今日の一番の話題といえば、このことにつきるだろう。
モンゴル出身で初の横綱、歴代3位の25回の優勝で角界に一時代を築いた横綱朝青龍が突然の引退。このところの暴行疑惑やら、それ以前の素行の問題が取りざたされてのことである。
まあ、このところの騒ぎで「解雇」も含めた重い処分が検討されていたことでもあり、辞めるのも時間の問題と言われていただけに仕方ないのかな、というところだが。
それにしても、こういうことが取りざたされるたびに「横綱とは?」ということに思いを致さざるを得ない。「横綱」と「チャンピオン」の違いは何だろうかと、改めて思うところである。
また、相撲だけに特別なものを求める気持ちというのも、どこから来るものだろうか。
その相撲にしても、現在の朝青龍、白鵬まで江戸時代以降69人が推挙されているが、その69人全てが品格方正であったわけではなく(中には優勝1回もないのに、東西に横綱を据えなければならないという理由で横綱になった人もいましたね)、その基準というのは本当にどこにあるねん、てなもんである。品格、品格と言い出したのはいつの頃からだろうか。
その一方で、横綱というのはその時代の空気を表現するものかな、と思う。そりゃ、谷風とか小野川の時代までさかのぼってはいけないが、明治~大正の古武士の様相の梅ヶ谷、常陸山に始まり、戦前に神格化された双葉山、戦後の復興の支えになった栃錦・若乃花、高度成長時代に力士も大型化した柏戸・大鵬、日本が経済大国となり、外国からみて憎らしいまでの存在となった時代の北の湖~千代の富士、バブルからバブル後にかけての若乃花・貴乃花、グローバル時代の曙・武蔵丸、そして朝青龍に白鵬。もっとも、朝青龍には現在の「勝ち組・負け組」「実力があれば何をやってもいい」とか「モラルハザード」も時代背景かな。
結構こじつけもある分析と思うが、「国技」というものがその国の諸相の一つを表すのであれば、横綱も「時代の子」と言えるのだろう。
さて、これからの大相撲の興行はどのようになるのだろう。このままでは白鵬が優勝を重ね、当面は強力な横綱・大関も出現しないことから、優勝も軽く20回を超え、朝青龍の記録を抜くのも間違いないだろう。ただ、「それでいいのか?」という気もする。
今回の一件というのは、先の理事選挙とも合わせて改めて「横綱とは?」「国技とは?」ということについていろんな問題提起と示唆があるように思う。この国の社会の構造とも合わせて、奥の深いテーマとして考えていく材料にはなるのではないだろうか。