まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

高野山を歩く(奥)~西国三十三所番外・お礼参り

2015年12月04日 | 西国三十三所
高野山の奥の院を目指して歩く。途中にちょっと形の変わった建物に出会う。成福院の一部である摩尼宝塔。

太平洋戦争でのビルマ戦没者の供養塔として建てられたものである。内部は一周して見学でき、ビルマを含めた東南アジアに広まっている上座部仏教に関するものや、ビルマ戦についての遺品が多く飾られている。「ビルマの竪琴」もある。30万人が派兵され20万人が戦死したという激戦地。昔「ビルマの竪琴」という映画があったような。またDVDでも借りることにするか。

という感じで回るが、帰りのケーブルカー、そして特急こうや号まで時間が押してきた。帰りは奥の院前からバスに乗るとしても、奥の院でそうのんびりともしていられない。ようやく一の橋に着いたが、ここから弘法大師御廟まではおよそ2キロある。普通に歩いても30分近くかかる。

参道の両側には多くの供養塔が並ぶ。その数は20万基とも30万基とも言われている。以前に来た時に「墓の多さ」にうなったのだが、実際に遺骨が埋葬されている墓石はほんの一部で、多くが五輪塔で魂をなぐさめたものである。歴史上の有名人物から江戸時代の各大名家の供養塔が並ぶ。一方では名もなき庶民の塔もある。苔で覆われていて字が見えなくなっているものもあれば、朽ちて石が崩れ落ちたものもある。その一方で最近新調したらしい供養塔もある。最近では企業関係のものも多い。業務上命を落とした人たちのためだろうか。ただこれらを全部見て回ろうとすると大変だ。

比叡山を焼き討ちにした織田信長の供養塔が高野山にあるというのは、どこか皮肉を感じさせる。京に近く政治にも絡んでくることもあった比叡山に対して、高野山はあくまで信仰の場として営んできたというか。

ここまでさまざまな供養塔が並ぶのは、弘法大師のお膝元だと極楽往生ができるからという。もともと真言宗は即身成仏という現世利益を説いていたのが、浄土信仰というのも取り入れられ、そこに弘法大師というスーパーヒーローへの信仰が混ざり合った形になっている。今のように供養塔ができたのはいつ頃からだろうか。また、真言宗は大日如来を絶対のものとしているが、今の実態は「空海宗」とでも言ったほうがいいような・・・(別に空海をディスってるわけではなく)。

ようやく御廟橋に着く。大勢の参詣客が行き交っている。「南無大師遍照金剛」の笈摺に金剛杖の人も多く見られる。こうして来てみると、高野山で最もメジャーなのはやはり奥の院だなと感じる。先ほど主殿で西国の納経軸に筆を入れてもらったのだが・・・これは果たしてよかったのか。

帰宅して何日か経つ中で、奥の院は奥の院で朱印もあるのだから、こちらにすべきだったかなとの思いは強くなっている。四国八十八所の場合は明確に奥の院と決まっているようで、それなら西国巡りもそうすべきだなと、大詰めに来ての後悔である。何をやってきたのかと。

燈籠堂に入ると般若心経を読む人も多く、私もその中に入ってお勤め。さらに、その奥にある御廟に向かう。こちらでももう一度お勤めを行い、高野山めぐりの締めということにする。

納経所の窓口もいくつかあるが、やはり奥の院、団体も多く来るようでどの係員も休みなく筆を走らせている。その間に手を止めて個人客の対応をする感じだ。「どうぞ」と声をかけられて書いていただいたが、ちょっと雑なように見えるのは気のせいか。

奥の院でも結構な時間が過ぎ、気がつけばバス乗り場まで急がなければケーブルカーに間に合わない時間になった。休日ということで臨時便が出ていて若干早く高野山駅に戻ることができたが、それでもケーブルカーはぎりぎりだった。結局今回、高野山駅は行き帰りとも一瞬で通過することになった。下の極楽橋駅でも慌しく特急に乗り換える。一瞬だけ改札の外に出て、関西で秘境駅の一つに数えられる駅に足跡を残せたが、乗り換えがスムーズ過ぎて逆に慌ただしい。

当日の朝に思い立って来たので実質山上の滞在は4時間。主なところは一通り回ることができたが、他にも多くの寺院があるし、行ったところもじっくり見ようと思えばやはり一日かけたほうがよかったかなと思う。そこはまた次に来いと呼ばれているのだなと受け止める。

高野山を先に回って西国めぐりも終わったかなと思うが、本来の「満願」寺である谷汲山が最後に残っている。ここは全くの初めてなので、どういうところなのか、また全て回った後にどういう思いを持つことになるのかが楽しみである。

今度は気持ちを落ち着かせて・・・。
コメント

高野山を歩く(中)~西国三十三所番外・お礼参り

2015年12月02日 | 西国三十三所
金剛峯寺の主殿に着く。先の記事で「本堂」と書いたが、宗教行事は先の壇上伽藍の金堂や根本大塔で行われる。ここは寺の本坊に当たる。

大小二つの玄関があるが、参詣者は端の出入口を利用する。一室があり、拝観受付と納経受付がある。まずは拝観だろうと拝観料を払って先に進む。重要な儀式が行われる大広間をのぞく。立ち入りや写真撮影はできないが、ふすまの絵は室町時代の狩野元信の筆て言われている。また本尊に弘法大師像が祀られ、開創1200年として開帳されている。外とは五色の紐で結ばれており、それを握って結縁である。

ただその端には「秀次自刃の間」というのもある。豊臣秀吉の甥・秀次だが、関白の位を譲られたものの、秀頼の誕生で次第に疎まれるようになり、最後は高野山に幽閉されて切腹させられる。あまり政治の舞台には出てこない高野山だが、そういう出来事もあった。

主殿に隣接して別殿、新別殿がある。これらは参詣者の接待や休憩用で、それぞれ弘法大師入定1100年(1934年)、1150年(1984年)に建てられた。次の50年に何ができるかはわからないが。新別殿ではお茶菓子の接待があり、僧侶のミニ法話もある。行った時は話が終わりかけだったので中身はわからなかったが、最後に一同合掌して「南無大師遍昭金剛」を唱える。

蟠龍庭という石庭がある。こちらも新別殿とともにできたもので、四国の花崗岩と京都の砂が使われている。結構広い。

再び主殿に戻り、今も使われている台所を通って元の通用口に出る。先ほど根本大塔で大日如来の朱印をいただいたが、ここが本坊ならここでもいただく。で、ここで西国三十三所の納経軸も差し出す。いろんなところで「納経軸の番外欄に高野山」と言われているが、金剛峯寺のどこというのははっきりしていない。今にして思えば奥の院がベストだったかな・・・と思う。ただこの時は、ここが本堂だし、表には西国や四国の納経軸のサンプルがぶら下がっているし、書いてもらうならここかなという思いで軸を差し出した。他にそういう人はいくらでもいるようで、係の人は別に「?」という顔をするわけでなく、「ここやね」と言って筆を進める。朱印帳には「遍昭金剛」、納経軸には「遍昭殿」と書かれた。

これで後は奥の院に向かうが、さすがに空腹である。行く前に遅い昼食とするが、この辺りは高野山の繁華街としていろんな店がある。まずは高野山の「般若湯」を土産で買い求めた後、同じ並びの食堂に入る。店自体は寿司やうどんもあれば、トンカツ定食もあるといったごく普通の観光地食堂だが、外のサンプルに「精進定食」というのがあったので。

宿坊に泊まるわけではないので、せめて昼食で精進料理を食べることにする。1840円というのは観光地価格だと思うが、当日の朝に思い立ってやって来るくらいだからどこか有名店を予約するわけでもない。この「丸万」は比較相手がいないので断言できないが、ゴマ豆腐に高野豆腐、こんにゃくに麩といったところの一通りの味付けは悪くなかった。とりあえず「らしさ」を味わうことはできた。

腹もできたところで改めて奥の院を目指す。途中の通りは「小田原通り」と呼ばれている。小田原と言えば神奈川の・・・と思う。以前に町歩きをしたことがあるが、独特の雰囲気のある城下町だった。その小田原は、小田原城で知られる北条氏の本拠地。なぜ高野山に小田原?というところだが、豊臣秀吉の天下統一の仕上げとなった小田原攻めで降伏した北条氏当主・氏直は、高野山に蟄居を命ぜられた。その後で北条氏の菩提寺として開かれたのが高室院。この通りも戦国大名家から名付けられたのだろう。

そろそろ一の橋が近い。ようやく、奥の院の入口に差し掛かる・・・・。
コメント

高野山を歩く(前)~西国三十三所番外・お礼参り

2015年12月01日 | 西国三十三所
当日思い立っての高野山行き。山内バスで西の玄関である大門に着いたのはちょうど12時。

高野山イコール奥の院ということで来る人が多く、次いで金剛峯寺本堂、壇上伽藍は見るが、大門となると登山で来る人以外は少ないようだ。江戸中期の建物である朱塗りの大門は、両側に仁王が立ち、上部には「高野山」一文字ずつの額がある。真言宗の総本山としての威容を誇るし、「ようこそ高野山へ」という感じもする。さすがに西国の札所を見渡してもこれだけのものはない。

今日はここから歩き、最後に奥の院を目指す。大門の先は金剛峯寺を中心とした町が出来上がっている。先に持ち帰り用として角濱のごまどうふ(パックだが、日持ちするし味は変わらない)を買い求め、壇上伽藍に向けて歩く。途中ファミマもあるが、場所が場所だけに看板は控え目。

壇上伽藍には道路に面して真新しい中門がある。新しいはずで、高野山開創1200年を記念して再建されたばかりだという。壇上伽藍は江戸後期に焼失し、他のお堂はその後再建されたが、中門は今になった。中門には四天王がいるが、現代の名仏師・松本明慶の手によるという。

そして金堂と根本大塔へ。拝観料はそれぞれ堂内の賽銭箱に入れ、釣り銭のいる人は外の納経所へというのが上手い。

金堂は薬師如来を本尊としているが、秘仏なので外陣から厨子を拝む。ただ、本尊とは外に張り出した紐で結縁することができる。ここまで来ると四国八十八所の遍路姿の人も目につき、笈摺に金剛杖も高野山の風景のアクセントになる。西国めぐりの場合は高野山は必須ではないが、四国遍路はそれこそ仕上げの道のりである。

金堂の隣の根本大塔。ある意味高野山、そして真言宗の中心である。それにふさわしく大日如来を中心に如来、菩薩の金色の像が並び立つ。一つの建物の中で、金剛界、胎蔵界それぞれの曼陀羅の世界がこれでもかというくらい広がっている。

ここが壇上伽藍、ひいては高野山の中心というのならということで、西国のお勤めを行う。その後、納経所に向かい朱印をいただく。ここは納経軸は出さず帳面だけ出す。金堂の薬師如来と根本大塔の大日如来はいただけるが、今回は真言宗の教義の中心にあたる大日如来をいただく。

壇上伽藍にはこの他にも多くの由緒あるお堂があるが、全部を見て回るのは日帰りでは無理。高野山にはまたいずれ来ることもあるだろうから、その時に取っておこう。

もっと言えば、高野山の宿坊に泊まり、朝から回るのもいいかなと。10年以上前に、会社の方に手配していただき宿坊に泊まったことがある。料理は精進料理だったが、同行の方と一緒にビールも結構飲んだように思う。翌朝はお勤めにも参加し、その後一緒に大正ドームに移動して「大阪近鉄対千葉ロッテ戦」を観た。その時にどこに泊まったか思い出せないのが残念。

今回は急なことだし翌日は仕事なのでもちろん日帰りだが、宿坊、またいつか泊まってみたい。

壇上伽藍の後は霊宝館に行く。高野山のさまざまな宝物があり、仏像も安置されている。建物自体も近代化遺産である。一方で、開創1200年を記念して、現代らしくプリントで作成された金剛界・胎蔵界の巨大な曼陀羅が掲げられている。霊宝館だけでも一見の価値がある。

続いて金剛峯寺の本堂に向かうが・・・記事はまた改めて。
コメント