そうきっぱりとおっしゃった人がいる。
数ヶ月前に、国会議員を、渾身の怒りでもって叱りつけた児玉龍彦教授である。
児玉教授は今も、南相馬市の除染に努められている。
その南相馬に今も暮らしている人たちの姿を、そこに通い詰めて記録しているNHKの『ETV特集』番組の制作者の方のブログ記事の一部を紹介させていただく。
『果てしなき無責任』
前略
番組では、
福島県南相馬市の
いまなお高い放射線量が検出されている地域で、
不安を抱えながら暮らしている人たちの姿を記録している。
取材者として、彼らの置かれた状況に心を痛め、怒りもする。
しかし、ぼくはそこに住んでいるわけではない。
言わば「逃げ場がある」のだ。
そして、取材すれば取材するほど、
この問題には「出口がない」ことが見えてくる。
明日への展望がないなか不安に囚われる人たちを描けば、
それは「不安を煽る」ことになるかもしれないと自問する。
しかし、やっぱり伝えるべきだと思い直す。
中略
最大の問題は、
原発の推進に当たってきた人たちの無責任である。
彼らが終始責任回避しようとしたことが事故処理を誤らせた。
問題を解き明かしていくためには、
番組にご出演いただいている児玉龍彦東大教授の
次の言葉に立ち戻るべきだと思う。
(この言葉は番組の中では使っていないのだが…)
「年間線量1ミリシーベルト以上の人は避難する権利がある。
国と東電はそれを補償する義務がある」
誤解しないでいただきたいのだが、
児玉先生は、
「1ミリシーベルト以上は危険」だと言っているのではない。
危険であるか、ないかは、
住民自身の判断に任せるべきだというのである。
(当然、判断のためのセカンドオピニオンが求められる。)
例え科学的には「安全」である可能性が強いとしても、
不安を感じるなら「避難する権利」は認めよう。
この考え方は、暗黙のうちに、
住民が「原状回復を求める権利」を前提としている。
当然のことではないか。
自ら責なくして不安のどん底に落とされた人々が、
3.11以前に戻すよう求めることに何の無理があろう。
中略
しかし、現実的には原状回復は難しい。
少なくともすぐには不可能だ。
そういう意味では、
取り返しのつかないことが起きてしまったのである。
であれば、国と東電は国民に謝罪するしかない。
ただ頭を下げればいい、というものではない。
「原発は安全だ、重大事故など起こり得ない」と言い募り、
原発を推進してきた人たちは責任をとって退場すべきだ。
政治家、経産省の幹部、学者、言論人…。
事後処理を誤った原子力安全委員会、
原子力安全・保安院の幹部は、当然、更迭すべきだろう。
そして、東電は、当然ながら破綻させるしかない。
「年間線量1ミリシーベルト以上の人は避難する権利がある。国と東電はそれを補償する義務がある」
この、児玉教授が言われた言葉を、番組の作成編集時にカットしたことについてコメントが殺到し、それに対する彼の意見がツィッターで流された。
以下はその内容。
・被災者に原状回復を要求する権利があるだろうことを思えば、果てしなくても除染はやるべき。
でも現実にはどこかで線を引かなければならないときがくる…
・実際に避難先から「帰りたい」という声も聞こえてきます。
『除染』がいいとも『避難』がいいとも、一概には決めつけられないところにこの問題の根深さ、難しさがあると考えています。
今後も検証を続けるつもりです。
・除染の可否は(放射性物質の移動ではなく)『隔離』ができるかどうかの一点に尽きるかと思います。
・除染と同じで、ざるで水を汲むことにもなりかねません。
・『除染』と『避難』とを二元論的に捉えている方が想像以上に多かったことには驚かされた。
・市が避難設定に関わりなく仮設住宅への入居を認めた南相馬市と、避難が認められていない、例えば福島市渡利地区ではおのずと異なった問題になる。
多くの方が『避難する権利』ではなく、『故郷に戻る権利』を訴えている飯舘村でも。
……かくかように、個別具体的な問題として存在する。
・なんとか自分の故郷に留まりたい、あるいは帰りたい、とお考えの方もたくさんおいでです。
そうした方々の願いに添いたいと、児玉先生はお考えだと思います。
私は避難した方々が軽率だ、などとは思っていませんが、残りたいという思いの切実さを伝えるのも大切だろうと考えています。
・児玉先生が「線量が1ミリシーベルト以上の地域は避難すべきだ」と発言していると誤って伝えられることです。
・専門家の児玉先生ですら安全と危険の境界線がどこにあるのかは断言できない。
だから(安心して暮らすために)、少しでも線量を低く抑えるのが科学者としての責務だ、とお考えになっていることは番組の中で明言した。
・児玉先生は「年間1ミリシーベルト以上は危険」だとも、「避難すべき」だともおっしゃってはいない。
番組で触れたように「年間何ミリシーベルト以上は危険(あるいは以下なら安全)とは専門家でも断言できない」のであり、である以上、「少しでも線量を低く抑えるべき」なのである。
・『避難する権利』を認める児玉先生の考え方の根底には、原状回復を求める権利、つまり、震災前の水準までの『除染を求める権利』の承認がある。
繰り返すが『二元論』ではない。
『除染』に課題が少なくないように、『避難』にも様々な課題がある。
ぼくはその現実を見つめていくつもりだ。
・『除染』に様々な問題がつきまとうのは確かで、それは次回作としてきちんとやるつもり。
だが、「除染は無駄なので被災地の住民は避難させるべき」と軽々に決めつける気はぼくにはない。
被災者に対する情報提供と自己判断が重要。
・児玉先生の言葉は、「避難する権利がある」という原則的な認識をおっしゃったもので(それに関してぼくは全面的に賛成なのですが)、
「「1ミリ以上は避難しないと危険だ」でも「避難すべきだ」でもありません。
そこのところはブログでもきちんと書いたつもりですが、誤解なきようお願いしておきます。
・「被害者が加害者の尻拭い(除染活動)を強いられるのは不条理だと思っている」。全く同感です。
それは昨夜の番組でも描いたつもりでしたが、まだまだですか。改めて、やります。
↑この方は、現場に身をおいて、現地の方々の姿と心を撮り続けてはる。
だからこその、わたしのように言葉上だけやなくて、現実を知らんまま頭の中だけで論議を交わすんでもなくて、いろんな現実が色濃くしみ込んだ思いを抱えてはるのやと思う。
けど、実のところ彼自身も、いったいどうすればええのか、どうなっていくのかがまるで見えへんまま、
戸惑いや憂い、心配や悲しみや怒りや諦めや希望などが渦巻いている胸の内を、こうやってネットで配信してはるのかもしれん。
南相馬という所を訪れたことが無いわたしには、その素晴らしさも美しさも実感できひんのやけど、
あの事故が起こってから以降、汚染された地域の写真に映し出されてる、なんとも美しい豊かな自然に何度となく惹き込まれた。
あの場所に実際に身を置いて暮らしてた方々にとって、どれだけ離れ難いもんか、そのことをそのたびに想像した。
この制作者は「専門家の児玉先生ですら安全と危険の境界線がどこにあるのかは断言できない」と言い、
「『除染』と『避難』とを二元論的に捉えている方が多い事に驚かされた」と言う。
けれども「除染の可否は(放射性物質の移動ではなく)『隔離』ができるかどうかの一点に尽きる」と思てはる裏で、
「被災者に原状回復を要求する権利があるだろうことを思えば、果てしなくても除染はやるべき。
でも現実にはどこかで線を引かなければならないときがくる……」という思いもある。
これこそが、現場の実情やと思う。
こんなふうに、とことん考えても行動してみても、それでもなおどうしたらええのかわからん現実。
これが放射能汚染の恐ろしさやと思う。
『そんな事故を起こした国と東電は、国民に謝罪するしかない。
ただ頭を下げればいい、というものではない。
「原発は安全だ、重大事故など起こり得ない」と言い募り、
原発を推進してきた人たちは責任をとって退場すべきだ。
政治家、経産省の幹部、学者、言論人…。
事後処理を誤った原子力安全委員会、
原子力安全・保安院の幹部は、当然、更迭すべきだろう。
そして、東電は、当然ながら破綻させるしかない』
わたしはこの彼の意見に強く共感する。
そやからこそ、この意見を反映した『ETV特集』番組を作って欲しいと思う。
政治家、経産省の幹部、学者、言論人、原子力安全委員会、保安員の幹部は全員更送、東電は破綻させた上で、
年間線量1ミリシーベルト以上の人の生きる権利を補償させるために、マスコミの先頭をきって発信して欲しいと強く願う。
そうでないと、事故が起こってからすでに7ヶ月半も経ちながら、今だにきちんとした情報提供もなく、ゆえに自己判断などの仕様も無く、
放射能の汚染に晒されながら毎日を暮らしてはる人達の、この先に現れるかもしれん健康被害が、さらに深刻になる恐れがある。
『「避難する権利がある」けれども、それはその権利を持つ人達が、正しい情報をきちんと知り、その上で自己判断をすることが重要である』
そう言う児玉教授にも、この制作者にも、実はそのことが正しいかどうか、この先、それに従った人達がどうなるんか、その予想が全くつかへん。
その点では、彼らもわたしと同様、ある意味無責任やと思う。
同じ無責任なら、わたしは最悪の状況を想定して、それを回避するための一番有効な方法を提示する方が誠実やと思う。
困ってる人の気持ちに添うことはもちろん大切やけど、困ってる人がどう生きたいか、どう死にたいか、そこまで踏み込んでわかり合えるやろか?
命より馴染んだ環境。そうきっぱり、心の奥底から決めてる人に、避難を勧めることは意味があるのか。
わたしには今もってそのことに答えられへん。
けれども、そうではない、馴染んだ所から離れとうないけれど、そうかというて健康を失ったまま生きたくもない人、
まだまだ幼い子供、これからいろんな人生を歩もうという若者、深刻な病を抱えて生きたくはない実年、熟年の大人には、まず汚染地区から遠く離れることを勧めたい。
除染がどうしてもうまくいかん可能性もある。
そしたらもう二度と、以前の場所には戻れん人が出てくる。
けれども、それが原発事故というもの。
それこそが歴然とした事実とちゃうのやろか?
そんなものと闘うことに意義があるのか無いのかこそが、今きちんと話し合われるべきことなんとちゃうのやろか?
被害者が加害者の尻拭いをさせられてる今のこの不条理を、メディアは徹底的に調べ上げ、それを世間に、世界に発信せなあかんのとちゃうやろか?
数ヶ月前に、国会議員を、渾身の怒りでもって叱りつけた児玉龍彦教授である。
児玉教授は今も、南相馬市の除染に努められている。
その南相馬に今も暮らしている人たちの姿を、そこに通い詰めて記録しているNHKの『ETV特集』番組の制作者の方のブログ記事の一部を紹介させていただく。
『果てしなき無責任』
前略
番組では、
福島県南相馬市の
いまなお高い放射線量が検出されている地域で、
不安を抱えながら暮らしている人たちの姿を記録している。
取材者として、彼らの置かれた状況に心を痛め、怒りもする。
しかし、ぼくはそこに住んでいるわけではない。
言わば「逃げ場がある」のだ。
そして、取材すれば取材するほど、
この問題には「出口がない」ことが見えてくる。
明日への展望がないなか不安に囚われる人たちを描けば、
それは「不安を煽る」ことになるかもしれないと自問する。
しかし、やっぱり伝えるべきだと思い直す。
中略
最大の問題は、
原発の推進に当たってきた人たちの無責任である。
彼らが終始責任回避しようとしたことが事故処理を誤らせた。
問題を解き明かしていくためには、
番組にご出演いただいている児玉龍彦東大教授の
次の言葉に立ち戻るべきだと思う。
(この言葉は番組の中では使っていないのだが…)
「年間線量1ミリシーベルト以上の人は避難する権利がある。
国と東電はそれを補償する義務がある」
誤解しないでいただきたいのだが、
児玉先生は、
「1ミリシーベルト以上は危険」だと言っているのではない。
危険であるか、ないかは、
住民自身の判断に任せるべきだというのである。
(当然、判断のためのセカンドオピニオンが求められる。)
例え科学的には「安全」である可能性が強いとしても、
不安を感じるなら「避難する権利」は認めよう。
この考え方は、暗黙のうちに、
住民が「原状回復を求める権利」を前提としている。
当然のことではないか。
自ら責なくして不安のどん底に落とされた人々が、
3.11以前に戻すよう求めることに何の無理があろう。
中略
しかし、現実的には原状回復は難しい。
少なくともすぐには不可能だ。
そういう意味では、
取り返しのつかないことが起きてしまったのである。
であれば、国と東電は国民に謝罪するしかない。
ただ頭を下げればいい、というものではない。
「原発は安全だ、重大事故など起こり得ない」と言い募り、
原発を推進してきた人たちは責任をとって退場すべきだ。
政治家、経産省の幹部、学者、言論人…。
事後処理を誤った原子力安全委員会、
原子力安全・保安院の幹部は、当然、更迭すべきだろう。
そして、東電は、当然ながら破綻させるしかない。
「年間線量1ミリシーベルト以上の人は避難する権利がある。国と東電はそれを補償する義務がある」
この、児玉教授が言われた言葉を、番組の作成編集時にカットしたことについてコメントが殺到し、それに対する彼の意見がツィッターで流された。
以下はその内容。
・被災者に原状回復を要求する権利があるだろうことを思えば、果てしなくても除染はやるべき。
でも現実にはどこかで線を引かなければならないときがくる…
・実際に避難先から「帰りたい」という声も聞こえてきます。
『除染』がいいとも『避難』がいいとも、一概には決めつけられないところにこの問題の根深さ、難しさがあると考えています。
今後も検証を続けるつもりです。
・除染の可否は(放射性物質の移動ではなく)『隔離』ができるかどうかの一点に尽きるかと思います。
・除染と同じで、ざるで水を汲むことにもなりかねません。
・『除染』と『避難』とを二元論的に捉えている方が想像以上に多かったことには驚かされた。
・市が避難設定に関わりなく仮設住宅への入居を認めた南相馬市と、避難が認められていない、例えば福島市渡利地区ではおのずと異なった問題になる。
多くの方が『避難する権利』ではなく、『故郷に戻る権利』を訴えている飯舘村でも。
……かくかように、個別具体的な問題として存在する。
・なんとか自分の故郷に留まりたい、あるいは帰りたい、とお考えの方もたくさんおいでです。
そうした方々の願いに添いたいと、児玉先生はお考えだと思います。
私は避難した方々が軽率だ、などとは思っていませんが、残りたいという思いの切実さを伝えるのも大切だろうと考えています。
・児玉先生が「線量が1ミリシーベルト以上の地域は避難すべきだ」と発言していると誤って伝えられることです。
・専門家の児玉先生ですら安全と危険の境界線がどこにあるのかは断言できない。
だから(安心して暮らすために)、少しでも線量を低く抑えるのが科学者としての責務だ、とお考えになっていることは番組の中で明言した。
・児玉先生は「年間1ミリシーベルト以上は危険」だとも、「避難すべき」だともおっしゃってはいない。
番組で触れたように「年間何ミリシーベルト以上は危険(あるいは以下なら安全)とは専門家でも断言できない」のであり、である以上、「少しでも線量を低く抑えるべき」なのである。
・『避難する権利』を認める児玉先生の考え方の根底には、原状回復を求める権利、つまり、震災前の水準までの『除染を求める権利』の承認がある。
繰り返すが『二元論』ではない。
『除染』に課題が少なくないように、『避難』にも様々な課題がある。
ぼくはその現実を見つめていくつもりだ。
・『除染』に様々な問題がつきまとうのは確かで、それは次回作としてきちんとやるつもり。
だが、「除染は無駄なので被災地の住民は避難させるべき」と軽々に決めつける気はぼくにはない。
被災者に対する情報提供と自己判断が重要。
・児玉先生の言葉は、「避難する権利がある」という原則的な認識をおっしゃったもので(それに関してぼくは全面的に賛成なのですが)、
「「1ミリ以上は避難しないと危険だ」でも「避難すべきだ」でもありません。
そこのところはブログでもきちんと書いたつもりですが、誤解なきようお願いしておきます。
・「被害者が加害者の尻拭い(除染活動)を強いられるのは不条理だと思っている」。全く同感です。
それは昨夜の番組でも描いたつもりでしたが、まだまだですか。改めて、やります。
↑この方は、現場に身をおいて、現地の方々の姿と心を撮り続けてはる。
だからこその、わたしのように言葉上だけやなくて、現実を知らんまま頭の中だけで論議を交わすんでもなくて、いろんな現実が色濃くしみ込んだ思いを抱えてはるのやと思う。
けど、実のところ彼自身も、いったいどうすればええのか、どうなっていくのかがまるで見えへんまま、
戸惑いや憂い、心配や悲しみや怒りや諦めや希望などが渦巻いている胸の内を、こうやってネットで配信してはるのかもしれん。
南相馬という所を訪れたことが無いわたしには、その素晴らしさも美しさも実感できひんのやけど、
あの事故が起こってから以降、汚染された地域の写真に映し出されてる、なんとも美しい豊かな自然に何度となく惹き込まれた。
あの場所に実際に身を置いて暮らしてた方々にとって、どれだけ離れ難いもんか、そのことをそのたびに想像した。
この制作者は「専門家の児玉先生ですら安全と危険の境界線がどこにあるのかは断言できない」と言い、
「『除染』と『避難』とを二元論的に捉えている方が多い事に驚かされた」と言う。
けれども「除染の可否は(放射性物質の移動ではなく)『隔離』ができるかどうかの一点に尽きる」と思てはる裏で、
「被災者に原状回復を要求する権利があるだろうことを思えば、果てしなくても除染はやるべき。
でも現実にはどこかで線を引かなければならないときがくる……」という思いもある。
これこそが、現場の実情やと思う。
こんなふうに、とことん考えても行動してみても、それでもなおどうしたらええのかわからん現実。
これが放射能汚染の恐ろしさやと思う。
『そんな事故を起こした国と東電は、国民に謝罪するしかない。
ただ頭を下げればいい、というものではない。
「原発は安全だ、重大事故など起こり得ない」と言い募り、
原発を推進してきた人たちは責任をとって退場すべきだ。
政治家、経産省の幹部、学者、言論人…。
事後処理を誤った原子力安全委員会、
原子力安全・保安院の幹部は、当然、更迭すべきだろう。
そして、東電は、当然ながら破綻させるしかない』
わたしはこの彼の意見に強く共感する。
そやからこそ、この意見を反映した『ETV特集』番組を作って欲しいと思う。
政治家、経産省の幹部、学者、言論人、原子力安全委員会、保安員の幹部は全員更送、東電は破綻させた上で、
年間線量1ミリシーベルト以上の人の生きる権利を補償させるために、マスコミの先頭をきって発信して欲しいと強く願う。
そうでないと、事故が起こってからすでに7ヶ月半も経ちながら、今だにきちんとした情報提供もなく、ゆえに自己判断などの仕様も無く、
放射能の汚染に晒されながら毎日を暮らしてはる人達の、この先に現れるかもしれん健康被害が、さらに深刻になる恐れがある。
『「避難する権利がある」けれども、それはその権利を持つ人達が、正しい情報をきちんと知り、その上で自己判断をすることが重要である』
そう言う児玉教授にも、この制作者にも、実はそのことが正しいかどうか、この先、それに従った人達がどうなるんか、その予想が全くつかへん。
その点では、彼らもわたしと同様、ある意味無責任やと思う。
同じ無責任なら、わたしは最悪の状況を想定して、それを回避するための一番有効な方法を提示する方が誠実やと思う。
困ってる人の気持ちに添うことはもちろん大切やけど、困ってる人がどう生きたいか、どう死にたいか、そこまで踏み込んでわかり合えるやろか?
命より馴染んだ環境。そうきっぱり、心の奥底から決めてる人に、避難を勧めることは意味があるのか。
わたしには今もってそのことに答えられへん。
けれども、そうではない、馴染んだ所から離れとうないけれど、そうかというて健康を失ったまま生きたくもない人、
まだまだ幼い子供、これからいろんな人生を歩もうという若者、深刻な病を抱えて生きたくはない実年、熟年の大人には、まず汚染地区から遠く離れることを勧めたい。
除染がどうしてもうまくいかん可能性もある。
そしたらもう二度と、以前の場所には戻れん人が出てくる。
けれども、それが原発事故というもの。
それこそが歴然とした事実とちゃうのやろか?
そんなものと闘うことに意義があるのか無いのかこそが、今きちんと話し合われるべきことなんとちゃうのやろか?
被害者が加害者の尻拭いをさせられてる今のこの不条理を、メディアは徹底的に調べ上げ、それを世間に、世界に発信せなあかんのとちゃうやろか?