気ままに

大船での気ままな生活日誌

上野はパンダで沸き立っていた

2011-05-31 19:37:52 | Weblog

今日はWIFEと東京駅近くのふたつの美術館を観たあと、ぼくはひとりで上野に向った。WIFEは、羅臼の根昆布や烏賊飯やヨーグルトの上にかけるハスカップソースや十勝のおとふけの煮豆などを買うために、駅前の北海道アンテナショップに向った。

もう美術館をふたつも観たので、上野ではトーハクに寄らず、もし混んでなければ、パンダに再会しようと思っていた。もう3時を過ぎていたのに、パンダ舎の前には行列ができていた(入園しなくても外からでもわかるのだ)ので、あきらめた。それで、公園の路上パフォーマンスをみたり、サツキの品評会などをみて、上野駅の方に向った。

今日は、本物のパンダには逢えなかったが、公園付近、そして上野駅の構内は、パンダ、パンダ、パンダ、パンダで、パンダで沸き立っていた。パンダ好きのぼくには(汗)、こたえられないひとときだった。前回、大震災後に訪れたときは、せいぜい動物園周辺だけだったけど、ここにきて、一気にパンダブームになったようだ。パンダを売っていない店はないといっても過言でない、賑わいだった。パンダの場外での活躍ぶりをどうぞご覧ください。

ぬいぐるみと飛ぶように売れるらしい。

工事のお手伝いもするらしい

ヨドバシカメラでも働いているらしい

本家の宣伝もしてるらしい

食べちゃいたいほど可愛いらしい 

クッキーにも変身するらしい

人気ナンバー1らしい リサちゃん(うさぎのこと)もまけるらしい

クロワッサンにも化けるらしい

まだまだたくさん。これらはどうでもいいパンダです。

片隅に追いやられたあんぱんまんえへんぷいぷいわてのかちだす(まだ日本語はおぼえてねえんで・・ぜんこくからこどもさくるばってん、ほうげんがまズってしまうどす

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

画家たちの二十歳の原点

2011-05-30 11:42:45 | Weblog

平塚市美術館で、開館20周年記念展として”画家たちの二十歳の原点”が開催されている。明治時代から現代にいたる画家たちの二十歳前後の作品を集めたユニークな展覧会である。

まず黒田清輝の自画像。トルコ帽をかぶった顔は意外とのっぺりした顔だった。悩みなんかないようにみえた(笑)。このあとも、いろいろな画家の自画像があちらこちらに登場する。深刻な、あるいは悲しげな、苦しげな顔が多い。二十歳ころは格好をつけたがるものだが、黒田はそのままを描いたのだろう。”祈祷”は、はやくも黒田らしさが出ている、いい絵だった。

黒田の弟子すじのコメントが面白い。熊谷守一。”裸ばかり描いていても意味はないと思う、まだほかに沢山あるのでは”と思いながら、裸体画ばかりを描いていた。黒田の指導方針は、まず裸体デッサン、それからコスチューム、そして組み合わせと進み、印象派らしい外光を意識させるというものだったという。同級生に青木繁がいる。”静物のりんごひとつ描くにも、そのりんごに対する観念、思想があらわされなくてはならない”と若き心は反発する。坂本繁二郎、”少年時代は絵を描くことが嬉しかったのに、東京にきたら、だんだん面白くなくなってきた”と、ここでは”町裏”が展示されている。心の中には♪裏町人生♪が流れていたことだろう。

梅原龍三郎は20歳でルノアールに会うが、そのあとすぐの作品”はふ女”(どういう意味だろうか)はルノアールそのままの放漫豊満な女の裸体画だった。”でぶ女”のミスタイプではないだろうか(爆)。安井曾太郎はセザンヌの亡くなった翌年、パリへ行く。セザンヌ絵画のコレクションをみて感激。そのあと、どんな景色をみてもセザンヌの絵になってしまったそうだ。18歳の自画像とセザンヌ風、風景画がふたつ。中村つね、木村壮八の自画像。こういう顔してたんだ。高島野十郎の”傷を負った自画像”はすごい。

中川一政。”実篤がはじめてゴッホを認めたことから、われわれ素人でも絵を描けるという自覚を与えられた。武者さんがいなかったら、今の自分がない”という。現在でも、美術界は、芸大出だとか、そんな学閥みたいのがあるのだろうか。(いつか日本画家のトークで自分は5浪もして入学したというのを聞いて、びっくりした。それだけ”価値”があるのだろう)科学界も、以前は大学出でなくても、牧野富太郎博士のような大学者が出たが、現代では難しいだろう。世の中は”もっともっと自由でなきゃ”と思うのだが。

芸大出身の会田誠の”まんが屏風”も面白かった。担当の教授にののしられたが、心の中で叫んだそうだ、”おまえの百倍は真剣に毎日、日本の美術とは何かを考えてる!!”。横尾忠則は”織物祭(西脇市)”、池田満寿夫、森村秦昌、石田徹也、大竹伸朗とつづく。

絵ばかりでなく、コメント付きなので、当時の作者の心意気まで聞こえてくる、楽しい展覧会であった。おわりに、森村秦昌の言葉を付け加えておこう。

二十歳の頃は確かに未完成で、不安定で、お先真っ暗で、何もかもうまくいかなかった。だが、その閉塞感のなかで、どうしようもなく内からわきあがる、純粋な表現の衝動があった。そのことに最近、やっと理解が及んだ。四十年もの回り道をしたことになる。

 (拡大できます)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こどもの情景/戦争と子供たち 写真展

2011-05-29 17:30:20 | Weblog

東京都写真美術館は約26000点の所蔵品があり、これらから選抜し、毎年、コレクション展を開催しているとのことだ。今年のテーマは、”こどもの情景”で、3回に分けて展示し、5月からのサブテーマが”戦争と子供たち”というわけだ。1930年代から1990年代までのが展示されているが、太平洋戦争の戦中、戦後のこどもたちが中心だ。

内外の40名近い作家の作品がずらりと大会場を埋め尽くしているのだから壮観だ。木村伊兵衛、土門拳、林忠彦らぼくでも知っている写真家の作品も、ちらちら顔を出す。彼らが見事に、ぼくらのこども時代の貧しい生活を切り取っていた。紙芝居を一生懸命みているこどもたち、こっぺぱんをかじっている子、靴磨きをしている子、赤ん坊をおぶっている女の子。はるか記憶の彼方にいってしまっていた光景が今、ここに呼び戻され、ぼくの心をゆさぶる。

しかし、この、こどもの情景は、3・11の東日本大震災と原発事故により、再び現実のものとして帰ってきた。しかし、貧しいながらも、当時のこどもたちの表情が明るかったのが救いだ。今のこどもたちも、この苦難を乗り越え、必ずや、あたらしい日本をつくってくれると思う。

 

 ぼくの作品(汗) こどもの情景

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョセフ・クーデルカ プラハ 1968

2011-05-29 09:19:11 | Weblog

目黒の森から出てきて、ふと、あの写真展のことを思い出した。恵比寿は目黒の隣り駅。恵比寿ガーディンプレイスの東京都写真美術館で開催されている、”ジョセフ・クーデルカ プラハ 1968”展のことだ。めったに観られないと思ったら、どうしても行きたくなった。行って良かったと思った。目は口ほどにものをいう、そんな写真展だった。

1968年8月、まだはじまったばかりの、言論の自由を柱にした改革”プラハの春”を押しつぶすかのように、突如、ソ連軍(ワルシャワ条約機構軍)がプラハに侵攻した。ときの政府は市民に相手の挑発にのるな、冷静な対応をと呼びかけた。

ジョセフ・クーデルカはこのとき30歳。プロの写真家になろうかと思っていた矢先だった。ルーマニアでの撮影から帰った翌日、プラハの街は戦車で埋め尽くされた。日常が突如、非日常になった。彼はカメラをもち、5日間ほどの軍隊と市民の素手による抵抗の様子を撮り続けた。戦車の兵士に向って、怒りの抗議をする男、遠巻きで、とまどいの様子をみせる女と子供、さまざまな表情をみせる市民と兵士の姿が克明に、クーデルカのカメラに収まってゆく。

もちろん、これらの写真は国内では発表するわけにはいかない。スミソニアンの職員を仲立ちにアメリカに送られた。そして翌年、写真家の名を伏せたまま発表され、その作品にロバート・キャバ賞が授与される。クーデルカの名前が表に出たのは、ずっと後で、父親のなくなったあとの1984年のことだった。だから写真展には、”この写真を一度として見ることのなかった両親に捧げる”の言葉が添えられているのだ。

会場は、これらの、臨場感あふれる写真で埋め尽くされている。そして、入ってすぐ右の壁には、一枚の巨大な写真パネルがはりついている。まるで、当時のプラハの街角にタイムスリップして入り込んだ錯覚さえ、受ける。反対側のコーナーでは、これら写真の連続映写をしている。ときどき、当時のニュース動画が糊づけのように入り、動きのある”写真展”を演出している。

ぼくは5年ほど前、夢のように美しいプラハの街を訪れ、カレル橋近くのホテルに泊ったことがある。だから、展示されていた地図をみて、だいたいのことは分かる。ちらしに採用された写真は、ヴァーツラフ広場だ。誰もいない広場。ただクーデルカの腕時計だけが写っている。ここで大規模なデモが予定されていた。しかし、ソ連軍を挑発して流血の惨事を避けようと、市民が自主的に止めたのだった。そういう話しを聞くと、この誰もいない広場から巨大な無数の抗議の、声なき声が聞こえてくる。

40年以上の年月を経て、はじめて日本に上陸した。冒頭で述べたように、”目は口ほどにものをいう”、当時のプラハ市民の声がひしひしと伝わってくる、素晴らしい写真展であった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光明寺 石庭のサツキ

2011-05-28 18:27:11 | Weblog

ぼくの部屋の、5,6月のカレンダーの写真は、材木座、光明寺の石庭を囲むサツキの花だ。一週間ほど前、偵察に行ったが、まだ、二、三分咲きだった。もうそろそろかなと思っていた。うちの近所のサツキは、もう満開だし、昨日の庭園美術館のサツキも見頃だったから。

小雨の中、返却期限が迫っている本を携え、逗子図書館に行った。帰るとき、逗子駅から光明寺を経て、鎌倉駅行きのバスがあることを思い出した。光明寺についたときは、もう3時をまわっていた。しとしとと、雨は相変わらず降り続いていたが、本堂の渡り廊下を右方向に回り、石庭の前に出た時、思わず、おっ!すごい、と声を出してしまった。こんな天候で誰もいないと思っていたが、カメラマンが3人もいて、へんな声を出してしまい恥ずかしかった。満開とはいえないが、見頃といえるだろう。

この庭の名は、”三尊五祖の石庭”といい、あとで写真で示すが、それぞれの石が、法然上人であったり、釈尊であったりする。法然上人は今年、800年大御忌に当たり、そのせいか、その石の回りのサツキもよく咲いていた。ブッダはサツキの温泉に入り、首だけ出しているようだった。手塚治虫の映画はそろそろ始まるのかな。

自宅に戻って、PCでみてみたら、ぼくの撮った写真のひとつが、ちょうどカレンダーの写真と同じアングルのがあった。それを、はじめに載せます。あとは順不同です。梅雨に入り、天候も不順です。食あたりに気をつけてください。なるべくユッケは湯ツケにしてから食べてください。 食べ過ぎた人は運動を忘れずに。

法然上人石とサツキ

ブッダ石とサツキ

山側から全景

石庭主役 サツキ脇役

キャスト

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森と芸術展 in 庭園美術館

2011-05-28 10:40:09 | Weblog

東京都庭園美術館で”森と芸術展”が開かれている。ぼくらの先祖は森の中に住み、森の恵みを受けてくらしてきた。それが、日本では稲作をはじめるようになってから、森から離れ、さらに開墾のため森を削り、村をつくり、町をつくり、工場をつくり・・で、現代、都市から森は消えてしまった。一方ケルト人。BC1500年に中欧に現れ、ガリア(現フランス)、イタリア、小アジアと幅広い地域に住み、”森の民”と呼ばれ、森に住む神々と妖精たち(多神教)と共生していた。それが北からはゲルマン人、南からはラテン人(ローマ帝国)に攻撃され、中世には、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、ブルターニュ(現フランス)に追いやられた格好になった。その間、欧州では一神教のキリスト教の普及などにより、森を恐れなくなり、深い森は次々と消えていった。

こうして森から離れた人間も、心の奥深く、原始の森への郷愁や憧れを抱き、森の神々や妖精たちを想う。芸術家はそれをモチーフにあるいはその情念をこめて、描く、撮る。環境破壊が進む現代、森に目を向けよう、考え直そうという、メッセージがひしひしと伝わってくる展覧会である。

構成は以下のようになっていて、トータルで200点を越す作品が展示されている。迷子になりそうな部屋をぐるぐる回っているうち、本当の森に迷い込んでしまったような気持ちになる。森にもいろんな生き物がいるように、ここにも実に沢山の、多種多様な芸術作品があちらこちらに棲んでいた。

第1章 楽園としての森
 ここではルソー、ゴーギャン らの、楽園のような森がいくつも展示されているが、素朴派のアンドレ・ボーシャンの”楽園”がいかにも楽園らしくて気にいった。彼の作品(森の精、ニンフたちの洞窟)は第二章でも精彩を放っていた。園芸家で素人画家だったらしい。
第2章 神話と伝説の森
 アンリ・ファンタン-ラトゥールの”二人のオンディーヌ”は水の精がうつくしく描かれていた。
第3章 風景画の中の森
 クルーベ、コローらの風景画のほか、フォンテーヌブローの森の写真作品も顔を覗かしていた。
第4章 アールヌーボーと楽園の森
 ここでは、玄関に”森の番人(正確には覚えていない)”の表札をかけるほど、森を愛したエミールガレが活躍。植物の模様がふんだんに描かれた花器やランプや置物がいっぱい。そして、ちらしの絵に採用された、ポール・セリュジエの”ブルターニュのアンヌ女公への礼讃”。描かれているアンヌ女公はブルターニュ公国の最後の君主。フランス国王との政略結婚でブルターニュを独立国として守った女王で、国民に尊敬されている。森の民、ケルトの末裔である。
第5章 庭園と聖なる森
 ここでは日本人作家が登場する。川田喜久治の写真作品。地獄の入り口、巨女、闘う巨人、ニンフ等など。森に棲む魔物や妖精だろうか。
第6章 メルヘンと絵本の森
  お馴染みの、赤頭巾ちゃん、眠れる森の美女、美女と野獣、ふしぎな国のアリスなど森にからむ絵本がいっぱい。
第7章 シュルレアリズムの森
 マックス・エルンストの作品が多数。ルネ・マグリットの”再開”よかったな。
第8章 日本列島の森
 岡本太郎の写真が4枚。縄文土器や森林の風景。そして油彩”森の家族”。原始美術を愛した岡本。きっと原生林も愛し、妖精たちと話しもしたことだろう。

出口の近くに、なななんと、ジブリの森が。となりのトトロの原画。そうだ宮崎駿さんも”森の人”だったけ。ぼくも半分田舎に住んでいるから森は近い。ときたま、森の人になって、反省したい。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然教育園の森に入る

2011-05-27 21:50:36 | Weblog

北海道に住む友人が定年退職後、3冊目となる自著のエッセイ本を送ってくれた。いずれも、ネイチャーウォッチング関連のものであるが、今度のはちょっと変わっていて、森に住む妖精が出てくるファンタジックなものである。そんなこともあり、ぼくの関心は今、森にある。そうだ、目黒の庭園美術館で”森と芸術”展をやっているはずだと、今日、出掛けてきた。予想した通り、そこには森の妖精がいたりして、うれしい展覧会であった。そのあと、実際の森に入ってみたいと、久しぶりの隣接する、国立博物館付属自然教育園の森に足を踏み入れた。

”自然教育園”というくらいだから、あまり人の手が入っていない。自然の森だ。えっ?ここが都内、と訝るほどの静けさ。本当に森の妖精が住んでいるのではないかと思わせる雰囲気がある。沼もある。湿地帯もある。武蔵野の雑木林もある。いろいろな植物が、思い思いのくらしをしている。鳥も虫も、ここでは気兼ねなく生活している。だから、歩いている人も、漱石の草枕ではないけれど”始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ風景の人”になる。

今日は森の人になった一日であった。”森と芸術”展については、明日、記事にしたい。

森と沼

花 ノハナショウブと、空木&山法師

 鳥と虫 アオサギと空中ブランコ幼虫

おまけに、うちの近くの、金糸梅の一番花。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武士の家計簿から

2011-05-27 09:03:07 | Weblog

26日午後、鎌倉芸術館で秋川史コンサートを聞いた日の午前中は、小ホールで”武士の家計簿”を観ていた。この映画は大震災以前にも観ているのだが、自宅から歩いてすぐの会場で上映するというので、ふらりと寄った。(そのおかげで、知らなかった、秋川史コンサートの当日券も買えたのだ。)

前回観たとき、途中で睡魔に襲われ(汗)、中断されていた箇所があり、今回、それが埋まったし、新たに気付いたこともあった。”刀でなくそろばんで家族を守った侍がいた”のキャッチコピーが端的に示すように、加賀藩の御算用者を代々、つづける家系、猪山家の物語である。堺人とその妻、仲間由紀恵を中心に、父母役に中村俊、松坂慶子、祖母役に草笛光子、仲間の父親役に西村彦が演じる。裕福な暮らしをしていたが、堺の子供のお祝いのとき、内実は父母の無駄遣いによる借金まみれであることを知る。(太字のは偶然、出演者の名前にが重なり、面白いと思ったので;汗)

その日以来、堺雅人が猪山家の家計を受け持つことになる。家財、着物、骨董なども売りに出し、すっからかんになり、以来貧乏暮らしをつづける。”武士の家計簿”もつけるようになり、子供にも将来の、そろばん侍のため教育として家計簿をつけさせる。

ぼくらの子供時代も似たような貧乏暮らしだったが、仲間由紀恵の言葉だったと思うが、”貧乏を工夫だと思えばなんでもない”が心に残った。安い食材でもお料理の仕方でいくらでもおいしくいただける、というのだ。大震災後のわれわれにも通じる言葉ではないか。随分、節電に気を遣うようになった。ただWIFEのお料理に工夫はみられない(爆)。今日もお料理学校に行くが、家でつくったためしがない。自分が食べにいくだけだ(爆爆)。むこうの部屋からくしゃみが聞こえる(冷汗)。

家財などを売りに出したとき、商家の人から、武家の方がこんなに思い切ったことするのをはじめてみました。堺はこう答えた。

生まれてくる子供をまっすぐな目でみられるように

ぼくらの世代は、生まれてくる子供たちにまっすぐな目を向けられるだろうか。
自分の代だけ楽できればいい、次の世代、さらに先の世代に重たい荷物を押しつけて、あとは勝手にしやがれ、と思っている輩がまだまだいるのは、ぼくにはとても理解できない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋川雅史コンサート in 鎌倉芸術館

2011-05-27 06:15:22 | Weblog

秋川雅史にとって、5月26日の鎌倉芸術館でのコンサートは、終生、忘れられないものになるはずだ。あの日、3月11日午後2時46分、コンサートが始まる15分前、突如、今まで経験したことない大きな揺れが、鎌倉芸術館の大ホールを襲った。観客は誘導され、館外の広場に集まった。東日本大震災のはじまりだった。電気は消え、強い余震がつづく。30分もしないうちに、コンサートの中止が決定された。

あの日から、秋川の苦難の日々がつづいた。その後のコンサートも中止される。自身も、これまでない酷い風邪に罹り、ひと月余り、声が出ない状態がつづいた。大震災に対し、何もできない自分に無力感も感じていた。それでも、徐々に体調が戻り、大津波の被害地である気仙沼の避難所などを慰問した。そのとき、彼の最大のヒット曲”千の風になって”を、まだ行方不明の方が大勢いる時期に歌うのはどうかと、ためらった。ひとりでも不快に思う方がいれば、歌わないつもりだったが、全員から懇願された。歌い終わったあと笑顔があった。歌が被災者のみなさんに元気を与えることを知った瞬間だった。

あの日、中止された鎌倉公演の再開の日が、悲しみと混迷の中にいた自分の再起の日だと、その頃から思うようになった。そして、今日、その日がやってきたのだ。5月26日午後3時、3月11日公演を待っていた、ほとんど同じ観客が戻ってきてくれ、満席となった大ホールで、秋川雅史の力強いテノールの歌声が高らかに流れたのだ。

”慕情”から始まり、秋川のおはこ”グラダナ”、”恋人よ(五輪真弓)”、蘇州夜曲”、そして”ひばりの佐渡情話”と歌いつづけ、”チャンピオン(谷村新司)”が大きなホールに響き渡る。観客の拍手も一段と高くなる。そして、軽妙なトークをはさみながら、”昭和(谷村新司)”、18分の熱唱”日本ヒット曲メドレー”。そして、イタリア、パルマで学んだ秋川自身が好きな曲という、”禁じられた音楽”。そして、”千の風になって”が最後を飾る。♪千の風に、千の風になって、あの大きな空を吹きわたっています♪ 歌う、秋川の胸に熱いものがこみあげてきた。歌い終えて、舞台の袖に入る秋川の背に観客の拍手はいつまでもなり止まなかった。

・・・・・

以上、秋川さんのトークをもとに、いつもと違った感じで書いてみました(汗)。

ぼくは、大地震の日、同じ鎌倉芸術館の小ホールで三国連太郎さんのトークと映画会の方にいました。そして、2時46分。避難した館外の広場は、両方の客でいっぱいになった。今日の公演は、当日券がわずかにあるということで、参加することができたのです。

・・・・・

大地震の日(3月11日) 芸術館の広場は避難客で溢れていた。ぼくもこの中にいる。

 そして、今日(5月26日)の再演

終演後、大震災義援金をお願いする秋川雅史さん。もちろんぼくもしました。あの日から二カ月半がたった。東北復活のきざしがみえてきたところもあれば、混迷をふかめる地域もある。みんなで支援をつづけよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大銀杏再生 ピンチ

2011-05-26 08:12:05 | Weblog

八幡さまの、”大銀杏その後”については、何度か、このブログで記事にしてる。最近では、4月2日に、ひこばえ枝の冬芽が発芽したこと、そして、5月1日には、その新芽の伸長が芳しくないことなどを報告した。

そして、昨日、5月25日の観察。ななななんと、この姿。遮光シートが被せられているではないか。黒い網目のシート越しに目をこらしてみると、やはり新芽の伸びが十分でなさそうだ。普通なら、もうこの時期には若葉が茂っているようでないと困るのだ。大銀杏再生、ピンチといえそうだ。

前年は、早々と根元および切断幹植え込み、の両方からひこばえが勢いよく繁り、ひこばえの枝も結構、太くなり、それらのいくつかが大銀杏の跡継ぎとして、さらに成長してくれるものだと思っていた。ただ一抹の不安はあった。今年の場合は、水分、養分の土からの移行は、まず根元の幹の維管束そして、さらに、ひこばえ枝の維管束をつかわなければならない。二段階だ。勢いのある植物ならなんでもないことが、もともと根はほとんど破損しているし、新枝の芽にまで十分なエネルギーを供給できないのではないだろうか。素人的発想だが。

何故、遮光シートか、たぶん”大銀杏再生委員会”の判断だろう。原子力安全委員会のデタラメ判断とは違って(爆)、適切な対処法だと信じています。それに、すでに昨年中に、新枝や芽の一部は、挿木や組織培養などの方法で増やしているはずだから、大銀杏DNAの継承には問題ないはずだ。できれば、同じ場所での、大銀杏の再生が成功すればよいのだが。お祈りしています

・・・・・

以下、ぼくの大銀杏再生、素人療法を発表します(汗)

これは専門家が考えた療法。 遮光シート法。強い光だけではなく、放射能対策もあるかな(笑)

ぼくが考えた素人療法いくつか。

1)逆療法(ぼくがよくやる手)大酒くらって寝るに限る。お水の代わりにお酒をかけてやってください。

2)隣りの宝戒寺の、ムクロジの実を煎じて飲ませる。むかし”延命皮”という生薬として使われたことがあるそうです。起きられるようになったら、ムクロジの種に羽根をつけ(これもむかしからのものです)、羽根つきをして体力をつけるようにしてもらいます。昨日、実をむいて黒い種を取り出しておきました。下の写真をみてください。実はぶどうのように成っていました。
拡大できます

3)大巧寺の八重ドクダミを煎じて飲ませる。ドクダミは”十薬”と呼ばれる生薬。八重咲きなら、”八重薬”でさらに薬効が高くなります(笑)。ドクダミの八重咲き、今年はじめてみました。ここが一番乗りかな。東慶寺のは、まだでした。

4)滋養に動物性たんぱく質を与える。妙本寺の鎌倉メダカをとってきました。なましらすがおいしいと思います。(メダカの怒り、リサちゃんも怒ってました)すみません、撤回します。

5)白衣観音さまにお願いしよう。白衣の天使についてもらうと安心。昨日、鎌倉国宝館でお願いしてきました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする