暑くもなく、寒くもなく、歩くのにとても良い気候になりました。大船ルミネの「つばめ」でパスタランチを食べてから、東海道線に乗り、湘南方面に向かいました。はじめ大磯に行くつもりでしたが、急に気が変わって、藤沢で降りてしまいました。気ままです。
藤沢の旧東海道辺りは、2度ほどウオーキング大会で歩いていますが、ゆっくりみて回ったことはありませんでした。藤沢駅北口から銀座通りに入り、オデオン座を過ぎ、20分ほど歩くと、白旗交差点に到着します。さらに真っ直ぐ行くと義経を祀る白旗神社方面で、左右に伸びる道が旧東海道で、右に行くと遊行寺方面です。
この交差点の辺りは、江戸時代は藤沢宿のあったところですが、今はその面影は全くありません。どこを訪ねようかと、思案していますと、目の前に案内板がありました。この近くにお寺がいくつもあることが分かりましたが、その中のひとつのお寺の脇に小さく書かれていた「飯盛女の墓」という文字に目がとまりました。
飯盛女(めしもりおんな)が、宿場町の旅籠屋で旅人の身の回りの世話をする女のひとで、ときには遊女のような役割も担っていたことぐらいは知っていましたので、おどろきました。以前、京都だったか、どこかのお寺で、遊女のお墓をお参りしたことがありますが、なかなかそういうお寺はありません。
早速訪ねてみました。浄土真宗の永勝寺というお寺で山門をくぐると、すぐのところにその墓所はありました。たくさんの、小さな石のお墓が、四角い場所を囲むように建っています。数えてみると39基もありました。端が欠けている墓石もありましたが、大部分はしっかりしていました。
表面に法名の、釈・・が、側面には俗名が彫られていました。カタカナでかかれているものや、与八娘と名前のないものもありました。また、当時の地名はよく分かりませんが、遠州、伊豆といった文字が見られましたので、神奈川だけではなく近県からも来ていたことが分かります。亡くなられた日付も記されています。宝暦、安永、明和、享和等の江戸時代の年号がみられます。1700年代後半です。
案内板によりますと、当時藤沢宿には49軒の旅籠屋があり、そのうち、27軒が飯盛女をかかえていたそうです。その飯盛旅籠のひとつを営んでいた小松屋源蔵という人が、このお墓をつくりました。当時の、この種の女のひとのほとんどは、両親の借金のかたに、あるいは口減らしのために、売られてきていたのです。無念にも、悲しい一生を終えていった女性たちに、小松屋源蔵があわれに思い、宿場町に近いこのお寺に、次の世では幸せに生きてね、とりっぱな墓所をつくりました。
墓所の真ん中に立ち、手を合わせお参りしました。ふと前をみると、一段高いところにある、大きな墓石が目に入りました。小松屋源蔵のお墓でした。ここで見守っていたのです。そこにもお参りし、帰ろうとしましら、ボトッと音が聞こえました。また、ボトッと。何だと思って、よくみると、熟したギンナンが落ちていました。その音だったのです。顔を上げると、向こう側に太い幹の大イチョウがそびえていました。今まで気づきませんでした。
この大イチョウは、その幹の太さから判断して、きっとこの墓所が出来るときに植えられたのではないかと思います。そして、現在まで、250年近く、もう絶対に不幸せにさせないぞ、と弁慶のように仁王立ちして、彼女達を守ってきたのでしょう。
藤沢の旧東海道辺りは、2度ほどウオーキング大会で歩いていますが、ゆっくりみて回ったことはありませんでした。藤沢駅北口から銀座通りに入り、オデオン座を過ぎ、20分ほど歩くと、白旗交差点に到着します。さらに真っ直ぐ行くと義経を祀る白旗神社方面で、左右に伸びる道が旧東海道で、右に行くと遊行寺方面です。
この交差点の辺りは、江戸時代は藤沢宿のあったところですが、今はその面影は全くありません。どこを訪ねようかと、思案していますと、目の前に案内板がありました。この近くにお寺がいくつもあることが分かりましたが、その中のひとつのお寺の脇に小さく書かれていた「飯盛女の墓」という文字に目がとまりました。
飯盛女(めしもりおんな)が、宿場町の旅籠屋で旅人の身の回りの世話をする女のひとで、ときには遊女のような役割も担っていたことぐらいは知っていましたので、おどろきました。以前、京都だったか、どこかのお寺で、遊女のお墓をお参りしたことがありますが、なかなかそういうお寺はありません。
早速訪ねてみました。浄土真宗の永勝寺というお寺で山門をくぐると、すぐのところにその墓所はありました。たくさんの、小さな石のお墓が、四角い場所を囲むように建っています。数えてみると39基もありました。端が欠けている墓石もありましたが、大部分はしっかりしていました。
表面に法名の、釈・・が、側面には俗名が彫られていました。カタカナでかかれているものや、与八娘と名前のないものもありました。また、当時の地名はよく分かりませんが、遠州、伊豆といった文字が見られましたので、神奈川だけではなく近県からも来ていたことが分かります。亡くなられた日付も記されています。宝暦、安永、明和、享和等の江戸時代の年号がみられます。1700年代後半です。
案内板によりますと、当時藤沢宿には49軒の旅籠屋があり、そのうち、27軒が飯盛女をかかえていたそうです。その飯盛旅籠のひとつを営んでいた小松屋源蔵という人が、このお墓をつくりました。当時の、この種の女のひとのほとんどは、両親の借金のかたに、あるいは口減らしのために、売られてきていたのです。無念にも、悲しい一生を終えていった女性たちに、小松屋源蔵があわれに思い、宿場町に近いこのお寺に、次の世では幸せに生きてね、とりっぱな墓所をつくりました。
墓所の真ん中に立ち、手を合わせお参りしました。ふと前をみると、一段高いところにある、大きな墓石が目に入りました。小松屋源蔵のお墓でした。ここで見守っていたのです。そこにもお参りし、帰ろうとしましら、ボトッと音が聞こえました。また、ボトッと。何だと思って、よくみると、熟したギンナンが落ちていました。その音だったのです。顔を上げると、向こう側に太い幹の大イチョウがそびえていました。今まで気づきませんでした。
この大イチョウは、その幹の太さから判断して、きっとこの墓所が出来るときに植えられたのではないかと思います。そして、現在まで、250年近く、もう絶対に不幸せにさせないぞ、と弁慶のように仁王立ちして、彼女達を守ってきたのでしょう。