ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

報道災害に陥ってしもた今の日本では、報道を信じたら被害に遭うんやということを知って欲しい!

2011年10月06日 | 日本とわたし
山本淑子氏の『生き抜く』ジャーナル!から聞こえてきた悲鳴です。

何度も何度も消されてしまったビデオなので、これがいつまで残るか、それは定かではありません。
時間を作って、ぜひぜひ観て、聞いてください!
残念ながら、山本さんが載せておられる動画を、こちらに転載する術を知りません。
まず、とにかく、上記の『生き抜く』ジャーナル!の所をクリックしてください。


311-インタビュー・ドキュメンタリー【動画:岩井俊二 friends after 3.11】

後藤政志
武田邦彦
山本太郎・松田美由紀
上杉隆
小出裕章
飯田哲也
吉原毅
タン・チュイムイ

 

原子力は、日本だけじゃなくて『世界中の闇』

→至急!(ダウンロード刑罰化のまえに)保存・拡散を!すでに一度削除されています!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
小出裕章:「戦争よりもひどいことが、進行している」


山本太郎:「今このまま日本の国が取っている政策を続けていけば、間違いなく日本は滅亡していく道だと思います」
     「経済が破綻してしまったとしても、そこに健康に働ける人がいなければ、もうそこからの復興は無理ですよね」

     「こんな子供たちに対して『数値を引き上げたり』して、たぶんどこの国の独裁者にも負けないくらいの不条理を押し付けられている」

     「原子力は、日本だけじゃなくて『世界中の闇』、その闇は深く、広い」


上杉隆: 「官僚システムと報道の強固なcomplex『官報複合体』を創りあげ、政治家までだましてしまう。
      報道の中にいる記者自身も、自分たちが洗脳されていることに気づかないで無意識のうちに『洗脳』に加担してしまう。
      役人の人たちも、実は意識的にやっているわけではなくて、無意識のうちに、結果として、そういう構造のなか自らを入れてしまう」』

     「誰も悪意を持っていないので、より始末の悪いシステム」
     「自分たちが悪いことをやっているという認識がないんですよね」
     「『おかみ』の情報が正しいという前提で報じてしまう」』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Stay hungry! Stay foolish!

2011年10月06日 | 日本とわたし


どうも。
この世界最高峰の大学の卒業式にお招きいただき、たいへん光栄です。
実を言うと、私は大学を中退したので、これが私にとって、大学の卒業式に出席するという行為に最も近いものになりました。
今日、私は3つの話を皆さんに紹介します。
大したことはありません、ただ3つの話だけです。

最初の話は『点をつなげること』についてです。
私は、リード大学を、6ヶ月で中退し、それから正式に退学するまでの18ヶ月ほどの間、学校をうろついていました。
中退した理由は?
それは、私が生まれる前にまで遡ります。
私の生みの親は、未婚の若い大学院生だったので、私を養子に出すことにしました。
母は、大学を卒業した人が親になるべきだ、と強く望んでいたので、
ある弁護士の夫婦に預ける、という話になりました。
しかし、私が生まれる直前、その弁護士夫婦が女の子を希望したので、話は無しになりました。
そこで、わたしの両親となる、養子縁組の順番待ちをしていた夫婦に、夜中、こんな電話がかかってきました。
「期待されていなかった男の赤ちゃんがいます。引き取ってもらえますか?」と聞かれ、
「もちろんです」と、その夫婦は答えました。
後に、私の生みの母親が、その夫婦の奥さんは大学中退で、夫の方は、高校すら中退だということを知りました。
それで母は、養子縁組みの書類へのサインを拒否しました。
数ヶ月の話し合いの末、最終的には、息子を立派に大学生にしてもらうことを条件に、サインしたのです。
これが私の人生のスタートでした。

17年後、私は無事に大学生になりました。
しかし、世間知らずだった私は、とても学費の高い大学(ほぼ、このスタンフォード大学と同額)を選んだので、
私の、労働者階級の両親の、給料のほとんどすべてが、私の授業料へと消えていきました。
大学の授業が始まって半年後、私はそこに、価値を感じなくなりました。
当時の私には、人生の目標なども無く、そして大学が、そのことについて導いてくれるとも思えませんでした。
私は、親が人生をかけて必死で稼いでいるお金を、垂れ流すだけだったのです。
なので、退学することにしました。
それでも大丈夫だと信じて。
その時は、とても怖かったのですが、今考えれば最良の選択だったと思えます。
その瞬間から私は、まるで興味を持てなかった必修の授業に出る必要が無くなったので、
もっと私の興味をひく授業に、潜り込むようになりました。

もちろん、素敵な話ばかりではありません。
私には寮が無かったので、友達の部屋の床で寝ていました。
空のコカコーラの瓶を店に返して5セントを稼ぎ、食費の足しにしたり、
日曜日には、ヒンズー教会が施してくれる一食の夕飯を食べるために、11キロの道程を歩いて行ったりしました。
すごく美味しかったんですが……。

中退した後私が興味を持ったものは、後に、非常に価値のあるものとなりました。
一つ例をあげましょう。
当時のリード大学には、国内最高のカリグラフィ(西洋書道)の授業がありました。
学内のポスターやラベルはすべて、美しい手書きの字でデザインされていました。
私は中退しており、必修の授業に出る必要が無かったので、
カリグラフィの授業を取って、美しい字の書き方を学ぶことにしました。
そこで、セリフ体、サンセリフ体などの書体や、様々な文字の隙間の調整など、
偉大なタイポグラフィを偉大たらしめる要素を学びました。
それは美しく、歴史的で、科学では捉えられない繊細さがありました。
それに魅力を感じたのです。
そんなことが、私の人生に役に立つとは思っていませんでしたが、
しかし十年後、最初のMacintoshを作る時になって、それが甦ってきたのです。
そのノウハウを活かし、Macは世界で初めて、美しい活字を扱えるパソコンになりました。
大学でカリグラフィの授業に巡り会っていなければ、Macは、たくさんのフォントや美しい字間調整を搭載することはなかったでしょう。
しかし、MacをパクったWindowsは、そんな機能が省かれていましたが……。

わたしがもし大学を辞めていなければ、その授業に出会わなかったでしょう。
そして、美しい活字を搭載したパソコンも現れなかったでしょう。
もちろん、その出来事(点)のつながりを、大学に居た頃のわたしは予想もしていませんでした。
しかし、十年後に振り返ると、とても明白に見ることができます。
もう一度言います。
未来での点と点のつながりは予測できません。
後で振り返ってみて、気づくものなのです。
今やっていることが、どこかにつながると信じてください。
何かを信じてください。
あなたの根性、運命、業、なんでもかまいません。
その点がどこかにつながると信じていれば、他の人と違う道を歩いていても、自信を持って歩き通せるからです。
それが、人生そのものに違いをもたらします。


二つ目の話は、『愛と喪失』についてです。
若いうちに、愛する仕事が見つかったのは幸運でした。
二十歳の時、実家のガレージで、友人とApple社を始めました。
私達は懸命に働き、たった2人だけだった会社が、4000人の従業員と、20億ドルを誇る大企業に成長したのです。
我々は、最初のMacintoshを、創立の9年後に発売し、次の年、わたしは30才になりました。
そして私は、会社をクビになりました。
いったいどうしたら、自分が始めた会社をクビになるんでしょうか?
ちょっと説明しましょう。
私は、Appleの成長に従って、有能だと思った人物を招き、重役に置いたのです。
はじめはうまくいきましたが、将来へのビジョンが食い違い、分裂するようになりました。
その時に、取締役会が、彼の味方をしたのです。
そして私は、30才でクビになりました。
とても有名な失業でした。
人生の焦点だったものが消え、絶望しました。
はじめの数ヶ月は、本当に途方に暮れました。
この分野の先人達の期待に添えず、渡されたバトンを落としてしまった、と感じました。
私は、デビッド・パッカードやボブ・ノイスに会い、台無しにしたことを詫びようとしました。
私の失業はとても有名だったので、シリコンバレーから逃げ出そうかとも思いました。
しかし、徐々に、あることに気がつき始めました。
私はまだ、自分の仕事がとても好きだったのです。
Appleを退職しても、その愛は少しも変わりませんでした。
追い出されはしましたが、まだ愛していたのです。
だから、再出発することにしました。
その時は気がついていませんでしたが、Appleからの追放は、わたしの身の上に起こった人生で最良の出来事でした。
成功者としての重圧が、初心者の気軽さに変わりました。
自信はもちろん失いましたが……。
そして最もクリエイティブな人生へと導かれました。
5年間のうちに、Next社とPixar社を立ち上げ、そして後に妻となる、素晴らしい女性に出会いました。
Pixarは、世界初のCGアニメである『Toy Story』で成功し、世界最高のアニメスタジオとなりました。
そして意外なことに、AppleがNextを買収したんです!
私はAppleに戻り、Nextで培った技術は、Apple再建を支えることに役立ちました。
そしてロリーンと私は、幸せな家庭を築いています。
私がずっとAppleにいたら、絶対にどれも起こらなかったでしょう。
とても苦い薬でしたが、私には必要だったんでしょうね。

人生において、時にはレンガで殴られたような痛みや苦しみに遭うことがありますが、
自分を見失わないでください。

私は、自分の行いを愛していたからこそ、止まることなく続けられました。
あなたも、愛せるものを見つけてください。
仕事にも恋愛にも言えることです。
仕事は、人生の重要な位置を占めます。
それに満足するためのたった一つの道は、自分の仕事が最高だと思うことです。
そして、自分の仕事が最高だと思えるためのたった一つの道は、その仕事を愛することです。
まだ見つかっていないのなら、探し続けてください。
安易に、仕方が無い、などと思ってはいけません。
その時はピンと来るものです。
あなたの魂はわかっているからです。
それは、良き人間関係のように、長く付き合うほどに心地良くなります。
だから探し続けてください。
決してあきらめてはいけない。

3つ目の話は、『死』についてです。
17才の時に、こんな言葉に出会いました。

『毎日を、人生最後の日だと思って生きよう。いつか本当に、そうなる日が来る』

その言葉に感銘を受けて以来33年間、私は毎朝、鏡の中の自分に問いかけています。
「もし今日がおまえの人生最後の日であるとしたら、おまえは今日、本当にしたいこと、すべきことをしようとしているのか?」
その答えが何日もの間「NO」のままなら、何かを変える必要がある
ということです。
「すぐに死ぬ」という覚悟は、人生で重要な決断をする時に、大きな支えとなります。
なぜなら、ほぼ全てのもの……周囲からの期待、プライド、失敗や恥をかくことへの恐怖など、
そういったものは、死に直面すると消え去るからです。
そこに残るのは、本当に必要なものだけです。
死を覚悟して生きていれば、「何かを失う気がする」という心配をせずに済みます。
あなたははじめから裸なんです。
素直に、自分の心に従えばいいんです。

私は1年前、癌を宣告されました。
朝の7時半に受けたスキャンで、膵臓にはっきりと腫瘍が写っていました。
私は『膵臓』が何なのかも知りませんでした。
医者からは、治療不可能なタイプの腫瘍だと聞かされ、3~6ヶ月の余命を宣告されました。
医者はわたしに、「家に帰って、やり残したことを片付けろ」とアドバイスしました。
つまり、「死ぬ準備をせよ」という意味です。
つまり、「子供達に全てを伝えろ」ということです。
今後数十年内で言うつもりだったことを、数ヶ月のうちに言え、ということです。
それは、家族に負担がかからぬよう、全てにケリをつけておけ、ということです。
つまり、「さよならを言っておけ」ということです。
その宣告を抱えて一日過ごしました。
その日の夜、カメラを飲む検査を受けました。
喉から胃、そして腸へと、カメラを通すものです。
そして、腸から膵臓へ針を差し込み、腫瘍細胞を採取する検査も受けました。
わたしは鎮静剤が効いていてわからなかったのですが、
そばにいた妻の話によると、腫瘍を検査した医師達が、採取した細胞を検査し出した後、泣き出したそうです。
その腫瘍が、手術で治せる、非常に稀なケースだからなのでした。
私は手術を受け、おかげで今は元気です。
これが私の、最も死に近づいた経験でした。
今後数十年はかんべん願いたいものです。

この経験を通し、死がただの概念だった頃より、確信をもって言えることがあります。
「誰も死にたくはない」
「天国に行きたい人でも、そのために死のうとはしない」
「しかし死は、全ての人の終着点であり、誰も逃れたことはないし、今後もそうあるべきだ」
「なぜなら死は、生命の最大の発明なのだから」
「死は、古き者を消し去り、新しき者への道をつくる」
ここでの「新しき者」は君達です。
しかし、そう遠くないうちに、君達も「古き者」となり、消えてゆきます。
大げさですみません。
しかし、紛れも無い事実です。
あなたの時間は限られています。
だから、無駄に他人の人生を生きてはいけない。
ドグマ(宗教上の教義・教理、あるいは(否定的に)独断的な説)に囚われてはいけない。
それは、他人の考え方に付き合った結果にすぎないからです。
他人の雑音が、あなたの心の声をかき消そうとするのを許してはいけない。
そして、最も大切なことは、自分の直感に従う勇気を持つことです。

直感とは、あなたが本当に求めていることを理解しているものだからです。
それ以外は二の次です。

私が若かった頃に、『全地球カタログ』という素晴らしい本がありました。
私の世代のバイブルの中のひとつです。
それは、スチュワート・ブランドという人によって、ここからさほど遠くない、メンローパークという場所で制作されました。
彼の詩的なタッチが、紙面に命を吹き込んでいました。
1960年代後半のことで、パソコンもない時代です。
全ては、タイプライターやハサミ、ポラロイドカメラなどを使って作られていました。
Googleが生まれる35年も前の、文庫版Googleといったようなものです。
理想主義的で、素晴らしいツールや、偉大な信念に溢れていました。
スチュワートのチームは、いくつか刊行を重ねた後、一通りのネタが出尽くしたところで、最終巻を出しました。
1970年代中盤のことで、私は君達と同じ年齢でした。
最終巻の裏表紙には、早朝の田舎道の写真が載せられていました。
冒険好きなら、ヒッチハイクなどで目にするような光景です。
その下には、こんな言葉がありました。

"Stay hungry. Stay foolish."
(ハングリーであれ バカであれ)

それが彼らの別れの言葉でした。

私も常々、そうありたいと思っています。
そして今、新たな人生を踏み出す君達にも、そう願っています。

"Stay hungry. Stay foolish."
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする