まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

高野山を歩く(中)~西国三十三所番外・お礼参り

2015年12月02日 | 西国三十三所
金剛峯寺の主殿に着く。先の記事で「本堂」と書いたが、宗教行事は先の壇上伽藍の金堂や根本大塔で行われる。ここは寺の本坊に当たる。

大小二つの玄関があるが、参詣者は端の出入口を利用する。一室があり、拝観受付と納経受付がある。まずは拝観だろうと拝観料を払って先に進む。重要な儀式が行われる大広間をのぞく。立ち入りや写真撮影はできないが、ふすまの絵は室町時代の狩野元信の筆て言われている。また本尊に弘法大師像が祀られ、開創1200年として開帳されている。外とは五色の紐で結ばれており、それを握って結縁である。

ただその端には「秀次自刃の間」というのもある。豊臣秀吉の甥・秀次だが、関白の位を譲られたものの、秀頼の誕生で次第に疎まれるようになり、最後は高野山に幽閉されて切腹させられる。あまり政治の舞台には出てこない高野山だが、そういう出来事もあった。

主殿に隣接して別殿、新別殿がある。これらは参詣者の接待や休憩用で、それぞれ弘法大師入定1100年(1934年)、1150年(1984年)に建てられた。次の50年に何ができるかはわからないが。新別殿ではお茶菓子の接待があり、僧侶のミニ法話もある。行った時は話が終わりかけだったので中身はわからなかったが、最後に一同合掌して「南無大師遍昭金剛」を唱える。

蟠龍庭という石庭がある。こちらも新別殿とともにできたもので、四国の花崗岩と京都の砂が使われている。結構広い。

再び主殿に戻り、今も使われている台所を通って元の通用口に出る。先ほど根本大塔で大日如来の朱印をいただいたが、ここが本坊ならここでもいただく。で、ここで西国三十三所の納経軸も差し出す。いろんなところで「納経軸の番外欄に高野山」と言われているが、金剛峯寺のどこというのははっきりしていない。今にして思えば奥の院がベストだったかな・・・と思う。ただこの時は、ここが本堂だし、表には西国や四国の納経軸のサンプルがぶら下がっているし、書いてもらうならここかなという思いで軸を差し出した。他にそういう人はいくらでもいるようで、係の人は別に「?」という顔をするわけでなく、「ここやね」と言って筆を進める。朱印帳には「遍昭金剛」、納経軸には「遍昭殿」と書かれた。

これで後は奥の院に向かうが、さすがに空腹である。行く前に遅い昼食とするが、この辺りは高野山の繁華街としていろんな店がある。まずは高野山の「般若湯」を土産で買い求めた後、同じ並びの食堂に入る。店自体は寿司やうどんもあれば、トンカツ定食もあるといったごく普通の観光地食堂だが、外のサンプルに「精進定食」というのがあったので。

宿坊に泊まるわけではないので、せめて昼食で精進料理を食べることにする。1840円というのは観光地価格だと思うが、当日の朝に思い立ってやって来るくらいだからどこか有名店を予約するわけでもない。この「丸万」は比較相手がいないので断言できないが、ゴマ豆腐に高野豆腐、こんにゃくに麩といったところの一通りの味付けは悪くなかった。とりあえず「らしさ」を味わうことはできた。

腹もできたところで改めて奥の院を目指す。途中の通りは「小田原通り」と呼ばれている。小田原と言えば神奈川の・・・と思う。以前に町歩きをしたことがあるが、独特の雰囲気のある城下町だった。その小田原は、小田原城で知られる北条氏の本拠地。なぜ高野山に小田原?というところだが、豊臣秀吉の天下統一の仕上げとなった小田原攻めで降伏した北条氏当主・氏直は、高野山に蟄居を命ぜられた。その後で北条氏の菩提寺として開かれたのが高室院。この通りも戦国大名家から名付けられたのだろう。

そろそろ一の橋が近い。ようやく、奥の院の入口に差し掛かる・・・・。
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