気ままに

大船での気ままな生活日誌

福富太郎コレクション展

2011-02-28 13:45:25 | Weblog

横浜のそごう美術館で、”福富コレクション/近代日本画にみる女性の美/鏑木清方と東西の美人画展”が始まった。福富コレクションはぜひ一度、観たいと思っていたので、楽しみにしていた。美術館に着いた、ちょうどその時刻にギャラリートークが始まるところだったのでラッキーだった。いろいろなことを知ることができ、とても楽しい美術鑑賞となった。

まずコレクター福富太郎さんの実像紹介から始まった。昭和のキャバレー王のニックネームをもつ方なので、豪快な派手なイメージをもっていたが、実際はだいぶ違っていた。戦前、自宅の二階に鏑木清方の絵が飾ってあったが、戦災で失い、是非また清方の作品をと青年時代、思い続けていたそうだ。酒も煙草もギャンブルもせず、靴は一足、タクシーにも乗らず、給料をこつこつ貯めて、ようやく一点の清方作品を手にいれた。その後、キャバレー事業を開始し、それが当たり、福富さんの蒐集美術品はどんどん増えていったのだ。その100点近くがここに集合しているのだ。

福富さん好みの絵がずらりと並んでいる。ただの美人ではなく、女性の内面からにじみでる美しさをもっていないとだめだそうだ。だから妖艶なものも多く、ぼく好みでもある(汗)。展示構成は、1)鏑木清方、2)東の美人画家、3)西の美人画家、と三つのグループにわけられている。

まず、清方作品。福富さんが最初に購入し、今でも一番好きな絵という”薄雪”(ちらし絵)。近松門左衛門の”冥土の飛脚”の、梅川と忠兵衛の心中(直前)場面だ。死を前にした梅川の顔の妖しいまでの美しさ。実物ははじめて観た。そして”妖魚”、六曲一隻の大作だ。これは有名な絵だから、どこかで観ている。緑の石の上に裸の人魚が休んでいる絵だ。ただ、清方自身、失敗作だと公言している。そのあと、清方のスランプが5,6年間つづいたという。何があったのだろうか。松園さんも恋の悩みでスランプ時代があった。スランプ後の作品として”向島の花”が紹介された。いつもの清方にもどっている。説明がなかったが、ぼくの好きな”刺青の女”もあった。この絵を観てから、福富コレクションが観たくなったのだ。前述の”妖魚”と共に、清方らしくない作品もいいものだ。

東の美人画家としては、池田蕉園が主として紹介された。清方と同様、水野年方の弟子で西の松園に負けないようにと蕉園の名をつけてもらったそうだ。実際活躍され、大阪の島成園と共に”三園”と称された。同門の池田輝方と結婚するが、輝方はすぐ他の女性と共に失踪、年方の葬儀のときに再会する。その後よりを戻したかどうかは説明はなかったが、コラボの作品もあったので、和解したのだろうと思う。こういう絵の背景の人生模様を知ると、一段と、絵の中に作者の心が透けてみえようで面白い。人は生きていれば、いろいろなことがあるし、美人画家も例外ではない。蕉園の、楚々とした”秋苑”と妖艶な”夢の跡”、そして、輝方の”お夏狂乱”が紹介された。このコーナーには伊東深水の大作”戸外は春雨”がある。劇場の舞台裏を描いたもので十数名の様々な姿態の踊り子が描かれている。画集ではみたような気がするが、実物ははじめてだ。

西の美人画家としては、大正美術会を結成、美術院再興に参加し同人になった、北野恒富の作品”道行”がまず紹介された。心中天網島の道行の場面。遊女小春と治兵衛の目が切ない。”浴後”も印象に残った。そして、前述の三園のひとり、島成園。大阪女性画家の火付け役となり、アクの強い女性像を描いた。”春の愁い”、”おんな”など多数の作品が福富コレクションに入っている。たしかに福富さん好みの絵だ。そして、松園は、”よそほい”一枚だけ、最後を飾っていた。

楽しませてもらった。今回は、図録も買ったので、ときどき開いて、また楽しんでいる。

 

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今日は植草甚一風に

2011-02-27 18:27:27 | Weblog

今日は逗子図書館に本を返す日にしていた。酒井抱一の解説本と川瀬巴水の画集の二冊。無事(というほどもことでもないが)返還手続きをして、二階で読む本を探していた。植草甚一の本をとって、窓側の明るい席で読み始めた。はじめに開けたページに、”きらいなことはしない、自由な時間がたっぷりある、これ以上何ものぞみません”。ななななんと、俺がいつも言ってる言葉じゃないか。でも、こういう偉大な作家に言われると、なんだか、お墨付きをもらったようでうれしくなる。

もちろん、若いときから植草甚一の本は”散歩と雑学が好き”(これも今の俺とおなじじゃないか;汗)などいくつも目を通しているが、久しぶりの植草本だった。40歳ころ会社をやめて、自由人になった。そのころ、モダンジャズにはまり、ジャズ評論をするまでになった。なべさだ、日野皓正らの一流ジャズミュージシャンも、専門の評論家には背を向けていたが、植草甚一の評には耳を傾けていたそうだ。日野皓正は別の本で、あのひとは自由で風のような人で大好きだ、と語っている。

毎日、日記帳をつけ、それにべたべたとその日に仕入れた、広告とか新聞記事とか、自分のメモだとかを貼り付けている。その日のことを、よく憶えておくために、すぐ思い出せるようにとのことだ。そうすれば、どんな一日でも、意義ある一日になるだろう。で、ぼくは今日の一日を植草風日記(ブログ)にしてみようと思う。ぼくは、今日撮ってきた写真を貼りつけるということで。植草風だから、どんな些細なことでもいいのだ。で、ぼくは逗子図書館を出てからの行動を写真と一緒に、ここに記そうと思う。

 逗子図書館の横のスペースで市民、超ミニ文化祭をやっていた。写真とか短歌とか。いいなこんなのも。メモしておこう。

(写真は拡大できます)

交番ではこんな掲示板が。振り込め詐欺にひっかかる人がこんなに多いとは。メモしておこう。亀宮八幡宮では、お昼すぎなのに朝市をやっていた。売れ残ったのだろうか。メモしておこう。逗子駅では、はやぶさのポスターが。3月5日デビュー。写真撮りにいこう(汗)。メモしておこう。

鎌倉で降りて、小町通りへ。すごい人出。そうか今日は日曜か。サンデー毎日では曜日を忘れる。通りの前の蕎麦屋さん”かわごえ”は川越出身の人が創業したと、地元の人から聞いたので、教えてあげます。小町通りのはじめのお店が、いつのまにかジブリのお店になっていた。おどろいた。外人のお客も多かった。宮崎アニメは国際的なのだ。これもメモしておこう。天ぷらひろみは、小林秀雄丼と小津安二郎丼がある。近代評論と映画の両横綱。どちらが売れるか聞いてみよう。両方のフアンなので、できれば、白黒つけないで、灰色決着にしてほしい。八百長でもいい、嘘も方便ということもあるし。おまえ、やっぱり出てきたな。10年で8億円、高いといってる奴がいるが、そんなことはない。ダルの年俸、5億円に比べても安すぎる。俺が科学者の、あたりまえ裏金かき集め、2億円プラスしてあげる。

植草さんは古本屋さんが大好き。一散歩で20冊くらい買うらしい。自分でかってに値段をつけて、値段表を変えてしまうらしい。古本屋さんはニコニコしてるらしい。骨董屋さんにも、入るが、少し古くなった程度の、比較的最近の安いものしか、買わないらしい。

こういう日記も、たまにはいいな。

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三渓園の早春

2011-02-27 10:22:11 | Weblog

横浜根岸の三渓園に梅を観にいった。下村観山が描いた東博所蔵(先月、展示されていた)の六曲一双の屏風絵”弱法師(よろぼし)”のモデルになった臥龍梅は、相変わらず龍がうねるような幹をみせてくれた。上海市から寄贈されたという緑愕梅もまだ花を残していた。池の回りの梅林も見頃になっていた。(写真はこの順です)

 

原三渓は生糸商として成功し、巨万の富を得て、美術品蒐集、日本画家の財政的支援(観山、古径、青邨ら)を行う一方、古建築物も”蒐集”し、この三渓園に”所蔵”している。重要文化財ばかりである。建築に興味のある方は是非お立ち寄りください。わが鎌倉の東慶寺(旧仏殿)や建長寺(旧天授院)ゆかりのもある。京都からは、旧燈明寺本堂が。(写真はこの順です)

臨春閣と聴秋閣。前者は紀州徳川家の紀の川沿いに建てられた別荘。桂離宮と並ぶ、数寄屋風書院造りの別荘建築。 後者は家光が上洛の際、二条城内につくらせたもので、その後、春日局が賜わり、江戸城内に移築されたもの。臨春閣から旧燈明寺三重塔が池の向こうにみえる。毎年、中秋の名月の観月会がここで開催されるとのこと。満月が左側から上がってきて、三重塔に近づいてくるそうだ。今年は是非行きたい。

可愛い子もいました。

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ご近所の枝垂れ梅

2011-02-27 08:40:49 | Weblog

今日の朝散歩。お寺の前のお宅の枝垂れ梅が満開になりました。花の着きかたといい、紅色のうつくしさといい、枝垂れ姿の艶やかさといい、自慢じゃないが、どこのにも負けません。ぼくの一軒家時代の庭の枝垂れ梅と似ています。主は変わってしまったけど、今頃、庭の片隅で咲いているだろうか。

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琳派芸術/転生する美の世界展

2011-02-26 07:55:44 | Weblog

酒井抱一生誕250年記念、”琳派芸術/転生する美の世界展”が、出光美術館で開催されている。前期展も観たが、そちらは、”煌めく金の世界”で光悦、宗達、光琳が中心だったが、今回は江戸琳派の、酒井抱一、鈴木基一が中心だ。

酒井抱一は、今の神田小川町の付近の酒井雅楽頭家別邸で生まれ、育ったのは大手門前の酒井家上屋敷である。現在改築中のパレスホテルの辺りである。姫路城主になった兄の仮養子になり、兄の後を継ぎ、お殿さまになるはずだったが、兄に嫡子が生まれ、それはかなわなくなった。その代わり、生来の文化的素養を開花させ、歴史に残る絵師になった。

絵画ばかりでなく、狂歌や俳諧にも通じていた。20代後半、尻焼猿人(爆)の狂歌名で”吾妻曲狂歌本”(蔦重版)を出している。28歳のときは蔦重の秘蔵子、喜多川歌麿の狂歌絵本”画本虫撰”に自身の狂歌を寄せている。俳諧では、芭蕉の弟子、基角に私淑していたらしい。絵画は、浮世絵師、歌川豊春に学んでいる。だから、はじめは美人画を描いていた。”美人蛍図”なんかとてもいい。以上は、”もっと知りたい酒井抱一(玉虫敏子著)”からの引用だ。

この本には出光美術館所蔵の絵画(すなわち、この展覧会にも展示されている)がいくつも紹介されている。今回は、図録を買わなかったので、以下の写真は、ここからのものである。

姫路藩邸を出た抱一は、30歳から隅田川河畔に住みつき(晩年は下谷根岸の里)、絵画は美人画から草花絵に移っていく。37歳で出家し、抱一上人になる。その風貌は、鏑木清方の描いた肖像画で知られる(下写真)。”燕子花図屏風”は41歳のときの作である。光琳にも同名の名作があるが(去年、根津美術館で観た)、それとは、大部、趣を異にする。燕子花といえば、”八橋図屏風”も展示されていた。これも光琳に同名の作がある。これとの比較の解説のパネルがあったが、並べてみると、だいぶ違っている。抱一は文化12年(1815)に光琳百年忌を行い、同時に展覧会を開催するなど、琳派の光琳の後継を意識しているのだ。

本展覧会、第一章”琳派の系譜”に、宗達、光琳も描いた”風神雷神図屏風”が、抱一作として登場する。いつだったか、東博での”大琳派展”で、三作勢揃いしたことがあった。”模写”とはいえ、それぞれ微妙に違う。風神雷神が少し、おとなしい顔になっている。この部屋に、抱一の一番弟子、鈴木基一の”三十六歌仙図”が挨拶がわりに出てくるが、これも琳派が好んで用いるモチーフのひとつだ。基一の作品は、そのあと第二、四章(基一の美)でも、展示されている。彼の作品の多くは米国で所蔵され、国内ではなかなか観られないらしい。

 

そして、第二章、”薄明の世界”。ここに、ちらし絵に採用された、抱一の”紅白梅図屏風”が登場する。今回の目玉だ。銀箔に銀泥を塗った地に紅白梅が描かれ、月光に照らされた紅梅白梅の様子が描かれている。光琳の金地の紅白梅にはみられない何かが伝わってくる。基一の芒野図屏風もここに出てくる。芒の穂が印象的な、銀地墨画の二曲一隻の屏風だ。変なたとえだが、金閣寺もいいが、銀閣寺もいい、というところだろうか。

どの展示室にも、前期展同様、乾山の工芸品がずらりと並び、とてもぜいたくな気分にさせてくれる展覧会だった。

今年は、畠山美術館等でも、酒井抱一展をやっているらしい。また、訪ねてみよう。

紅白梅図屏風

 

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海蔵寺 早春の静寂

2011-02-25 18:28:00 | Weblog

今日は予約しておいた、北鎌倉の口悦で和食ランチをふたりでいただいた。そのあと、東慶寺の満開になった梅の花と、うつくしい小柄な水月観音さまに再会した。ワイフは久しぶりの東慶寺だったが、最高の梅や仏像展をみることができ、喜んでいた。そして、亀谷切り通しを抜けて、海蔵寺に向った。ぼくも久しぶりだった。

まだ早春で花の少ないお寺は、静寂の中にあった。この静かさが、なんともいえずいい。縁側に座り、かすかな風の音を聞き、あたたかな日差しにつつまれる。(本当のこと言うと、春一番が吹いて、結構、強い風が吹いてたし、日差しも暑いくらいで、日陰で休んだのだ)

若い緑の枝、若い芽、若葉色の苔が、目にまぶしい。(本当のこと言うと、花粉症で目がちかちかしたのだ)

そして梅が、福寿草が、馬酔木が、春を呼んでいる。(でも、明日からまた寒くなるそうだ)

 

 のどかな一日だった。(のどが渇いた一日でもあった)上野動物園のパンダは元気だろうか。

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新宿御苑 早春物語

2011-02-24 18:41:34 | Weblog

”外(と)にも出よふるるばかりに春の月”  汀女さんの名句の碑を後にして、ぼくらは新宿御苑に向った。昼間だったから、春の月はなかったけれど、”触るるばかりに春の花”が、御苑内のあちらこちらにほころんでいた。寒桜、修善寺寒桜、河津桜、梅、ロウバイ、水仙、マンサク、エリカ等など。そしてサンシュユ(山茱萸)やミツマタは蕾を膨らませ、今にも咲きだしそうな感じだった。そして、ヒマラヤサクラはもう若葉になっていたし、プラタナスの並木や巨木の冬芽もふくらみ始めていた。地面をみると、待ち遠しいのか、早くも若草が顔を出していたし、負けじと、苔も若草色になっていた。もう春は真近、新宿御苑は”早春物語”がはじまっていた。

早春のソナタ

早春の歌謡曲

早春物語

早春のどうでもいい景色上野動物園のパンダに会いたい

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世田谷の寿司と梅と汀女さん

2011-02-24 11:28:33 | Weblog

ワイフが、世田谷の梅が丘に住んでいた高校の同級生を訪ねたことがある。そのとき、近くの羽根木公園を散歩し、高校の大先輩にあたる、女流俳人、中村汀女さんの句碑の前まで連れてこられた。私は毎朝、出勤途中に、この句碑の前でお辞儀をしてから電車に乗るのよ、と彼女が言ったそうだ。十数年も前のことである。その彼女も退職し、今は、九州に戻っている。

梅の季節になり、もう一度、あの辺りを散策してみたいという。そして、彼女を訪ねたとき、果たせなかった、梅が丘の有名寿司店のお寿司を食べてみたいという。そんなわけで、湘南新宿ラインと小田急線をつかって10時半頃、梅が丘駅に降りたった。

駅から歩いて1分、そのお寿司屋さんはあった。11時開店というので、場所だけを確認しておこうとお店の前まで来た。ななななんと、もう行列ができている。公園を先にと思っていたが、急遽変更、行列に加わった。十数年前、大行列で引き揚げたというワイフは今回は是が非でもと鬼の形相(爆)。一番前の人は10時から並んでいると、前の人が話していた。開店時には大行列になっていた。

そして、開店。ふたりとも、生ビールと梅まつりセットを注文。大トロ、中トロ、穴子、うに、いくら、といろいろ入っていて、蟹味噌サラダ、茶碗蒸し、味噌汁までついている。それで2000円以内。それに、たしかにおいしい。お刺身にうるさい、ぼくが言うのだから、間違いないです。高級店に行ったら倍の値段だと思います。お薦めは、食べ放題コース、3000円台だった。ぼくは飲み放題がいいけど、体重増なんかどうでもよくなった、中高年女子会にはぴったりだと思います(爆)。

 

お腹いっぱいになり、羽根木公園へ。600本の梅林。熱海の梅林みたいに咲いているのかと思ったけれど、なんだか木が弱っているようで、あまり花をつけていない。でも、中には、元気のいい紅梅、白梅、枝垂れ梅が妍を競っていた。そして、汀女さんの句碑の前に。随分大きな句碑だった。野毛山や熊本の江津湖畔のも見たが、どれよりも大きかった。さすが、世田谷名誉区民(この近くの代田にお住まいだった)だ、世田谷区も気張って予算を出したのだろう。句は、ぼくも大好きなものだった。

外(と)にも出よふるるばかりに春の月  汀女

 

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中山義秀展 神奈川近代文学館

2011-02-23 08:26:46 | Weblog

横浜山手の神奈川近代文学館で”中山義秀展”が開催されている。同時に”文学の森へ 神奈川と作家たち/第一部夏目漱石から萩原朔太郎まで”展も行われているのでいろいろ楽しめる。前回、訪れたとき、後者の展覧会は”第三部”だったのでもう終わりかと思ったら、また一部に戻っている(のだと思う)。第一部は神奈川ゆかりの錚々たる文学者ばかりであった。漱石、鴎外、透谷、独歩、昌子、鏡花、実篤、志賀、有島、茂吉、虚子、白秋、そして朔太郎である。神奈川というより、日本を代表する作家ばかりだ。

中山義秀については、林真理子の”女文士”を読むまでよく知らなかった。”女文士”は真杉静江の波乱の人生を描いたものだが、小説の中の登場人物も実名で出てくるのでミーハーなぼくにはとても面白かった(汗)。愛人に武者小路実篤が出てくるし、鎌倉文人もちょこちょこ顔を出す。その彼女と結婚したのが芥川賞を受賞した中山義秀である。しかし、長くは続かず、離婚する。

この展覧会で、彼の履歴も紹介されていて、38歳のとき”厚物咲”で芥川賞受賞、42歳で真杉静江と結婚、鎌倉に移り、5年後に離婚、そしてスミさんと再婚、68歳で亡くなるまで鎌倉に住んだ。時代小説を次々と発表、絶筆は”芭蕉庵桃青”だった。

展示品には、再婚された美人の奥さんとの家族の写真などのほか、”いしぶみ”の初版本や”咲庵”(光秀が主人公)の原稿、愛用の麻雀の牌などがある。そして、小林秀雄の弔辞が最後を飾っていた。直筆のものである。小林は早い時期に、中山の作品を評価し、彼を世に出してあげた。それ以来のつきあいで、彼の最後も小林が送った。小林はさすが、(人物)評論の神様だから、追悼文にかけては自分でも自信をもっていたふしがある。中原中也の追悼文なんかとてもよかった。涙がでてくるような文章であった。

これをきっかけに、中山義秀の著作、とくに”芭蕉庵桃青”を読んでみようと思う。
石川町の駅までに、面白い猫をみた。駅に着く頃には空は夕焼けになっていた。

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松田・河津桜ほぼ満開 富士山も

2011-02-22 18:20:52 | Weblog

今日は神奈川県の河津桜の名所、松田(足柄上郡)を訪ねた。ここ数年、毎年行っている(汗)。本場の伊豆の河津も、3度ほど行っているが、ちょっと遠いので、最近はここで十分と、河津までは行かない。国府津からJR御殿場線で行けば、駅前から”まつだ山”行きのシャトルバスが出ているので便利だ。そうしようと思ったが、御殿場線はのんきな線で、1時間に1本しか走っていない。のんきなことでは、誰にもまけないぼくも、さすがに1時間は待てない。小田原まで行くと、10分おきに、電車が出ている。新松田駅で降りて、5,6分歩いて、JRの駅までいけばいい。

超満員のバスに乗って、桜の山に登り、頂上に着くと、平日だというのに、そこも超満員だった。近ツリの団体客がいくつも輪をつくり、バスガイドさんが何時に集合ですよ、と大声を上げていた。駐車場から、富士山がばっちり見えた。富士山の見えない日に来たら、うれしさ半減です。何度も行っているから、ぼくのビューポイント(別に、この公園が指定しているビューポイントもある)まで降りていって(トイレの横でくさいところですが)、まず富士山と河津桜のツーショットを撮った。それが、はじめに載せている写真です。富士には月見草だけではなく河津桜もよく似合います。肝心の桜もばっちり咲いていた。木々によって多少の違いはあるが、ほぼ満開になっている。

ちょうど12時頃着いたので、まず腹ごしらえ。今日は、いつもみている、朝ドラ”てっぱん”のあかりちゃんのお好み焼きがおいしそうなので、それにした。ちょうど、おのみっちゃんと似たような、焼そばの入った広島風お好み焼き屋さんがあったのだ。缶ビールももちろん。

そして頂上から降りていく。山一面の、どの桜もたわわに花をつけていて、早いものはあと1日ほどかと思われるほどの、触れなば落ちんの風情だった。ソメイヨシノと違って、ピンク系の強い色なので、華やかだ。そして、黄色の菜の花との対比がすばらしい。本場の河津も菜の花が川縁にいっぱいだった。河津桜は菜の花がよく似合います。

それにお天気が最高。空は青空、春のような暖かさ。こんないい日に来られて、本当によかった。普段の行いがいいからだ、と自画自賛したら、階段につまずき、あわやねんざというところだった。やはり人間、謙虚でなければいけない。

素晴らしい一日だった。今日はワイフはついてこなかった。やはり、普段の行いが悪いから、こういう景色に、遭遇できないのだと思う、お天道様はちゃんとみているのだ(爆)。

 

 

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