気ままに

大船での気ままな生活日誌

神宮で早慶戦を観る

2010-10-31 22:04:06 | Weblog

昨日、台風の影響で1日中、家の中で過ごし、欲求不満になっていたので、今日は朝から飛び出した(汗)。お墓参りを済ませ、武蔵小杉から東横線で渋谷に出て、半蔵門線で表参道へ。そこで降りて、根津美術館で”南宋の青磁”展をみて、すぐタクシーを拾い、神宮球場に向かった。今日は、早慶戦、昨日の雨天中止で、初戦は、斎藤祐樹が先発するはず、と思ったからだ。

すでに試合は始まっていた。ほとんど券は売り切れ、外野席立ち見が、わずかに残っているという、ぎりぎりセーフの到着だった。試合は2回裏、慶応の攻撃だった。まずピッチャーを確認する。背番号10、外野席からもはっきりみえる。斎藤先発だ。ああ、まずこれで来た甲斐があった。しかし、慶応に1点先制されている。でも、1点だけ、十分、勝利投手になれる。そうすれば、早稲田の優勝も決まり、斎藤祐樹の”佑勝の美”を飾れる、”歴史的”な試合となる。



斎藤投手

超満員だった。ぼくも何度か、神宮に足を運んでいるが、こんなのは初めてだ。巨人入りした、慶応の高橋由伸が活躍したときでも、これほどはいなかった。それはそうだろう、先日のドラフト会議で早稲田の3投手が、一位指名で、斎藤が日ハム、大石が西武、福井が広島に決まるという、空前絶後の投手陣を擁するチームなのだ。それも、伝統ある早慶戦で、優勝がかかっているという、最高の場面なのだ。

早稲田は、なかなか追いつけない。斎藤自身が二塁打を打ったときも、無得点に終わってしまった。そのうち6回に慶応に追加点を入れられ、2対0。もうひとつ調子がでなかった。7回裏、代打を出され、8回から大石達也投手。ドラフトで6球団が競合した投手だ。斎藤がいなくなっても帰るわけにはいかない。豪速球で、2イニングを0点に抑えたが、結局、早稲田の負け。”歴史的試合”にはならなかった。明日もあるらしい。福井が先発だろう。もし負けると、勝ち点が並び、優勝決定戦になるという。元ハンカチ王子の出番は、まだあるかもしれない。

大石投手


応援団もよかった。外野席からでは、チアガールはよくみえなくて残念だが(汗)、応援歌や吹奏楽だけはよく聞こえてくる。

”若いってすばらしい”と思わせてくれた、早慶戦だった。

慶応のチアガール


早稲田の応援団


結局、2対0、慶応の勝ち。


早稲田の三投手のプロでの活躍を祈りたい。三人とも、オチアイ中日に行かなくってよかった。
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一足先に京都の紅葉

2010-10-31 08:57:25 | Weblog

昨日は、台風接近で、東海道線も止まっているというし、仕方なく、外出は控えていた。おかげさまで、めったにみない昼間のテレビで、京都の紅葉風景(もちろん、今年のではないけれど)を一足先に楽しませてもらった。行ったことのある処も結構、あったので、以前のブログ記事などを開けて、思い出したりしてみた。

最初は嵐山の紅葉。
ぼくは、2006年11月28日に訪れている。”渡月橋からみる嵐山は、きれいに紅葉し、全山、秋色です。何度か訪れていますが、こんな美しい嵐山をみるのは初めてです”と記しているから絶好の紅葉日和だったのだろう。さらに”渡月橋近くの料亭「花筏」で、温泉入浴つきの豆腐懐石料理を楽しみました。ついでに花筏という地酒もいただきました。昼酒してほろ酔い加減で露天風呂からみる景色は、「絶景です、大喜閣」(店の前の看板にあった)でしたよ”とも書いている(大汗)。

保津川上流の小倉山、すばらしいですね。(ここまでは行ったことはありません)


次は、東福寺。ここも何度か行っているが、前述の嵐山見学の前日に訪れていた。”人だかりの通天橋に辿りつきます。ここからの眺めが最高です。よくみると、モミジ葉は、深紅、紅、オレンジ、黄色、そしてわずかな緑と様々で、まさに錦織なす景観です。・・・こんなに沢山の、それも熟年の大きなモミジの木が集まっているところは、めったにありません。質量ともすごい、日本一といっていいかもしれない、と思いました”とカンゲキしている。たしかに、日本一かもしれない。でも混雑も並大抵ではないので、もういいかなと思っている。


そして、源光院の丸窓からの紅葉。2008年11月5日に訪れていた。鷹ヶ峯の光悦寺の紅葉はすでに始まっていたが(京都で一番早く紅葉になるらしい、さすが光悦さんのお寺)、近くの源光庵は、”ここの本堂の丸い窓と四角い窓越しの紅葉が有名です。紅葉はまだ青葉でした。丸い窓は”悟りの窓”、四角い窓は”迷いの窓”(笑)と呼ばれています。”と書いていた。まだ青々した楓だった。見頃は、11月下旬だろうか。ぼくはいつまでも”迷いの窓”でいたい。


岩倉実相院の床紅葉。ここは一度も行ったことがない。廊下の床に庭の紅葉がうつるそうだ。面白そうだ。床はいつも鏡のように、ピカピカに磨いているのだろう。関係ないけど、うちの床暖房は3日前からはじめました。温まりすぎると、ついこっくりさん(汗)。


南禅寺・天授庵。2007年11月9日と2008年11月25日に行っている。前者は紅葉の始まり、後者はちょうど見頃だと記している。南禅寺の山門前の紅葉も見事ですね。地下鉄も利用できるので、便利。つい、行ってしまいます。ここから、哲学の道へ、永観堂、真如堂、法然院そして銀閣寺へと紅葉三昧、明星中華三昧味噌味(昨日のお昼でした)。そうそう哲学の道すがらの桜紅葉もいい。京都の桜餅も好きです。ゴルフのさくらちゃんも好きです。


醍醐寺。醍醐の桜は去年、観て来たがすばらしかった。醍醐の紅葉もすごいらしい。まだ観たことがない、青葉の楓しか。秀吉も”醍醐の桜”の宴をやって、その年に”紅葉狩り”もやる予定だったが観る前に亡くなったらしい。ぼくは亡くなる前にみておかねば。地下鉄が醍醐の方まで行っているので、便利です。


大覚寺。これは狩野派の襖絵のある”紅葉の間”。これも観たい。


明後日から奈良見物だけど、11月末はやっぱり紅葉の京都かな。12月は大阪と神戸。予定は未定どす

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日本シリーズ ロッテ先勝いいぞ

2010-10-30 21:55:22 | Weblog


いよいよ日本シリーズが始まった。本当は、巨人対ロッテで決勝戦をして欲しかったんだけど、落合ドラゴンズが、セリーグ代表チームになってしまった。応援は、もちろん千葉ロッテ。千葉にゆかりは全くないし、ロッテチューインガムが好きだというわけではないのだけれど、落合ドラゴンズには、絶対、勝たせたくないのだ。

そのわけは、2007年の日本シリーズの落合采配以来、落合監督が大嫌いになってしまったからだ。選手時代の落合は大好きだった。オレ流で、マスコミや監督の言葉なぞ、何をいうかという感じで平然と受け流し、三冠王を三度もとる偉業をなしとげた。現在のイチローのような、すばらしい存在だった。

その男が、監督になるや、ちまちました男に成り下がってしまった。忘れもしない2007年、日本シリーズ、対日本ハム戦の8回まで完全試合をつづけていた、山井投手を、ななななんと、9回表に降板させ、ストッパーの岩瀬に変えたのだ。日本シリーズで誰もが達成していない、大変な大記録、完全試合が目前という投手を誰が、変えるだろうか、開いた口がふさがらない、とんでもない采配だった。”非情”というか、それを通り越した、”空前絶後”の最悪の采配だった。”絶後”ではないかな、またこのシリーズでやるかもしれない。落合監督が山井投手の立場だったら、オレ流で、必ず”ベンチはアホ”だと言ったはずだ。

あのジケン以来、落合嫌いは大分増えただろう。ぼくの回りでもそういう人は多い。覆水盆に返らず、という諺があるが、もう戻らない。古巣のロッテに4連敗して、大恥をかいてもらいたい(爆)。ねちねち、がんばれロッテチューンガム。

晩酌の酔った勢いで、随分悪口を言ってしまった。ついでに、中国の日中首脳怪談(誤字はわざとだ)ドタキャンはなんだ、全くどうしょうない国だ。
ああ、これで、さっぱりした。では、おやすみなさい。

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神田古本まつり

2010-10-30 12:15:24 | Weblog


台風が近づいてきて、関東地方も一日、雨の予報。神田古本まつり、昨日、行ってきて良かった。学生時代や東京が勤務地だった若いころはよく出掛けたが、その後、あまり足を運ぶことがなくなった。気まま生活を送るようになってからも、鎌倉や藤沢の古本屋さんは覗いていたが、神田はほとんど行っていなかった。ちょうど、古本まつりをやっているというので、久しぶりに、わくわくしながら行ってきた。

とくに和本や美術本に期待をしていた。お茶ノ水駅を降りて、明大の横を通って(大学の考古博物館もみたかったけどパスして)、駿河台下の交差点に向かう。その手前の東京古書会館にまず入る。普段はここで古書の入札が行われている。おまつりということで即売会もやっているのだ。会場内に入っておどろいた。平日なのにすごい混雑。江戸時代のものや、それ以前の和本の数々。内容はわからなくても、みているだけでうれしい。


和本に混じって小百合ちゃんのサイン入り、いちばんきれいな若いときの写真つき色紙。おっ、ぼくが来るのを知って待っていてくれたんだ。よし買おう、4000円くらいなら、なんとかなる、と目をこらしてよくみると、ひとけた違っていた。4万円は財布の中にはない。涙をのんであきらめた。でもよく撮れている写真だった。


駿河台下から靖国通りに、古本屋さんが並んでいる。おまつりのときは歩道にも出店を出していて、ここも大勢の人々がたかっている。まず、和本、古地図、浮世絵版画などを扱っている大屋書房を見学。水木しげるのおかげで、妖怪ブームの昨今、”妖怪カタログ”も売れていた。ここでも、小村雪岱の美人版画が気に入ったが、小百合ちゃんのさらに上をいく値段であきらめた。


当店では”稀観本”しか扱いません、と玉英堂。入ってみた。おどろきもものきさんしょのき。ななななんと。”奈良絵本/保元平治物語”2500万円。たしかに色が鮮やかで、見事な絵本だった。”源氏物語絵巻(土佐光信・女)”1500万円。合わせればマンションが買えてしまう。小林秀雄生原稿7枚入り、45万円。さすがです。ぼくの生原稿、45円でも買ってくれる人はいない。ついでに、鎌倉ゆかりの歌人、吉野秀雄の書、15万円、牧野富太郎博士の書も15万円(瑞泉寺の黄梅の命名もしたので、鎌倉ゆかりとした)。いずれも、手も足もでなかった。相変わらず、お腹だけは出ていたけど(涙)。





そのほか、映画関係のポスターやら雑誌などのお店など覗いた。科学関係では鉱山学関連のがあったが、ほかは余りみかけなかった。科学は古本では価値がないのかな。自分のもっている本が、ほお、いい値段してるな、とか、いろいろ楽しめた。
ぼくのお小遣いで買えるのは、露店の本。安いものがいっぱいあったが、今回は買わなかった。美術本では川瀬巴水、鈴木春信、鏑木清方の画集等で買いたいのがあったが、重そうなのでやめた。






11月14,15日の前述の東京古書会館で入札会があるそうだ。その前日と前々日に一般の人も入場できるプレビューがあるとのこと。是非、見学に行ってみよう。そして、また古本屋さんを回り、そのときは、重くてもひとつくらい画集を買ってこよう。
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吾輩は猫である

2010-10-29 21:38:32 | Weblog



”吾輩は猫である 名前はまだ無い” の石碑にはおどろいた。明治11年、夏目漱石 錦華に学ぶ、とある。

その後ろの学校が、そこを前身とした学校であろう。帰ってから調べたら、漱石は、市が谷小学校から、錦華小学校転校している、とある。府立一中に入学するためだということだ。当時も学区があったんだろうか。


ここは神田神保町に近い。そうです、今日は、神田古本まつりに行ってきたのです。そこで、ある古本屋さんを捜している途中、漱石さんに出会ったのです。道に迷うのもいいもんだ。猫も歩けば棒にあたる。

漱石さんのお弟子さん、内田百聞さんの本も、古本屋さんで幅をきかせてましたよ。詳しいことはまた明日。ああ、眠い。では、おやすみなさい。



そうそう百聞さんも猫が好きでしたね。ぼくもノラ猫が好きです。


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薔薇散歩

2010-10-29 09:27:27 | Weblog
先日、鎌倉文学館の”川端康成と三島由紀夫展”をみたあと、庭園の薔薇園を見学して、そのあと、静かな住宅街をゆっくり鎌倉駅まで歩いた。

スタジーの巨木 椎の実がいっぱい落ちていた


薔薇園は見頃だった


三島由紀夫の”春の雪”が満開だった。小さい花だった。


川端康成の”雪国”もうつくしかった。うそどす。”白秋”どす。北原白秋も昭和16年家族とともに鎌倉海浜ホテルに逗留したそうです。鎌倉ゆかりの文人として、常設展に原稿や本が展示されています。


カトリーヌドヌーブ。ほんまどす。美女ですね。大船(フラワーセンター)にはマリアカラスがいます。


”鎌倉”どす。棘のない薔薇で鎌倉の人が育種したどす。大船にもいます。

ベンタウン。ペンタゴンではありません、椿でよくみる柄ですね。


”国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった” いい書き出しですね。島崎藤村の”木曽路はすべて山の中である”も好きです。藤村は円覚寺帰源院に滞在しています。常設展で”夜明け前”の原稿がみられます。因みに藤村のお墓は大磯です。再び因みに、漱石は帰源院に滞在し、その経験をもとに”門”を書きました。


ここを出て、5分も歩くと吉屋信子旧邸があります。粋な黒塀ではなく、花物語風(?)な塀です。


ロシア人の家だと思います。それとも最近、猛暑のロシアに遊びに行った人の家かな。


あるお宅の庭。彫刻家の家だと思います。奥さんが若い時にモデルになったのでしょう。今はちじまってしまっているか、さらに、おデブさんになっているかのどちらかでしょう。


朝ドラのあとの番組で綾小路きみまろさんが出演していました。
中高年のみなさん、ご安心ください、もう恋におちることはありません、溝に落ちるだけです。
おきれいですね、眉毛から上が。

相変わらず、面白いこと言ってました。ぼくはこれから、お出かけ。溝に落ちないように気をつけます。
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冷たい雨

2010-10-28 21:53:49 | Weblog
今日は一日、冷たい雨が降っていた。ぼくは歌謡曲好きだから、”冷たい雨”というと、すぐ橋幸夫の”江梨子”を思いだしてしまう。橋幸夫にはたくさんのヒット曲があるが、何故か、”潮来笠”よりも、レコード大賞をとった、”いつでも夢を”や”霧氷”よりも、この歌が一番好きである。

♪冷たい雨が 降る朝に一人で江梨子は 死んでしまった かわいそうな江梨子よ きれいだった 江梨子よ 涙にぬれた その顔を花で飾って あげましょう♪ とくに3番の♪野菊だけど 江梨子よ つんできたぜ 江梨子 今では逢えは しないけど 残る名前の 美しさ♪ この部分が好きで、高校生の頃、物まねしてよく歌ったものだ(汗)。

そういえば、”雨の中の二人”も好きだった。♪雨が小粒の 真珠なら 恋はピンクの バラの花 肩を寄せ合う 小さな傘が 若いこころを 燃えさせる 別れたくない ふたりなら 濡れてゆこうよ 何処までも♪

結構、雨好きなのかもしれない。西田佐知子の”アカシアの雨がやむとき”もいいし、ちあきなおみの”雨にぬれた慕情”もいいな。八代亜紀の、♪雨、雨ふれふれもっとふれ私のいいひとつれてこい♪ ”雨の慕情”、湯原昌幸の”雨のバラード”、三善英史の”雨”、そして欧陽菲菲の”こぬか雨降る御堂筋”。次々と出てくる。そうだ、さらに外に目(耳)をやれば、”雨に唄えば”そして、なんと言ってもこの歌、カスケーズの”悲しき雨音”。 雷の音から始まり、雨の音に混じりながらイントロが流れてくる。名曲だった。
・・・・・

こんな日でも散歩は欠かさない(大汗)。鎌倉駅近の、妙本寺と本覚寺の、雨の景色を撮ってきた。

雨の中のふたり


雨雨ふれふれもっとふれ


悲しき雨音


野菊やないけど、江梨子よ つんできたぜ


。。。

湘南育ちのこの方には、”雨”の歌は一曲もありません。

明るい海の歌ばかりです。それはそれでいいことです。



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千羽鶴 

2010-10-28 09:47:53 | Weblog
昨日、川端康成のことを書いたので、今日も川端康成からはじめようと思う。ノーベル賞委員会から評価された三つの作品のうちのひとつ、”千羽鶴”の舞台になったのは、円覚寺の仏日庵の境内にある茶室である。”鎌倉円覚寺の境内にはいってからも、菊治は茶会へ行こうか行くまいかと迷っていた。時間には遅れていた”

鎌倉円覚寺の境内にはいってからも○○(ぼくの名前)は茶室をみようかどうか迷っていた。仏日庵に入るには100円かかるのだ。先ほど、松嶺院に入るときも100円払ったばかりだし、円覚寺に入るときにも300円払っている。年金生活者には、500円のお小遣い消費は大きいのだ。 でも、入ってみた。お線香をいただき(必ずいただけるのだ、お線香代というわけ)、北条時宗公の廟所にお参りした。その右側に、千羽鶴の茶室がある。 


お茶をやっている(今日も寒い中、茶会に行っている)ワイフが、以前はワイフの先生もよく利用していたそうだが、代変わりしてからは閉じているそうだ。もったいないことだ。でも、川端康成も、現代の茶道を批判していた。ぼくは茶道具と女性の着物姿が好きなので(汗)、ここもできれば、続けてください。


”桃色のちりめんに白の千羽鶴の風呂敷を持った令嬢は美しかった” そんな令嬢はどこにもいなかった。でも境内の、桃色の彼岸花のような花は美しかった。ネリネという花だ。


仏日庵を出て、ふと思い出し、仏殿うらに行ってみた。思った通り、桃色のヒメツルソバがきれいに咲き誇っていた。桃色の千羽鶴のようだった。


なかなか、桃色のちりめんに白の千羽鶴の風呂敷を持った令嬢には逢えなかった。でも、ようやく黄梅院の境内でふたりの令嬢に出逢った。風呂敷はもっていなかったし、顔もみたけど、影だけはとてもうつくしかった。


大風呂敷をひろげている蜘蛛がいた。蜘蛛の巣が、まるで、ちりめんの原材料の生糸のように美しかった。

ちりめんで儲けた、金まみれの仏像さんがいた。

こちらの仏像さんは本物だ。とぼけた、仙崖さんの化身かもしれない。


楽しい円覚寺散歩だった。今日は寒いからどうしようかな。冷たい雨も降っているし、どこかの蕎麦屋で熱癇の昼酒もいいかな。
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花も実もある松嶺院

2010-10-27 22:03:52 | Weblog
今日は、お医者さんで、高血圧の薬をもらってから、ぶらり北鎌倉散歩。円覚寺松嶺院へ。秋の、花も実ある松嶺院でした。

まず実から。

ふうりんがまずみ (1センチ以下の実) ぼくと同じく、ぼけてます(涙)。

ろうあがき (2センチ程度の実) ぼくとおなじ、老あがきです(汗)。

やまぼうし(2センチ程度) 秋は帽子をかぶりません。すぐ失くすので(汗)。

しなの柿 (2センチ程度の小さな柿) 信濃にはまた行きたいです。

せんなり柿 (2センチ程度の小さな柿) ミニ柿の実です。

梅もどき (1センチ以下) どこが梅に似てるか?そうか梅干しか。

。。。。。

そして、花は。

ほととぎす

りんどう (小型の竜胆です)

ほしくさ (放射状の枝がかっこいいです)

雲南とりかぶと (毒入り餃子の仲間です)

みそはぎ (塩辛いものは控えるように先生から言われてます、でも味噌汁はやめられません)

だるまぎく (子供の頃、深大寺のだるま市、よく行きました)

何の花?名札がなかったのでわかりませんでした、深紅色のきれいな花でした。


そしてしんがりは、十月桜。でも、もうすぐ、十月も終わりますね。


出口近くの、花も実もある観音様。でも、拝んでも、ねずみ年生まれの方にしかご利益はありません。文化功労者の小百合ちゃんと同じ酉年のぼくには効果はありません。西行法師の和歌が身にしむ今日この頃です。


明日は12月並の陽気だそうです。風邪をひかないようにしてくださいね。
ではおやすみなさい。
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川端康成と三島由紀夫/伝統へ、世界へ

2010-10-27 11:23:59 | Weblog

鎌倉文学館、開館25周年記念特別展として表記の展覧会が開かれている。川端は生粋の鎌倉文人で、日本人初のノーベル文学賞受賞者、そして三島は、川端の推挙で世に出、名作”春の雪”で、侯爵邸として、この鎌倉文学館をモデルにしている。同館記念の展覧会としては、これ以上の企画はないだろう。加えて、庭園の秋薔薇は見頃になっている。

三部構成になっていて、第一部は”日本文学のノーベル賞”で、川端の同賞受賞関連の資料が展示されている。当時の毎日新聞の記事もあったが、その祝辞の解説記事は三島が書いている。当時、三島もノーベル賞の有力候補で、どちらかというところだったらしい。翌日、長谷の川端邸に、お祝いに駆けつけるが、車の中で、次のノーベル賞は10年はないな、と述べていたそうだから、半分残念な思いもあったのだろう。

ノーベル賞をすでにとっていた、湯川秀樹と朝永振一郎の、お祝いの言葉も新聞に載っていた。お二人の性格がよく出ているコメントで面白かった。湯川は、日本文学は紫式部以来、世界の先進国なのだから、受賞は遅いくらいだった、若いとき”雪国”を読んでから、ずっと愛読しているとも述べていた。朝永は、自分が受賞したとき風呂場で転んだので、転ばないようにと、語っていた(笑)。お二人の随筆は好きで、よく読んだものだ。今も本棚にある。

祝電がいくつもあった。その中に小百合ちゃんからのもあった。きっと、映画、”伊豆の踊子”に出演したからだろうと、推測した。ノーベル賞の実物のメタルもあった。はじめてみたが、金色に輝く”金メタル”だった。ぼくも持っている、受賞講演の”美しい日本の私”、そしてその生原稿もみることができる。

昭和43年10月18日毎日新聞  翌日、川端邸での川端と三島


ノーベル賞委員会が、とくにすぐれた作品としてあげた三つの小説


第二部は”鎌倉文庫からの出発”。戦後の有名な鎌倉文士による貸本屋さんから始まった鎌倉文庫は、出版社となり、文芸誌”人間”を発刊する。川端はここの重役、そして三島はここから”煙草”の掲載を認められ、ふたりの戦後の活躍が始まる。ここでは、互いに認め合った、両者間の書簡や、それぞれの名作の初版本や原稿が並ぶ。三島の”花ざかりの森”、”仮面の告白、”潮騒”等、川端の”雪国”、”名人”(川端はこの作品を自分では一番評価している)、”山の音”、”千羽鶴”等である。

”山の音”の舞台となった甘縄神明神社(ぼくの写真)。この下に川端邸がある。


第三部は”伝統へ、世界へ”。昭和31年頃、米国で潮騒がベストセラーとなり、雪国も翻訳され、二人の作品は各国で翻訳されるようになり、前述のように、二人とも、ノーベル賞候補となっていくのだ。川端の受賞後、三島は次第に民族主義的行動をとるようになり、楯の会に入り、昭和45年11月25日、豊穣の海、四部作の最終原稿を書き終えた、その日、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で演説し、割腹自殺をはかる。

川端は”三島君の死から私は横光君が思い出されてならない。二人の天才作家の悲劇や思想が似ているとするのではない。横光君が私と同年の無二の師友であり、三島君が私とは年少の無二の師友だったからである・・・豊穣の海は源氏物語以来の日本小説の名作かと思った、三島君の死の行動については、今私はただ無言でいたい”と述べている。

そして、一年半後、川端も逗子の仕事場で自殺する。

翻訳本


   金閣寺           豊穣の海



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