高野山の奥の院を目指して歩く。途中にちょっと形の変わった建物に出会う。成福院の一部である摩尼宝塔。
太平洋戦争でのビルマ戦没者の供養塔として建てられたものである。内部は一周して見学でき、ビルマを含めた東南アジアに広まっている上座部仏教に関するものや、ビルマ戦についての遺品が多く飾られている。「ビルマの竪琴」もある。30万人が派兵され20万人が戦死したという激戦地。昔「ビルマの竪琴」という映画があったような。またDVDでも借りることにするか。
という感じで回るが、帰りのケーブルカー、そして特急こうや号まで時間が押してきた。帰りは奥の院前からバスに乗るとしても、奥の院でそうのんびりともしていられない。ようやく一の橋に着いたが、ここから弘法大師御廟まではおよそ2キロある。普通に歩いても30分近くかかる。
参道の両側には多くの供養塔が並ぶ。その数は20万基とも30万基とも言われている。以前に来た時に「墓の多さ」にうなったのだが、実際に遺骨が埋葬されている墓石はほんの一部で、多くが五輪塔で魂をなぐさめたものである。歴史上の有名人物から江戸時代の各大名家の供養塔が並ぶ。一方では名もなき庶民の塔もある。苔で覆われていて字が見えなくなっているものもあれば、朽ちて石が崩れ落ちたものもある。その一方で最近新調したらしい供養塔もある。最近では企業関係のものも多い。業務上命を落とした人たちのためだろうか。ただこれらを全部見て回ろうとすると大変だ。
比叡山を焼き討ちにした織田信長の供養塔が高野山にあるというのは、どこか皮肉を感じさせる。京に近く政治にも絡んでくることもあった比叡山に対して、高野山はあくまで信仰の場として営んできたというか。
ここまでさまざまな供養塔が並ぶのは、弘法大師のお膝元だと極楽往生ができるからという。もともと真言宗は即身成仏という現世利益を説いていたのが、浄土信仰というのも取り入れられ、そこに弘法大師というスーパーヒーローへの信仰が混ざり合った形になっている。今のように供養塔ができたのはいつ頃からだろうか。また、真言宗は大日如来を絶対のものとしているが、今の実態は「空海宗」とでも言ったほうがいいような・・・(別に空海をディスってるわけではなく)。
ようやく御廟橋に着く。大勢の参詣客が行き交っている。「南無大師遍照金剛」の笈摺に金剛杖の人も多く見られる。こうして来てみると、高野山で最もメジャーなのはやはり奥の院だなと感じる。先ほど主殿で西国の納経軸に筆を入れてもらったのだが・・・これは果たしてよかったのか。
帰宅して何日か経つ中で、奥の院は奥の院で朱印もあるのだから、こちらにすべきだったかなとの思いは強くなっている。四国八十八所の場合は明確に奥の院と決まっているようで、それなら西国巡りもそうすべきだなと、大詰めに来ての後悔である。何をやってきたのかと。
燈籠堂に入ると般若心経を読む人も多く、私もその中に入ってお勤め。さらに、その奥にある御廟に向かう。こちらでももう一度お勤めを行い、高野山めぐりの締めということにする。
納経所の窓口もいくつかあるが、やはり奥の院、団体も多く来るようでどの係員も休みなく筆を走らせている。その間に手を止めて個人客の対応をする感じだ。「どうぞ」と声をかけられて書いていただいたが、ちょっと雑なように見えるのは気のせいか。
奥の院でも結構な時間が過ぎ、気がつけばバス乗り場まで急がなければケーブルカーに間に合わない時間になった。休日ということで臨時便が出ていて若干早く高野山駅に戻ることができたが、それでもケーブルカーはぎりぎりだった。結局今回、高野山駅は行き帰りとも一瞬で通過することになった。下の極楽橋駅でも慌しく特急に乗り換える。一瞬だけ改札の外に出て、関西で秘境駅の一つに数えられる駅に足跡を残せたが、乗り換えがスムーズ過ぎて逆に慌ただしい。
当日の朝に思い立って来たので実質山上の滞在は4時間。主なところは一通り回ることができたが、他にも多くの寺院があるし、行ったところもじっくり見ようと思えばやはり一日かけたほうがよかったかなと思う。そこはまた次に来いと呼ばれているのだなと受け止める。
高野山を先に回って西国めぐりも終わったかなと思うが、本来の「満願」寺である谷汲山が最後に残っている。ここは全くの初めてなので、どういうところなのか、また全て回った後にどういう思いを持つことになるのかが楽しみである。
今度は気持ちを落ち着かせて・・・。
太平洋戦争でのビルマ戦没者の供養塔として建てられたものである。内部は一周して見学でき、ビルマを含めた東南アジアに広まっている上座部仏教に関するものや、ビルマ戦についての遺品が多く飾られている。「ビルマの竪琴」もある。30万人が派兵され20万人が戦死したという激戦地。昔「ビルマの竪琴」という映画があったような。またDVDでも借りることにするか。
という感じで回るが、帰りのケーブルカー、そして特急こうや号まで時間が押してきた。帰りは奥の院前からバスに乗るとしても、奥の院でそうのんびりともしていられない。ようやく一の橋に着いたが、ここから弘法大師御廟まではおよそ2キロある。普通に歩いても30分近くかかる。
参道の両側には多くの供養塔が並ぶ。その数は20万基とも30万基とも言われている。以前に来た時に「墓の多さ」にうなったのだが、実際に遺骨が埋葬されている墓石はほんの一部で、多くが五輪塔で魂をなぐさめたものである。歴史上の有名人物から江戸時代の各大名家の供養塔が並ぶ。一方では名もなき庶民の塔もある。苔で覆われていて字が見えなくなっているものもあれば、朽ちて石が崩れ落ちたものもある。その一方で最近新調したらしい供養塔もある。最近では企業関係のものも多い。業務上命を落とした人たちのためだろうか。ただこれらを全部見て回ろうとすると大変だ。
比叡山を焼き討ちにした織田信長の供養塔が高野山にあるというのは、どこか皮肉を感じさせる。京に近く政治にも絡んでくることもあった比叡山に対して、高野山はあくまで信仰の場として営んできたというか。
ここまでさまざまな供養塔が並ぶのは、弘法大師のお膝元だと極楽往生ができるからという。もともと真言宗は即身成仏という現世利益を説いていたのが、浄土信仰というのも取り入れられ、そこに弘法大師というスーパーヒーローへの信仰が混ざり合った形になっている。今のように供養塔ができたのはいつ頃からだろうか。また、真言宗は大日如来を絶対のものとしているが、今の実態は「空海宗」とでも言ったほうがいいような・・・(別に空海をディスってるわけではなく)。
ようやく御廟橋に着く。大勢の参詣客が行き交っている。「南無大師遍照金剛」の笈摺に金剛杖の人も多く見られる。こうして来てみると、高野山で最もメジャーなのはやはり奥の院だなと感じる。先ほど主殿で西国の納経軸に筆を入れてもらったのだが・・・これは果たしてよかったのか。
帰宅して何日か経つ中で、奥の院は奥の院で朱印もあるのだから、こちらにすべきだったかなとの思いは強くなっている。四国八十八所の場合は明確に奥の院と決まっているようで、それなら西国巡りもそうすべきだなと、大詰めに来ての後悔である。何をやってきたのかと。
燈籠堂に入ると般若心経を読む人も多く、私もその中に入ってお勤め。さらに、その奥にある御廟に向かう。こちらでももう一度お勤めを行い、高野山めぐりの締めということにする。
納経所の窓口もいくつかあるが、やはり奥の院、団体も多く来るようでどの係員も休みなく筆を走らせている。その間に手を止めて個人客の対応をする感じだ。「どうぞ」と声をかけられて書いていただいたが、ちょっと雑なように見えるのは気のせいか。
奥の院でも結構な時間が過ぎ、気がつけばバス乗り場まで急がなければケーブルカーに間に合わない時間になった。休日ということで臨時便が出ていて若干早く高野山駅に戻ることができたが、それでもケーブルカーはぎりぎりだった。結局今回、高野山駅は行き帰りとも一瞬で通過することになった。下の極楽橋駅でも慌しく特急に乗り換える。一瞬だけ改札の外に出て、関西で秘境駅の一つに数えられる駅に足跡を残せたが、乗り換えがスムーズ過ぎて逆に慌ただしい。
当日の朝に思い立って来たので実質山上の滞在は4時間。主なところは一通り回ることができたが、他にも多くの寺院があるし、行ったところもじっくり見ようと思えばやはり一日かけたほうがよかったかなと思う。そこはまた次に来いと呼ばれているのだなと受け止める。
高野山を先に回って西国めぐりも終わったかなと思うが、本来の「満願」寺である谷汲山が最後に残っている。ここは全くの初めてなので、どういうところなのか、また全て回った後にどういう思いを持つことになるのかが楽しみである。
今度は気持ちを落ち着かせて・・・。