせ、もともと生き物ではない奴まで息をさせる。大げさに言えば、生物と無生物の、こけ橋じゃない、架け橋になっている。サイモンとガーファンクルだ、すごい、とオイラは思ったのだ。
そして、だじゃれの名人のオイラは、すぐオイラーの公式を思い出した。去年観た映画「博士の愛した数式」に出てくる、数式のことだ。オイラ、数学のことはよく知らねーが、この数式は、原作の小川洋子さんの説明が良かったんでよく憶えてんだ。
e のπi乗+1= 0 って数式だ。この数式内の、eとは、ー1の平方根のことで、永遠に数字が並ぶ無理数で、円周率πもよく知られているように永遠の数字だ。iは虚数だ。地の果てまで循環する数と決して顔を見せない虚数が簡潔な軌跡を描いて着地する、オイラーという一人の天才が1つだけ足し算をした途端、なんの前触れもなく、大きく変貌する、すべてが0に抱き留められる。
見事な調和だ。オイラ、この奥入瀬の見事な調和が、この苔野郎によって成り立っていることに気づいたってわけ。もしこいつらが居なかったら、奥入瀬だって、さびしい景色だよ。岩はしわだらけの肌を丸出しで、倒木だって帯状疱疹のあとみたいな染みだらけの背中をみせ、道だって殺風景だ。苔野郎は、こうした連中に息を吹きかけ、見事に生き返らせている。隙間という隙間を緑で埋め尽くし、見事な調和をつくっている。
苔野郎はオイラーの公式のプラス1に相当するということだ。このことはオイラが気づいたことだから、オイラの公式と命名することにした。
オイラ、これから苔野郎なんて言わないよ。かみさんの好きな、”よんさま”に倣って、”こけさま”って呼ぶことにするよ。