風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

63回ピースボート・地球一周の船旅29・オークランド/ニュージーランド島・後編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船29
オークランド/ニュージーランド島・後編
[12/25~12/29]


フォックス氷河
南島の原生林

12/27
翡翠街道を通ってウエスト・コーストへ向かう。



原生林の中を延々と走る。
苔むしたブナ林や巨大なシダが密生する様は人跡未踏の密林である。
おそらくイギリス人はこの原生林を伐採し、開拓して牧草地にしたのだろう。
どこまでも同じ風景なのだが私にはこの旅の中で一番のんびりと開放された気分で心地よかった。

ハット自然公園[きれいな無料トイレがあった]


ハースト峠は激しい雨のため、バスを下車しないで通過、しばらく行くと
“knight's point”と言う絶景ポイントとその前の道路の苔とシダ


途中、マスを養殖しているレストランで昼食を取り、いよいよ氷河へ。

フォックス氷河[雨が降っている]

フォックス氷河は眼前とは言えない距離でその迫力は直接伝わってこなかったが、
氷河が削ったであろう岩肌を見るとその力を感じた。


フランツジョセフ氷河

実は、この川の手前に進入禁止のロープがあるのだが、外人は無視して騒いでいた。

シーニック・サークル・フランツジョセフ・グレーシャーホテル宿泊

12/28
陸路、グレイマウス市へ[3時間30分]

マポウッカ湖とその前の道路・シダの群生


ホリキチカ市のホリキチカ川河口とその海岸
激しい偏西風で樹木は陸側に曲がり、海岸には流木が流れ着く。


グレイマウス市内

お店の看板と公共トイレ


トランツ・アルパイン山岳列車鉄道[グレイマウス~クライストチャーチ、4時間30分]
1日1往復、30分遅れで出発、おそらく15以上の連結車両だろう、かなりの乗客数である。
グレイマウス駅


アーサーズ駅[アーサーズ峠=標高737m]、数分間停車する、構内のトイレ


その車窓風景・壁のない展望車両がある

車窓からの風景は特別の美観でとはいえ無いが、窓のない展望車両は風を感じ、楽しい。

村人一人の村

クライストチャーチについたのは夕方7時前であった。

ホリディ・イン・シティ・センター・クライストチャーチ宿泊

12/29
クライストチャーチ空港、朝7時発の飛行機であった。
朝食も取らずに真っ暗な4:45にホテルを出発、飛行機内食であった。
約2時間のフライトなのだが一時間の時差のためオーストラリアのシドニーに着いたのは8時であった。

午前中、シドニー市内をバスで観光し、午後、モナリザ号に合流した。
船に荷物を置いて、シドニー市内を一人でぶらついた。
シドニー観光は次にゆずる。

ニュージーランドはこれまで寄った国・寄港地とは全く風景・たたずまいが異なっていた。
一番の印象は、街、道路が本当にきれいで、ゴミ一つ落ちていない、クリーンさであった。
それ以上に驚いたのは公衆トイレの完備と清潔さであった。
どんな小さい街でも、きれいな公共トイレが町中にあった。
鉄道の駅にもきれいなトイレがあった。

ニュージーランドの国土の広さは日本の4分の3ほど、人口は横浜市・静岡県と同じ位。
今回は南島だけであった。平地・牧草地を何時間も走っても、車・人・家にほとんど巡り会わなかった。
牧草地は家畜がたくさんとのイメージであったが、家畜にもめったに会わなかった。
また、家畜がいても密集という感じではなかった。

着いた日がクリスマスで、ほとんどの店が閉まっていた。
日本では真冬だが、クリスマス・新年の夏休みで、気候はとても穏やかだった。
不思議なことは、白夜ならぬ日の入りがとても遅く、夜8時9時まで明るい。
日の出が遅いと言うことではない緯度は日本とほとんど同じ。
どうも、地球の地軸が傾いているためではないかと思う。

このツアーはほとんど移動に時間が取られたが、不満ではなかった。
特に、ブナなどの原生林の中や牧草地を中を何時間も走るのは楽しかった。
ただ、市民と話す機会がなかったのは残念であった。
バスの運転手はマオリの人であった。
ツアー中、これは珍しいことだが一緒のテーブルで食事をとった。
他の人は英語が話せないのかは知らないが、誰も彼に話しかけず、話したのは私だけだった。
日本食・日本文化が大好きで、ニュージランドでは和食はヘルシーで人気だという。
ほんの少しでも英語が出来るというのはやはり良いことである。
我々が鉄道で移動した日、彼は一人でバスを運転して来て我々に合流したのだが
電車が遅れたため、勤務時間を超えてしまったのだが、サービスしてくれたり、
また、最後の日は、早朝出発のため休憩時間が足りないので連日勤務は出来ないと違う運転手が来た。

イギリスの影響で車は左側通行のため違和感が無く、ほとんどが日本車であった。
特におもしろかったのは、橋である。
二車線作るとお金がかかるという理由で、車一車線の幅しかないのである。
橋の手前に信号はない、優先順位の標識があるだけだ。
見通しがよいし、車の数が少ないので、これで十分なのだという。不思議な光景だった。
高速道路ではなく、一般道路なのに制限速度が80~100km、にも驚いた。

63回ピースボート・地球一周の船旅30・シドニー/オーストラリア編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅30
シドニー/オーストラリア編
[12/29,30]



12/29
8時にシドニー港に船が着岸した。
私は、ニュージーランドからのオーバーランドから飛行機で同時刻頃シドニーに到着していた。
そのオーバーランドツアーでは、この日の午前中シドニー市内観光が入っていた。
最初に、ミセスマックォーリーズ岬に行った。
ここからは、オペラ・ハウスやハーバーブリッジなどが一望できる。

ミセスマックォーリーズチェア

シドニー湾に浮かぶフォートデニスン[石の要塞]

ゴミの分別収集箱

本日は12月29日、大晦日は新年カウントダウンが行われのでトイレ・ゴミ箱・介護所などが準備されていた。

サーキュラーキーのビル群

公衆トイレ

オペラハウスを見る

オペラハウス内のトイレの手洗い[自由に入れる]

オペラハウス前からハーバーブリッジ

ハーバーブリッジの上には人影が、橋の上は歩ける・100豪ドルという


昔囚人が開いた町・ロックスにバスで向かう、その途中に公共トイレが

ロックスにある中華街のシンボル[マーチャントゴッド]=富を呼ぶお守りの木で金箔が。

この近くの中華のレストランで飲茶の昼食

マーチャントシティ[建物は古いが中はショッピング街]


ハイドパークからセント・メアリーズ大聖堂を見る

ハイドパークからシドニータワーを見る


女性向けだけのデパート[デビッド・ジョーンズ]


クィーンビクトリービル


セントアンドリュース大聖堂


等を見て、ダーリング・ハーバーに停留しているモナリザ号に合流。荷物を置いて、私はシドニー市内の散歩に出た。
ダーリング・ハーバーにあるシドニーワイルドライフワールド[室内動物園]

に行ったのだが、チケットを買う人の列が100m以上なので入場を諦めた。隣のシドニー水族館も同様で諦めた。
そのすぐ前のモノレールの駅から一周15分ほどのモノレールに乗った。シドニーの中心・シティセンター駅で降りて、
ハイドパークに行った。路上チェスをしていた。


シドニー州議事堂


シドニー病院[確か]


セントメリーズ大聖堂


オーストラリア博物館
入り口


ハイドパークにあるアンザック戦没者記念塔[工事中]

ハイドパーク内で、騎馬警官[皆女性]が休憩していた。


夕方になったので歩いて船に戻った。だが、夜8時頃まで明るいのである。

12/30
朝9時頃船を出てタクシーでザ・ロックス[=ハーバーブリッジの入り口にある、古い町]に。

このトンネルは、かつてオーストラリアが囚人の流刑地だった頃、囚人よって掘られたという。
ロックスデスカバリー博物館[入らなかった]


シドニー近代美術博物館[入らなかった]


シドニー近代美術博物館前からのオペラハウス

今日は、オペラハウスに入った[入場料は20豪ドルだったと思う]、日本語ガイド付き

劇場の建物とオペラハウスの本体=屋根とはつながっていない構造である。

夜景が反射しないように外壁のガラスが斜めになっている。カウントダウンの時は花火が上がってきれいだそうだ。

オペラ劇場の内部。座席に座り一回拍手させてくれる、反響がすごい。


ミュウジアムオブ・シドニー


ハイドパーク・バラックス博物館


セントメリーズ大聖堂再訪/パイプオルガン・ステンドグラス


この後ハイドパークや市の繁華街を散歩した。
昨日の午前中のツアーのバスでたくさんの日本食レストランを見たので入ろうとしたのだが、
いざ入ろうとすると見つからないもので、仕方なく“ザ・グレースホテル”のレストランに入った。
お金は十分あると思ってワインなどを飲んだのが失敗であった。支払いの段になって驚いた。
お金は財布の中にお金が多く残っていなかったのだ。足りたが、残ったのは数豪ドルだけだった。
昨日の午前中のツアーで米ドルは使えないと言われたので、手数料が無料だった日本人土産物店で5000円を豪ドルに両替した。
オペラハウスで入場料を支払ったことを忘れ、豪ドルの金銭感覚がいまいちであったのだ。
シドニーの出港は17時、帰船リミットは16時だった。
私はオーバーランドツアーに行っていたので、別途出入国審査が必要で14時までに帰船しなければならなかった。
審査はすぐすんだ。まだ時間があるし、暑いのでビールを飲もうと外出した。
どの店も米ドルではだめだ言われ、諦めかけた時、
GETのジョー先生が目に入った。豪ドルの両替が出来るかと聞くと、OKと言う。
冷たいビールを2杯飲み、残った豪ドルでハウスキーパーへのお土産の菓子を買って船に帰った。

シドニー1日目午前はツアーで市内観光をし、午後は一人でもう一度ゆっくり見て回り、
2日目は、入れなかったオペラハウスやセントメリーズ大聖堂の中を見学したりと、
のんびりした反面、勘定の支払いや豪ドルが無く慌て、ドタバタもした。

ニュージーランド・オーストラリアのオセアニア2国は、他の国と違っている点があった。
動植物・食物などの国内への搬入を厳しく制限しているのである。
原則として飴やお菓子などの持ち込みも一切禁止されている。
オーストラリアの空港では犬が乗客の荷物一つ一つを何度もチェックしていた。
その犬はテレビで見る麻薬犬のように大きくなく、ミニチュア犬であった。
私には麻薬検査ではなく、どうも食物検査のような気がした。
両国は、牧畜・農業国であり、また周りを海で囲まれている。
自分たちの生態系を守るために、動植物の外来種や病害虫・菌の流入をとても警戒しているのだと思った。

また、広大な国土に比べると人口が少なく、移民を奨励している。
街を歩いていると、いろいろなたくさんの人種に出会う。
話される英語はピジン語のように独自に変化してAussie Englishとも呼ばれる。
町中には広大できれいな緑の公園が作られている。
きれいな公共トイレが多く設置され、またゴミ収集箱もカラフルであった。
オーストラリアでは道なかにキオスクと見間違うようなトイレがあってびっくりした。
イギリスの影響で車は左側通行、無意識のうちに道の右側を歩く私には安心感があった。

年末・新年についても書きたかったが、容量を超えているので別項とした。

63回ピースボート・地球一周の船旅/年末・新年番外編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅 
年末・新年番外編


大晦日
夜11時頃から新年カウントダウンが8Fデッキであった。夜を徹して踊った人もいたらしい。
私はいつもより多めのお酒を飲んだが、遅くならずにキャビンに戻った。
翌朝、初日の出直前に目が覚めた。

アクシデントで出港が二日ほど遅れれば、シドニーでカウントダウンが出来るね、
と、船内でもっぱら言われていたのだが、そううまい具合にアクシデントは起きない。

新 年
朝食は特別なおせち料理ではなかった。
10時頃から餅つきが行われ、振る舞われた。

私は磯辺巻きが食べたかったのだが、甘いものだけだった。
鏡開きが行われ、お酒が振る舞われた。普段日本酒は飲まない私だが、何杯か飲んだ。
日射しは強く、暑かった。
夕飯は、お刺身であった。

1月2日、GETのスピーチコンテストがあった。私も出場した。
I'd like to tell you about three happy enennts during this voyage.
In Izmir, I got lost. Two young men helped me.
The younger boy said to me "Money!"
Then the elder men stopped him.
In Valletta, I got lost again while ona a tour.
The security guard at the museum helped me look for my tourgroup with me.
I thought sometimes mistakes gave me nice meetings, happiness.
Next, the Guiana highland tour was too expensive.
We saw the beautiful Angel Falls and walked behind the Sapo Falls as we were wet.
At midnight we had no lights, so we used candle lights.
I thought money bought me happiness.
Finaly, in Cusco, I met a few deaf people.
I can't speak the Peruvian sign language and Spanish.
I darlingly spoke to them in Japanese sign language.
I understood only "Friends" and "Thank you." and that they were collecting
signature for deaf children education refoms.
I thought a little courage brought me nice meeting, happiness.
Well, I wonder what will make me happy next.
What should I do? Thank you.

一人の持ち時間は2分間である。 私としてはかなりの自信作である。
むずかしい単語は一切使わず、《I thought money bought me happiness.》の文でまとめた。
詩のように、韻を使いたかったがそれは出来なかった。 何の賞にも関係がなかった。

1月9日、GETの卒業式があった。


その夜、FAREWELL PARTYがあり、シャンパンが振る舞われた。
FAREWELL DINNERの後、仮面を付けてのGET卒業パーティーがあった。


翌日、GET卒業通知票についての質問コーナーが、Joのクラスで行われた。
出席したのは、私一人だったので、Joさんと一時間のんびりいろんな話しをした。

この他、クルーズでは、船上運動会、盆踊り、ハローウィン、クリスマス、折り鶴プロジェクト発表会などの
いろいろな行事があった。

63回ピースボート・地球一周の船旅31・ラバウル/パプアニューギニア編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅31
ラバウル/パプアニューギニア編
[2009/1/4]




ラバウル港着岸は8時であった。
甲板に出て島を見ると、山の頂上が灰色で、私はすごい雲だなと思った。
甲板は真っ白で、周りの人に聞くと、それは実は、火山の噴煙であった。

私は『旧日本軍戦跡を巡る』ツアーに参加した。
バージトンネル[大型発動機船を隠した洞窟]

大型発動機船と言うが小さなボートだった。今にも朽ち倒れそうであった。

子ども達と島の人たちは物珍しそうに我々を見ていた。


ココポ戦争博物館

二人乗りくらいの小さな戦車であった。

ココナツがなっていた。                雨水をためるタンク。

資料館の内部・二棟あった。麻雀のパイが陳列されていておもしろかった。

敷地内に第二次世界大戦当時の高射砲、戦車、魚雷、戦闘機などが野ざらしまま展示されてた。
いずれも驚くほど小さく、建物の内部には日本軍の生活用具なども展示されていた。

昼食は、この戦争博物館に隣接するゴルフ場のクラブハウス内のレストランだった。
肉や芋、バナナなどを蒸し焼きにしたもので、バナナとスイートポテトがおいしかった。
ビールがキンキンに冷えていておいしかった。
その場でココナツ椰子に穴を開けてくれ、汁を飲んだが、量が多過ぎ飲みきれなかった。
味は淡泊で、甘さは薄く、私には美味とはいえなかった。
現地の人は、30度を超える暑さの中ゴルフをしていた。

日本政府とラバウル政府とが共同で作った旧日本軍記念碑・南太平洋戦没者の碑は、
ラバウル港を見下ろす高台にあった。

ここから、ラバウル港が一望できた。

周囲は黒い火山灰が厚く覆い、人が生活できる場ではもはやない。

山本五十六博物館、右は山本長官が寝起きしたことのある地下室、という。

こんな狭い地下が、長官が隠れたところなのって感じ、狭く水浸しであった。
この周辺は火山灰が4mほど積もっているという。

車の轍の辺りは昔、日本軍の滑走路だったという。

旧日本軍爆撃機とゼロ戦闘機の残骸が半分灰に埋まって残っている。

旧滑走路の左側の山肌はすっかり枯れ果てていた。


ここから、港は歩いて20分ほど、治安は良いというので、ツアーを離脱して歩いて帰ることにした。
中国人と思われる人の経営するスーパーマーケット、商品はいずれも灰まみれであった。


メインストリート、昼下がりだが、ほとんど人の姿が見えない。


週何回か開かれる市場、この日は日曜で開いていない。


夕暮れではあったがまだまだ暑い。
人々は木陰に座って、涼を取り、私に会うと“ハロー”と呼びかけ、握手する人もいた。
私が See You と声をかけると、にこっとして See You と返って来た。
時々、ありがとう、さよならと日本語が返って来た。
日本人観光客が来るのであろうか。
1994年タヴァルヴァル山を初めとする三つの火山が噴火した。
ラバウルの町は、1937年の噴火に続き、壊滅的なダメージを受けたという。
官庁や商店などの多くがココポに移転した。
今日徐々に復興が進んでいるという。
ラバウル港敷地を出るとそこはすぐ町の中心であった。
道路は広いのだが、人影はまばらであった。
日曜日で店は休みであった。そもそも店の数も多くは無かった。
道路は火山灰が覆い、車が走ると土埃がすごかった。
車にはクーラーが付いていないので、埃を避けるため窓を閉めるとすごい暑さだった。
日曜、多くの人が教会に行くという。
ラバウルはものすごい高温多湿で、汗がじっとしていても流れでてくる。
私はわずかな時間で疲れてしまった。
島には大型バスはなく、ミニバスで移動した。
人々はとても親しげで、私たちのミニバスに出会うと必ず手を振ってくれた。

バナナ、ココナツ、マンゴーなどは自生しているのだろうか。道路脇にたくさん見かける。
ラバウルは太平洋戦争の末期、激しい戦闘にはならなかった。
9万の兵士がいて、戦闘になると連合国軍の被害が大きすぎると判断し、
連合国軍は最後まで先頭を仕掛けなかった、という。
ラバウル島には9万余の日本兵がいた。日本からの補給は無かったと言われる。
日本兵は飢えることがなかったそうだ。自活出来るほど自然の恵みは豊かだったのかとうなずける。

アテネ に私のこのブログが紹介されています。

63回ピースボート・地球一周の船旅32・コロール/パラオ編そして帰国

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅32
コロール/パラオ編
 
・最後の寄港地 [1/8] 、そして帰国[1/13]



いよいよ最後の寄港地、パラオ共和国のコロール沖に着いたのは朝8時。
コロールは周囲が珊瑚礁のため、大きな船が着岸できる港・桟橋が無いため通船[テンダーボート]に乗り換えて、上陸する。

珊瑚礁の中なので、波がないため、ライフジャケットも着用しないで、大型ボートに乗り込む。
上陸地点は、パラオロイヤルリゾートの桟橋である。

出港は16:30と早く、島の滞在時間が短い上に、観光スポットも少ないので、私はツアーは取らなかった。
ホテル内のプールかビーチで泳ぐ事も出来たが、日焼けが怖いので止めて、
ホテルの木陰でのんびりして、ビールを飲んで食事して帰ることにした。
前菜は、刺身風カルパッチョでとてもおいしかった。
ホテルの池は熱帯魚が泳いでいた。


船に帰ってしばらくして、午後16時をちょっと過ぎた頃だろうか、船員がドラを鳴らして出港を告げた。

16:30、最後の出港、シャンペンが振る舞われた。


最後の寄港地の出立は、こうして実にあっけなく終わった。
後は一路北進・帰国である。

船は海上のブイの間を進む。浅い珊瑚礁に乗り上げたら座礁である。ブイの中は安全というわけだ。右の写真は座礁した船か。


珊瑚礁の特に浅い所は、波が出来、海の色が周りと変わっている。  右の写真は珊瑚礁の中で漁をする船


船は珊瑚礁を抜け、しばらくして夕焼けに包まれた。
 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そして帰国 [1/13]
――――――――――



1月9日にGETの卒業式があった後は、大きな行事も無く、船内はもっぱら帰国モードであった。
だが、私は荷物が少ないので、パッキングはのんびり構えていた。
日本に近づいた1月10日頃から海が荒れてきた。冬の近海はいつもそうらしい。
雨が降り、大波のため甲板への出入りは禁じられた。
私は、吐くまでには至らなかったがだいぶ船酔いして、気分が悪くなった。
横になって、音楽を聴いたりして過ごした。
下を向くと気持ち悪くるので荷物の整理は12日になってした。
出国したときは段ボール3つだったが、食べ物やお酒やシャンプーなど消耗品がが無くなり、
サンダルなど壊れたものを捨てると段ボールは2つになった。
パソコンなどはリュックで自分で持ち帰り、段ボールは1個2400円の宅配便で送る。
東京湾に入ったのは1月13日早朝であった。

東京湾は、想像していたよりは暖かで、まぶしかった。

10時頃から出国手続き・下船が始まった。上の階7Fから順に始まり、5Fの私は昼過ぎであった。
キャビンから船外までは職員が荷物の搬出を手伝ってくれるが、
そこから先、税関ターミナルまでは台車を押して自分で運ばなければならない。
私の前にいた夫婦は荷物が10個もあって台車を押すのに苦労していた。
私は2個で簡単、税関検査は外観を見るだけで中は調べることなく終わりだった。
そのまま宅配業者の受付まで運び、船内で代金と引き替えだった宅配便伝票を業者に渡すと、
それまでは税関検査が出来るように仮止めだった段ボールを業者がガムテープで止めてくれて終了。
下船して10分も立たないで全ての手続きが終わった。

そこは、出迎えの人で大変混んでいた。
だが、出国の時もそうだったが、帰国の時も私の出迎えはないので簡単だった。
ターミナルをすたすたと出て、タクシーに乗って、有楽町まで行った。
タクシー運転手は珍しいのか、クルーズについていろいろ聞いてきた。
船を降りる前は、有楽町でラーメンを食べようと思っていたが、すぐJRの電車に乗って家路に向かった。
見慣れた有楽町の風景であったが、特別の感慨も浮かばなかった。
東京は、思っていた以上に暖かで、セーターは着ないでジャンパーだけだった。
電車の中の日本人はなぜか元気が無く皆疲れ切っているように見えた。

家に帰ってすぐには、それまで使っていなかった携帯電話の充電方法・使い方、
パソコンの使い方もわからなかった。
しばらくしてやっと、妻に帰宅のメールを携帯で送った。
夕飯の準備を始めたが、台所の使い勝手がわからず苦労した。
久し振りの日本であったが、特別の感慨は無かった。
こうして長い海外旅行は終わった。
この日、家族が皆早く帰宅した。
ほんの少しだがお土産を各自に買っては来た。皆喜んでくれた。

【感  想】  本来なら、この【感  想】は、この旅行最後のブログ
『ピースボート・地球一周の船旅 /蛇足それとも画竜点睛』 に譲るべきなのだが、
そちらが容量オーバーとなってしまったのでこちらに書いた。
『ピースボート・地球一周の船旅 /蛇足それとも画竜点睛』はこちらをクリック。

旅に出る前、図書館で『地球の歩き方』などで調べ、必要なところはコピーしたのだが、
調査・研究は不十分だった。ネットなどでもっと調べておいた方がよかった。
また『地球の歩き方』の地図は、役には立ったが、不正確でわかりづらかった。
世界地図帳は持って行ったのだが、詳しく無かった。
ピースボート・ジャパングレースは、地図、現地情報、電話のかけ方[公衆電話の初期料金等]等の
必要かつ役に立つ具体的情報提供にはとても不十分であった。
インターネットでのリアルタイム情報収集がつくづく必要だと痛感しイライラした。

写真はたくさん撮ったが、それでもいざブログを作成する段になると足りない写真もたくさんあり、
また撮った写真もその記憶は曖昧でどこで撮ったのかわからなくなったものもあった。
また、個人の顔が映っていて公表できないものもたくさんあった。
現地の人の生き生きした表情を撮りたかったのだが肖像権のためそれは撮らなかった。
ブログ作成の事がふと浮かぶと、このシーンも撮った方が良いのではと、視点が豊かになったとも思う。
博物館の入場料や飛行機のチケット等もとっておいたのだが煩雑過ぎるので途中から捨てた。

クルーズ中、ネット・メール・新聞・携帯・TVは無かったのだが、生活は十分に出来た。
だが、それらの有用性・価値も実によくわかった。
特にネットの検索機能=百科事典としての有用性・重要さは痛感した。
私は近所にも友人にもこの旅に出ると言わずに出立した。
12月18日には帰国予定だったので年賀状のことなどは想像もしなかった。
義理を欠いたので、帰国してすぐに寒中見舞いを出した。

旅行中、世界では100年に一度と言われる経済危機・大恐慌が起きていた。
国内にいたら、何の方策も取れないのに、大変だ、大変だと右往左往していたかもしれない。
だが、船上にいた私は慌てても、心配しても仕方ないと、知らぬ半兵衛であった。
船の中で、『超訳“資本論”』を読み、久し振りにマルクスの言葉に触れると、
古くなっていないマルクスとマルクスが古くなった社会の中で漂っている私がいるんだな~と思った。         おわり


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以下、全く個人的メモ 超訳『資本論』・的場昭弘・伝社新書/ イラクは食べる-革命と日常の風景・酒井啓子・岩波新書/ルポ貧困大国アメリカ・堤未果・岩波新書/金融権力(グローバル経済とリスク・ビジネス)・本山美彦・岩波新書/いま哲学とはないか・岩田靖夫・岩波新書/親鸞を読む・山折哲雄・岩波新書/ふつうがえらい・佐野洋子・新潮文庫/役に立たない日々・佐野洋子・朝日新聞出版/格差社会を撃つ・白川真澄・インパクト出版会/抵抗する自由・鎌田慧・七つ森書館/格差社会から公正と連帯へ・白川真澄・工人社/マンガ禅の思想・蔡志忠作画・講談社/手にとるように宗教がわかる本・島田裕巳・かんき出版/仏教聖典・仏教伝道会/古典落語100席・立川志の輔/ジャパン FAQ[文化編]・ディビッド・セイン・IBCパブリッシング/ジャパンFAQ[社会編]・ディビッド・セイン・IBCパブリッシング/英語にもっと強くなる本・晴山陽一・青春新書/中学英文法・くもん出版/入門英会話・英文法・石津奈々・ベレ出版/刑法おもしろ事典・和久俊三・中公文庫/桂枝雀爆笑コレクション(5) ・ちくま文庫/小泉官邸秘録・飯島勲・日本経済新聞社/大杉栄/自由への疾走・鎌田慧・岩波書店/寝床で読む『論語』・山田史生・ちくま新書/時代を刻む精神・鎌田慧・岩波書店/静かな大地-松浦武四郎とアイヌ民族・花崎皋平・岩波同時代ライブラリー/歴史の零(こぼ)れもの・日本ペンクラブ編・光文社/体は全部知っている・吉本バナナ・文藝春秋/松風の人-吉田松陰とその門下・津本陽・潮出版/現在(いま)生きる(川田龍平・悦子の親子対談)・新日本出版/米百俵(小林虎三郎の生涯)・山本有三・長岡市/続・戦後日本共産党私記・安藤仁兵衛・現代の理論社/屈せざる者たち・辺見庸・角川文庫/三角砂糖(ショートショート)・吉野淳之介他・講談社/哀愁のパルティータ・五木寛之・集英社文庫/島へゆく・灰谷健二郎・理論社 /希人(まれびと)よ・共同通信社/夜と女と毛沢東・吉本明、辺見庸・光文社/昭和史発掘(4)/小林多喜二の死・松本清張・文春文庫/いま哲学とは何か・岩谷靖夫・岩波新書/怒りの臨海・鎌田慧・岩波書店/同時代の人びと・安東・揺藍社/旅に出たくなる地図 世界・帝国書院

63回ピースボート・地球一周の船旅・最終回/蛇足・画竜点睛

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の旅/最終回
蛇足画竜点睛

『63回ピースボート・地球一周の船旅』のブログも長くなってしまった。書き忘れたことなどを、最後に書く。

船内生活アラカルト
船内生活については『閑話休題』で少し触れたが、忘れたことを補足する。
船  室
は狭く、約幅2.5m、縦5~6m、そこに小机・ソファー・クロゼーット、ベッドが1か2、または2段で3~4入り、
別に洗面台・トイレ・シャワーかバスである。[写真も撮り、メジャーで測ったのだが記録は紛失してしまった]
「値段は高くても絶対一人部屋にしなければだめよ」と妻が言ってくれたので窓なし一人部屋にしたが、
こんな狭い空間に他人と3ヶ月も生活するなんてまるで刑務所生活みたいである。
夫婦でも息苦しかったのではないかと私は想像する。
ルームメートとあわずに、クルーズ途中でお金を払って一人部屋に移った人もいた。
オーバーランドツアーでの一人部屋はかなり高くなるのだが、私は一人部屋をオプションした。
ただ、食事したレストランの名前やその内容は写真に撮らなかったしメモもしなかった。
甲板ラジオ体操やダンスや卓球など集団でやるものには行かなかった。
その代わり30分ほどのストレッチや、30~1時間の甲板歩きをした。ジムは利用しなかった。
船内映画は、DVDのプロジェクタ上映なので、映像はきれいで無いし画面も小さい。
キャビン内TVは天井近くに備え付けられているので、長く見るには疲れてしまう。

衣  服
オーバーランドツアーは4~5日なのでその備えを考えて、ジャケット1、薄い上着2、ジャージズボン2[普段着]、
半ズボンジャージ2、Yシャツ4、半袖ポロシャツ2、Tシャツ10位、パンツ10位、ベスト1、セーター1、
冬用ジャンパー1[帰り用]、ステテコ2[寝間着用]、ズボン1、チノパン2、靴下7、上下トレーナー1程度であった。
帽子は日除け帽子とハンチング、上等な雨具。
トレーナーは不要でその代わり薄いウインドブレーカーがほしかった。
日除け対策・冷房対策として上着かYシャツは必需品である。
使い慣れた革製のウォーキングシューズ2、サンダル2を持って行った。
3ヶ月を過ぎた頃サンダルの一つが壊れ、シューズもほころびてきた。
ホテル用に携帯スリッパも必要だ。
洗濯は、5~6日毎にランドリーサービスを利用した。2日後に戻ってくる。
ランドリーサービスだがYシャツの襟・袖口は自分でアイロンをかける必要がある。
何度も利用したが、靴下が一つ無くなった・他の人のTシャツ1が一度紛れ込んできただけであった。
一度失敗したことがある。申込書の数と実際に出した数が違っていたため、洗濯されずに戻って来たのだ。
オーバーランドツアーの時は速乾性の下着を使用しホテルで洗濯した。
タオル・バスタオル・バスマットは備え付けられ、毎日洗濯してくれる。
シーツ類は5日毎に交換してくれる。
ティッシュペーパーは支給された。

食  事
船内の食事はとても栄養バランスがよく私はとても気に入った。
特に生野菜と果物は毎日あった。
納豆・冷や奴、梅干し、漬け物、ひじき、おからなどもあった。
焼き魚だけは出なかった。
飲む食酢は売店にもなかった。
紅茶、インスタントコーヒー・味噌汁等は持って行ったのだが、
もらってきたポットの湯はすぐ冷めてしまうのでほとんど飲まなかった。
粉の緑茶は冷水でも溶けるのでとても良かった。船外に出るときは作って持って行った。
個人が飲むお酒を、船外からキャビン内に持ち込むのは原則禁止されている。
モナリザ号に移ってからは、食事の時一杯250円のグラスワインを1,2杯飲むようになった。
バーや居酒屋で飲むことは少なかった。
船内食堂に入るとき、Tシャツ・サンダルで良いのはとても良かった。
食堂には、相席にはなるが、一人で行った。

必 需 品
水着は持って行ったが一度も泳がなかった。
水着はプール・海で泳ぐのが好きな人は必携である。
サンダルはビーチサンダルとかかとを固定できるタイプとの二つあった方がよい。
水で濡らし気化熱で体温を下げるネッカチーフは暑さ対策に有効であった。
耳かき、爪切り、マスク、万歩計、リップクリーム、センスは持って行った。
万歩計は紛失し、100円扇子はすぐ壊れ、リップクリームは足りなくなった。
爪切りは必需品だが、飛行機に乗るときは注意が必要だ。
はさみは持って行くのを忘れたので船内売店で600円で買った。
体温計は持って行かなかった、携帯血圧計は持って行ったが使わなかった。
高山病の時どうだったかは興味があるが。
 整腸剤、止瀉薬、抗生物質、解熱剤、化膿止め塗り薬、目薬等の薬は娘が準備してくれたが、
使ったのは止瀉薬と整腸剤だけであった。
だが、荷物にならないので万一の時に備えて必要。
酔い止めの薬は船で無料でもらえた。
デジカメの電池、国内にいるときパソコンからの充電式は使い勝手が悪かったので2代目のカメラは電池式にした。
100円電池はすぐ無くなるが国内では問題ないが、海外では困ると思って充電式電池にした。
充電式電池の値段はとても高いがこれは大成功だった。
キャビンのコンセントは100~110ボルトとわかっていたので変圧器は持って行かなかったが、
接続口が一つしかなかったので多ソケット付き延長コードが必要であった。
髭剃りは、安全カミソリと充電式髭剃りを持って行った。
新しく買い求めた安い充電式髭剃りの調子がすこぶる良かった。
ホテルでは電圧が異なるので船内で充電して持って行く必要がある。
ドライヤーは備え付けられていた。

現金について
私は、土産はほとんど買わなかった。船内はカード決済なので現金は必要ない。
現金が必要なのは、船を下りた時、自由行動をする時は絶対に必要である。
私は、570米ドル[64000円]、200ユーロ[33000円]、日本円で3万円の現金を持って行った。
使った現金はおおよそ、450米ドル、200ユーロ、0.5万円であった。
カードで使った船内生活費は3万円位ではないかと思う。
予想外の滞留で現金使用の機会が増えた時はかなり深刻で、けちけち生活であった。
水は船内から持って行くが、足りなくなったら水は買わなければならないし、ビールを飲むには現金が必要である。
水・ビールの値段は不思議なことに世界中ほぼ同じで、3~5米ドルであった。
ニュージランド・オーストラリアの他に米ドルを使えず現地通貨しか使えない所は2~3カ所あった。
ユーロ圏以外ではほとんど米ドルが使えた。だが、米ドルは使えてもお釣りは現地通貨となる。
高額紙幣の場合、レートの問題とおつりの金額が正確かという問題がある。
米ドル支払いでは値段の端数が切り上がる、例えば5.2ドルの場合だと6ドルのように。
少し位ならば高くても良いなら、少額紙幣の米ドルで釣りが無いように支払えばよい。
小額紙幣とは1,2,5ドルである。20,50,100ドル札はまず使い道がない。
ほとんどのホテル、レストランではチップは必要ないが、必要なところもある。
また、トイレチップが必要なところもあって、1ドルのような小額紙幣は絶対に必要である。
5ドル位の買い物にカードというわけにはいかない。
現金ほとんど使わなかったので金銭出納簿はつけなかった。

高度情報社会の中の超スローアナログ
国際携帯電話は持参しなかったが、今回のようなアクシデントの時は必要かもしれない。
インターネットは使うつもりで、中古のB5モバイルパソコンを買って持って行ったが、
電波事情が悪く、料金が高いので、2回ほどで使うのを止めた。
しかし、デジカメ処理と音楽を聴くにはパソコンは絶対必要であった。
だが、英語自動翻訳ソフトを入れ忘れたのは失敗であった。
電話・ファクス・手紙等での相互の連絡は必要ないと言って家を出た。すぐ帰れないのだから。
アクシデントがあったので手紙を書こうと思ったがレターセットは持ってこなかった。
船内からの葉書は150円、手紙は300円かかる。寄港地で切手を買える場合は現地で出した方が安い。
しかし寄港地によってはいつ日本に着くかの目安がたちにくい寄港地もあるようだ。
私は一度も電話はかけなかったのでよくわからないが、国際電話は船内は衛星回線のためか事情が悪く
かかりにくいし、値段も高い。寄港地でかけるのが良いらしいが、時差の問題があったり、システムが
違ったりするのでこれも結構大変だったらしい。
ともあれ、情報時代の現代というのに通信事情ははなはだ悪い。

船内新聞
船内では毎日、船内新聞が発行された。
A3の裏表で、表は記事、裏はブッカーといってその日の船内企画やスケジュールが記されている。
船内生活にはこの新聞は必需品である。
掛け値なしに、この二人の責任者の仕事は立派で素晴らしかった。毎日発行するのは簡単なことではない。

英語学習
GET[Global English Training]の英語・スペイン語教室はとても良かった。
一回100分で計35回12万円、お金がかかってももっと回数が多い方が良かった。私は初心者クラスであった。
私の先生はイギリス人で、その発音はほれぼれするほど美しかった。
アメリカ英語の巻き舌“r”の発音がないのが何より良かった。
また、canは米語ではキャンだが、英国式はカンなのも私の耳には聞こえよい。
100分間はちょっと長いが、心地よいストレスと緊張感であった。
正規のクラスの他に無料の初級・中級・上級講習会、スピーチコンテスト、芝居やビデオ等 を作る特別プロジェクト、
GETオリンピック[英語を使ったゲーム大会]等もあった。
私は無料講習会・スピーチコンテスト・GETオリンピックに参加した。
クルーはほとんど外国人である。ハウスキーパーやウエイター・ウエイトレスも。
英語を話せる環境は多い。

特別講演
水先案内人というゲストの特別講演もあるのだが、戦争と平和を理解するには旧約聖書の知識が必要だと言って
創世記やバベルの塔などの知識を1時間も披露するのには耐えられず止めた。
生意気なようだが、他の講演も概ねオリエンテーションみたいな内容が多いのでほとんど参加しなかった。
個人が企画する集いもあったが、童謡を歌おう、太鼓をたたこう、みたいのものが多くこれもほとんど参加しなかった。
憲法九条の歌というのがあって、これを手話で表現したいと頼まれたので最初の一回だけ参加した。

ま と め
いろいろなトラブルがあったが、私としてはこの旅に満足している。
外国旅行するためのオリエンテーション・訓練として、英語学習、忙しくないのんびり旅行、という
当初の私の目的は達成できたと、思うからである。
長い旅行ではあったが疲れは感じなかった。ホームシックも感じなかった。
シンガポール・イズミール・ギリシャでは予想外の滞在となり、とても素敵な楽しい経験ができた。
これからの私の残り少ない人生についてのんびり思いを巡らすことが出来たことが一番良かった。
世界は広く多様であることがわかった。日本の市民生活の環境がとてもよいことがよくわかった。
例えばトイレ事情の良さ・街のきれいなこと・治安が安定していること・生活マナーがよいこと・日本食のおいしさと
バラエティに富んでいること・交通事情ルールがよいこと[タクシーのぼったくりがない、信号・横断歩道がある、
車が止まってくれること]、チップがないこと・物価が明朗で見てわかること、等たくさんある。
だが、これらは私が日本で長い間生活してきたからそう感じるのであって、
そのこと自体に価値があるとか、重要であるとか、優れていると言うことでは決してない。
人の生活感覚・価値観は絶対的なものではなく相対的なものだが、長い間に培われたのでとても強いのだ。
自然は雄大だし、人びとは魅力的だし、知らないことはたくさんあるし、おもしろいこともたくさんあるし、
観光・旅・旅行それらの違いの詮索・言葉遊びはどうでも良い、ともかく日本・世界に出かけよう。

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クルーズの漂流・あたかもボートピープル
63回クルーズは、アクシデントがあって一ヶ月も長くなった。
ダナン、シンガポール、クサダシ、イズミール、ピレウスで、強制的に留め置かれた。
特にイズミールでは2週間以上の長期に渡って留め置かれた。
驚く無かれ、クルーズが終了して2日後には次のクルーズに出発するのである。
キャビンの消毒・メンテナンスが二日間で出来るとは私には思えない。
イズミールで突如、非常時誘導設備等[暗くても非常口の存在場所とそれへの経路がわかる等の装置]が設置された。
それまではそれらが全くなかったのである。
キャビン内では、電気が消えてもライフジャケットの存在がわかる装置はなかった。
イズミールでは予備バッテリィーの不備が指摘され、新しいものが準備された。また、エンジン調整も行われた。
その場合、エンジンのフル運転検査が義務づけられているそうで、船はピレウスに全速で向かったが、
船は激しく左右に揺れスクリュウの軌跡も不規則だったように思う。
62回クルーズでは、船体に2.5インチの亀裂が見つかりアメリカ沿岸警備隊に約一週間にわたって止められたという。
そもそもそんな小さな亀裂の存在がどうしてわかったのであろうか。
それは表向きの理由で実際は、エンジントラブルで自力航行できず、援助を求めたのではないか。
問題は、ピースボート・ジャパングレースはこうした船のトラブル・不具合は知らなかった、
自分たちには全く責任が無いと言い張り、船の不具合などについての詳しい情報を全く公開しないこと、にある。
私は、実はピースボート・ジャパングレースは63回クルーズの出発前にクリーッパー・パシフィック号に重大な欠陥が
あることを知りながら、航海中に修理すれば何とかなると思っていたのではないかと思っている。
イズミールに長期停留されていたとき、船内放送でしきりに船会社の副社長が呼び出されていた。
おそらくそのとき、代替船や損害賠償などについての交渉が行われていたのではないかと思う。
ジャパングレースの社長がイズミールに来て謝罪し、代替船を探していると説明してからわずか一週間後に
代替えが決まったのである。
一連の不始末について、300米ドルの解決金と次回以降のクルーズの12万円の割引券、クルーズを途中で止めて
帰国する人に飛行機チケットを提供する、延びたクルーズ代は支払う必要がない、と言うものであった。
以上の経過を見て明らかなように、ピースボート・ジャパングレースは普段は平和や人権や情報公開などを主張しているのだが、
自分達に関わることや批判になると秘密主義・無責任・曖昧になって、情報公開どころではないのだ。
つまり他に対しては厳しく、自分については超甘え、である。
決められたことはマニュアル通り出来るのだが、予想外の出来事への対応能力ははなはだ希薄で、
危機意識・危機管理能力がきわめて弱いと言わざるを得ない。
今回の不手際に対して批判したり注文した人への対応は、まことにひどかった。
信じられないことに彼らに対してスパイもどきのことをした。
例えば尾行をしたり、近くの部屋に職員を配置して様子を探ったりしたのである。
和解が近づくとこうしたことがパタッと無くなった。

カードが使えない/そんな信じられないできごとが
モナリサ号に移って1ヶ月たった時、カードが使えない可能性があると船側から言われた。
11月分のカード使用料金を請求をする時、システムミスで2桁多い金額を請求した可能性があるというのである。
つまりそれでは一ヶ月の限度額を超えてしまうのでカードが使えないのである。
カード会社への電話は、個人情報に関わるので私に電話をかけて聞いてくれと言うのだ。
結局、私のカードは使用できなかった。
このあってはならないミスにより、どのような実害が生じるのか、それに対してどのような保障・手当をするのか、
等の説明は一切ない。
船上でなければ、あちこち電話したり、ネットで暴露できるが船上では為す術がない。
しばらくしてその請求は取り消されたらしいが、いつ取り消したのか等の説明も一切無かった。
日本に帰って、1月下旬にカード会社から自宅に送られた報告書で過請求・その訂正の日がわかった次第。

折り鶴プロジェクトって?
私はこれまで、今回のクルーズに被爆者102人が乗船したこと、彼らが無料で招待されたことは全く触れずに来た。
この事業・折り鶴プロジェクトと言うのだが、我々はクルーズ出発前に何の説明も報告も受けていない。
乗船して初めて知らされたのである。
だが、この計画がどのような経過で立ち上げられたのか、資金はどうなっているのか、
メンバー選考の基準は何かなどは全く説明がなかった。
にもかかわらず、このクルーズの目玉は、折り鶴プロジェクトだというのだ。
私は、それを聞いたとき、原水禁・原水協・被団協などの団体が協力して乗船者を推薦しているのだと思った。
そうではなく、インターネットと新聞での公募だったと言う。
彼らの内訳は様々であって、これまで非核・反核運動をしてきた人もいれば、全く無関係な人もいる。
被爆体験の記憶のない体内被曝の人や被爆の時幼児だった人もいて、それでも良いのかと聞いたら、
問題ないという返事だったという。
どんなに見積もっても、一人あたり100~150万円として1~1.5億円がかかっている。
そもそもこのお金はどう捻出され、会計報告はどのようにされるのだろうだろうか。
大衆的運動というのであればこうしたお金に関わることはクリーンかつ透明でなければならないと思うのだが。
問題は、自分達の運動は原水禁・原水協・被団協とは無関係なだけでなく、そうした古い運動・しがらみとも関係なく、
全く新しい運動だと、豪語することである。
これまでの原水禁運動・被爆者運動に全く問題が無かった訳ではないが、
それらの運動なしに今日の被曝者認定や手帳や医療などの諸手当はなかったことは確かである。
彼らはこれまで、自前の非核・反核運動をして来たとはとても言えないのに、これまでの非核・反核運動は、
8月だけの季節運動だったと平然と言ったり、向こう10年の間に核廃絶する、と大言壮語を言う。
この折り鶴プロジェクトも、地道な自前の運動といえる代物ではない。
私の感想は、運動を金で買っている、と言うことだ。
今回のクルーズでの運動を映像化し、今後その上映会を全国各地100カ所位[自治体・学校]で行う、と言う。
その映画がスティーブン・岡崎のドキュメント映画“ヒロシマナガサキ”[2007年アカデミードキュメント受賞作品]
より優れているとは私にはとうてい思えないし、100カ所での上映活動がそんなに簡単に出来るとも思えない。
今回のトラブルの解決金300米ドルが支払われる窓口の脇に職員が立って、折り鶴プロジェクトへのカンパの訴え
をしているのを目の当たりにしたとき、私は何て品がない事をするのだと強く拒絶感を感じた。
どうして、こんなことが平気で行えるのだろうか、と私は怒りを感じた。
折り鶴プロジェクト参加者にもこの解決金は出たのである。       おわり

第63回ピースボート・地球一周の船旅

2008年02月03日 | 63回ピースボート
第63回ピースボート・地球一周の船旅
2008年9月7日~12月18日[103日間]

いよいよ明日正午横浜港から第63回ピースボート・地球一周の船旅に出発します。
どんなところを回るのか興味がある人は、
http://www.japangrace.com/peaceboat/tour/63/index.html
にアクセスして下さい。
当初は8月28日出発の予定だったが、アクシデント[アメリカ沿岸警備隊によってニューヨークとアラスカで検査を受けた=詳細の事情は知らない]によって伸びた。
インターネットは100分間4000円ほどかかるし衛星回線のため利用環境は良くないという。
月2回位のブログを発信したいが、そんなわけで行ってみないとわからない。
そのために、中古のノートパソコンを買ったのだが。
ブログを発信するとしても、多くの写真は掲載できないだろう。

妻は、明日仕事、で見送りはない。
娘は今朝早く韓国旅行に出て、息子は来週中国旅行という。
では。