横浜美術館で、大観/良き師良き友展に引き続き、仲間外れにされていた(笑)下村観山展が開催されている。生誕140年記念である。開催後、間もなくして訪れたのだが、何とか年内に感想文をと、書き始めている。
観山というと、やっぱり、”弱法師”。梅の季節にはよく訪ねる三溪園の臥龍梅が、この絵のモデルになっていると知ってから、お気に入りとなった。観山は原三溪の支援を受け、住まいも横浜の本牧に用意された。横浜市ゆかり観山の回顧展が、横浜美術館で開催される、これほど相応しいところはない。
まず、その弱法師(よろぼうし)から。写真は今年(13年)のトーハクの”博物館で初詣”で撮ったもの。ハマ美での展示期間が、12/7-12/20なので、もしかしたら、来年正月もトーハクで屏風が開かれているかもしれない。ぼくは2日に行くつもり。
謡曲『弱法師』を主題にする。偽りの告げ口により父左衛門尉通俊にすてられ、盲目となって諸国を巡る俊徳丸は、人々から弱法師と呼ばれた。この作品では、旧暦如月時正の日(彼岸の中日)、摂津の四天王寺で、父と再会する機縁となった日想観(沈む太陽を拝し、極楽浄土を観想すること)を行う俊徳丸の姿が描かれる。(ホームページより)。
さて、はじめに戻り、各章ごとに、観山の履歴のメモと、展示された絵については、(図録を買わなかったので)、ちらしや図書館で借りた(10年前の)”生誕120年下村観山展”の図録からの写真を載せたい。
[第1章] 狩野派の修行
観山は9歳から画業の修行をはじめたという。11歳のときの作品、鐘馗さまが虎に跨っている図、”騎虎鐘馗”なんかみると、まさに、栴檀は双葉より芳し。そして、”鷹之図”は13歳。この頃からすでに、狩野芳崖や橋本雅邦に師事して狩野派の描法を身につけた。雅号は”北心斎”だった。
騎虎鐘馗
第2章 東京美術学校から初期日本美術院
天心が初代校長となった、美校一期生として入学するが、すでにひとかどの画家であった観山は、やまと絵を基礎にした独自の画風を作り出していく。明治27年に卒業後、すぐに助教授に就任、後進の指導に当たる。いかに、天心が観山を買っていたかがわかる。明治29年、天心の”日本絵画協会”に大観や春草と共に加わり、活躍する。雅号は観山に。しかし、明治31 年、美校内部の混乱で、天心は校長の職を追われ、観山も大観らと共に美校を去り、日本美術院を設立。第1回で観山の”闍維(じゃい)”は大観の”屈原(くつげん)”と共に、最高賞を受賞。フェノロサが激賞した。これも展示されている。この章では、”蒙古襲来図”、”辻説法”、そして、鹿の姿が愛らしい、朦朧体に拠ったといわれる”春日野”といろいろな絵をみせてもらえる。
闍維(釈迦が荼毘に付される場面)
春日野
[第3章] ヨーロッパ留学と文展
明治34年、美校に教授として復帰し、その2年後、国費留学でヨーロッパへ。二年間、ロンドンを根城に、欧州各地を回る。ここでも、ウフィーツィ美術館で写したものと思われるラファエロの”まひわの聖母”の摸写が展示されている。原画は板に油彩で描かれているが、水彩によって絹に写したもの。
観山が帰国し、翌年の明治39年に、天心が茨城県五浦に拠点を移した。観山も、大観、春草、木村武山らと共に五浦に移住する。明治40年、文展が設立され、審査員として”木の間の秋”を出品。五浦の雑木林に取材している写実的な作品で、酒井抱一以上とみる人もあったという傑作。一方、この絵に対して、安田靫彦はこう感じていた。天心先生の指導で観山の大きな技巧は、何人も、観山、大観、春草の順であると思っていた。琳派風の新しい試みの屏風の傑作も二双あり、これらは、”木の間の秋”より上位の作だ。何故に欧州に留学させたか、小生には今もって不可解だ。
その後、”国画玉成会”が天心を会長として設立されると、翌年の研究会展に”小倉山”が出品される。
”小倉山” (峰のもみぢ葉/心あらば/今ひとたびの/みゆき待たなむ)
右隻

左隻
第4章 再興日本美術院
天心が死去、大観と共に院展再興。三溪の招きで横浜へ新居。40歳の働き盛り。これまでの蓄積が爆発。名品ずらりと登場。三溪園の松鳳閣の障壁画、四季草花図の下絵も(本画は震災で焼失している)。第1回再興院展で”白狐”、第2回で冒頭の”弱法師”と茫漠とした空間を特徴とする作品を連発する。
一方、こんな絵も。”酔李白”。我が姿
”魚籃観音”魚籃観音とは、観音菩薩が三十三の姿に変化するうちの一つ。深い朱色の衣をつけ、鯉の魚籠を提げた姿で通常描かれる。ここでは、三人の男と犬を配した三幅対に仕立てた。魚籃観音の顔が留学中に模写したモナ・リザを下敷きにしている。
こんな美人画も。
”美人”
”白狐”
今朝の富士です。展覧会では、観山の富士山もみることができます。いい富士ですよ。