ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

「年間線量1ミリシーベルト以上の人は避難する権利がある。国と東電はそれを補償する義務がある」

2011年10月30日 | 日本とわたし
そうきっぱりとおっしゃった人がいる。
数ヶ月前に、国会議員を、渾身の怒りでもって叱りつけた児玉龍彦教授である。
児玉教授は今も、南相馬市の除染に努められている。
その南相馬に今も暮らしている人たちの姿を、そこに通い詰めて記録しているNHKの『ETV特集』番組の制作者の方のブログ記事の一部を紹介させていただく。

『果てしなき無責任』

前略

番組では、
福島県南相馬市の
いまなお高い放射線量が検出されている地域で、
不安を抱えながら暮らしている人たちの姿を記録している。
取材者として、彼らの置かれた状況に心を痛め、怒りもする。
しかし、ぼくはそこに住んでいるわけではない。
言わば「逃げ場がある」のだ。
そして、取材すれば取材するほど、
この問題には「出口がない」ことが見えてくる。
明日への展望がないなか不安に囚われる人たちを描けば、
それは「不安を煽る」ことになるかもしれないと自問する。
しかし、やっぱり伝えるべきだと思い直す。

中略

最大の問題は、
原発の推進に当たってきた人たちの無責任である。
彼らが終始責任回避しようとしたことが事故処理を誤らせた。
問題を解き明かしていくためには、
番組にご出演いただいている児玉龍彦東大教授の
次の言葉に立ち戻るべきだと思う。
(この言葉は番組の中では使っていないのだが…)

「年間線量1ミリシーベルト以上の人は避難する権利がある。
国と東電はそれを補償する義務がある」


誤解しないでいただきたいのだが、
児玉先生は、
「1ミリシーベルト以上は危険」だと言っているのではない。
危険であるか、ないかは、
住民自身の判断に任せるべきだというのである。
(当然、判断のためのセカンドオピニオンが求められる。)
例え科学的には「安全」である可能性が強いとしても、
不安を感じるなら「避難する権利」は認めよう。
この考え方は、暗黙のうちに、
住民が「原状回復を求める権利」を前提としている。
当然のことではないか。
自ら責なくして不安のどん底に落とされた人々が、
3.11以前に戻すよう求めることに何の無理があろう。


中略

しかし、現実的には原状回復は難しい。
少なくともすぐには不可能だ。
そういう意味では、
取り返しのつかないことが起きてしまったのである。
であれば、国と東電は国民に謝罪するしかない。
ただ頭を下げればいい、というものではない。
「原発は安全だ、重大事故など起こり得ない」と言い募り、
原発を推進してきた人たちは責任をとって退場すべきだ。
政治家、経産省の幹部、学者、言論人…。
事後処理を誤った原子力安全委員会、
原子力安全・保安院の幹部は、当然、更迭すべきだろう。
そして、東電は、当然ながら破綻させるしかない。



「年間線量1ミリシーベルト以上の人は避難する権利がある。国と東電はそれを補償する義務がある」


この、児玉教授が言われた言葉を、番組の作成編集時にカットしたことについてコメントが殺到し、それに対する彼の意見がツィッターで流された。
以下はその内容。

・被災者に原状回復を要求する権利があるだろうことを思えば、果てしなくても除染はやるべき。
でも現実にはどこかで線を引かなければならないときがくる…

・実際に避難先から「帰りたい」という声も聞こえてきます。
『除染』がいいとも『避難』がいいとも、一概には決めつけられないところにこの問題の根深さ、難しさがあると考えています。
今後も検証を続けるつもりです。

・除染の可否は(放射性物質の移動ではなく)『隔離』ができるかどうかの一点に尽きるかと思います。

・除染と同じで、ざるで水を汲むことにもなりかねません。

・『除染』と『避難』とを二元論的に捉えている方が想像以上に多かったことには驚かされた。

・市が避難設定に関わりなく仮設住宅への入居を認めた南相馬市と、避難が認められていない、例えば福島市渡利地区ではおのずと異なった問題になる。
多くの方が『避難する権利』ではなく、『故郷に戻る権利』を訴えている飯舘村でも。
……かくかように、個別具体的な問題として存在する。

・なんとか自分の故郷に留まりたい、あるいは帰りたい、とお考えの方もたくさんおいでです。
そうした方々の願いに添いたいと、児玉先生はお考えだと思います。
私は避難した方々が軽率だ、などとは思っていませんが、残りたいという思いの切実さを伝えるのも大切だろうと考えています。

・児玉先生が「線量が1ミリシーベルト以上の地域は避難すべきだ」と発言していると誤って伝えられることです。

・専門家の児玉先生ですら安全と危険の境界線がどこにあるのかは断言できない。
だから(安心して暮らすために)、少しでも線量を低く抑えるのが科学者としての責務だ、とお考えになっていることは番組の中で明言した。

・児玉先生は「年間1ミリシーベルト以上は危険」だとも、「避難すべき」だともおっしゃってはいない。
番組で触れたように「年間何ミリシーベルト以上は危険(あるいは以下なら安全)とは専門家でも断言できない」のであり、である以上、「少しでも線量を低く抑えるべき」なのである。

・『避難する権利』を認める児玉先生の考え方の根底には、原状回復を求める権利、つまり、震災前の水準までの『除染を求める権利』の承認がある。
繰り返すが『二元論』ではない。
『除染』に課題が少なくないように、『避難』にも様々な課題がある。
ぼくはその現実を見つめていくつもりだ。

・『除染』に様々な問題がつきまとうのは確かで、それは次回作としてきちんとやるつもり。
だが、「除染は無駄なので被災地の住民は避難させるべき」と軽々に決めつける気はぼくにはない。
被災者に対する情報提供と自己判断が重要。

・児玉先生の言葉は、「避難する権利がある」という原則的な認識をおっしゃったもので(それに関してぼくは全面的に賛成なのですが)、
「「1ミリ以上は避難しないと危険だ」でも「避難すべきだ」でもありません。
そこのところはブログでもきちんと書いたつもりですが、誤解なきようお願いしておきます。

・「被害者が加害者の尻拭い(除染活動)を強いられるのは不条理だと思っている」。全く同感です。
それは昨夜の番組でも描いたつもりでしたが、まだまだですか。改めて、やります。




↑この方は、現場に身をおいて、現地の方々の姿と心を撮り続けてはる。
だからこその、わたしのように言葉上だけやなくて、現実を知らんまま頭の中だけで論議を交わすんでもなくて、いろんな現実が色濃くしみ込んだ思いを抱えてはるのやと思う。
けど、実のところ彼自身も、いったいどうすればええのか、どうなっていくのかがまるで見えへんまま、
戸惑いや憂い、心配や悲しみや怒りや諦めや希望などが渦巻いている胸の内を、こうやってネットで配信してはるのかもしれん。

南相馬という所を訪れたことが無いわたしには、その素晴らしさも美しさも実感できひんのやけど、
あの事故が起こってから以降、汚染された地域の写真に映し出されてる、なんとも美しい豊かな自然に何度となく惹き込まれた。
あの場所に実際に身を置いて暮らしてた方々にとって、どれだけ離れ難いもんか、そのことをそのたびに想像した。

この制作者は「専門家の児玉先生ですら安全と危険の境界線がどこにあるのかは断言できない」と言い、
「『除染』と『避難』とを二元論的に捉えている方が多い事に驚かされた」と言う。
けれども「除染の可否は(放射性物質の移動ではなく)『隔離』ができるかどうかの一点に尽きる」と思てはる裏で、
「被災者に原状回復を要求する権利があるだろうことを思えば、果てしなくても除染はやるべき。
でも現実にはどこかで線を引かなければならないときがくる……」という思いもある。
これこそが、現場の実情やと思う。
こんなふうに、とことん考えても行動してみても、それでもなおどうしたらええのかわからん現実。
これが放射能汚染の恐ろしさやと思う。

『そんな事故を起こした国と東電は、国民に謝罪するしかない。
ただ頭を下げればいい、というものではない。
「原発は安全だ、重大事故など起こり得ない」と言い募り、
原発を推進してきた人たちは責任をとって退場すべきだ。
政治家、経産省の幹部、学者、言論人…。
事後処理を誤った原子力安全委員会、
原子力安全・保安院の幹部は、当然、更迭すべきだろう。
そして、東電は、当然ながら破綻させるしかない』


わたしはこの彼の意見に強く共感する。
そやからこそ、この意見を反映した『ETV特集』番組を作って欲しいと思う。
政治家、経産省の幹部、学者、言論人、原子力安全委員会、保安員の幹部は全員更送、東電は破綻させた上で、
年間線量1ミリシーベルト以上の人の生きる権利を補償させるために、マスコミの先頭をきって発信して欲しいと強く願う。
そうでないと、事故が起こってからすでに7ヶ月半も経ちながら、今だにきちんとした情報提供もなく、ゆえに自己判断などの仕様も無く、
放射能の汚染に晒されながら毎日を暮らしてはる人達の、この先に現れるかもしれん健康被害が、さらに深刻になる恐れがある。

『「避難する権利がある」けれども、それはその権利を持つ人達が、正しい情報をきちんと知り、その上で自己判断をすることが重要である』

そう言う児玉教授にも、この制作者にも、実はそのことが正しいかどうか、この先、それに従った人達がどうなるんか、その予想が全くつかへん。
その点では、彼らもわたしと同様、ある意味無責任やと思う。
同じ無責任なら、わたしは最悪の状況を想定して、それを回避するための一番有効な方法を提示する方が誠実やと思う。
困ってる人の気持ちに添うことはもちろん大切やけど、困ってる人がどう生きたいか、どう死にたいか、そこまで踏み込んでわかり合えるやろか?
命より馴染んだ環境。そうきっぱり、心の奥底から決めてる人に、避難を勧めることは意味があるのか。
わたしには今もってそのことに答えられへん。
けれども、そうではない、馴染んだ所から離れとうないけれど、そうかというて健康を失ったまま生きたくもない人、
まだまだ幼い子供、これからいろんな人生を歩もうという若者、深刻な病を抱えて生きたくはない実年、熟年の大人には、まず汚染地区から遠く離れることを勧めたい。
除染がどうしてもうまくいかん可能性もある。
そしたらもう二度と、以前の場所には戻れん人が出てくる。
けれども、それが原発事故というもの。
それこそが歴然とした事実とちゃうのやろか?
そんなものと闘うことに意義があるのか無いのかこそが、今きちんと話し合われるべきことなんとちゃうのやろか?
被害者が加害者の尻拭いをさせられてる今のこの不条理を、メディアは徹底的に調べ上げ、それを世間に、世界に発信せなあかんのとちゃうやろか?
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嵐の後の静けさよ……

2011年10月30日 | ひとりごと
裸ん坊になる寸前だったからか、
そんな時に、葉っぱの一枚一枚に重さが加わることは、想定外中の想定外だったからか、
とにかくものすごいことになりました。
木の枝が道を塞ぎ、通行止めになっている通りも数えきれず……。
どこの町も、停電中の所があちこちにあります。
旦那が言うことにゃ、翌日の今日もまだ停電中の世帯が230万もあるとか……。
今夜は零下2℃の予報が出ています。
どうか、それぞれのお家に、予備の暖房器具がありますように!

うちの周りでも、大きな木の枝がボキリと折れてしまいました。


落ち葉と雪はやっぱり似合いません。


今日は快晴!気温は昨日と同じ、最高でも6℃、最低は零下になるようです。
けど、けど、ほんと、昨日はいったいなんやったんでしょう……。
あの嵐はいったい……
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雪嵐の日のコンサート 後編

2011年10月30日 | 音楽とわたし
誰かほんまに説明してよ。
なんでこんなことになるんか。
今日は朝から、天気予報を絵に描いたように(←ちょっと喩えがおかしいけど……)、憎たらしいほどに予報通りに、
午前11時から、湿ったぼた雪が降り出した。
それものっけからものすごい勢いで……。

あっという間に数センチ積もり、えぇ~マジで雪嵐なぁ~ん……とビビりながら、こういう日はやっぱ電車が一番!と思い、
昨日はほんの3~4時間しか眠れなくて、かなり症状が悪化してしもてる旦那に、申し訳ないけど駅まで送ってもろた。
手には、クリーニング屋がようくれる簡易ビニールカバーをかけただけの丸見え状態の衣装を抱え、
そこに、舞台用の下着やの靴やの、それから長い時間を過ごすための小道具やの、食べ物やの飲み物やの、そんなもんがいっぱい入ったリュックを背負い、さらに楽譜入れのカバンを持って行かなあかんので、
少々の雨ならともかく、北風に押されて吹雪いてくる雪がハンパじゃないだけに、とてもやないけど歩いては行けん。
ほんの3秒外に出ただけで、どんだけ濡れるねん!みたいな悲惨なことになる。

マンハッタンだっておんなじように降ってるはずなので、とりあえずペンステーションから地下道をテクテク歩き、カーネギーのすぐ横に出てこられる地下鉄線に乗り換えることにした。

よっしゃ~行くでぇ~という時に、わぁ~い!あやちゃん、届いた届いた、キネシオテープ!

(↑この写真は、翌日撮ったものです、はい。当日はほんとにギリギリのギリギリやったので、写真どころではありませんでした)

ネットで調べた時に見たんとおんなじ!うわ~楽しみ!
ほんでほんで、手作りのよもぎ茶!懇切丁寧な飲み方作り方のメモに加え、お茶パックまで同封してくれて……感涙……、
などと咽んでる時間もなく、テープをガシッと箱から掴み出し、コートのポケットに入れ出発!

駅のプラットホームに行くまでにびしょびしょ……、
病気やのに電車が来るまで一緒に居ると言う旦那もびしょびしょ……両手ふさがりの、大きなリュックを背負ってるわたしの代わりに、電車のチケットを買ってくれた。

10分ほど遅れてきた電車にやっと乗れ、ホッと一息。
しかしまあ、よう降るなあ……10月やというのに……。
週末はまだ2時間に1回の電車しか無い、この車王国アメリカ。
さらに、週末になると直通は無くて、必ず途中で一回乗り換えなあかんアメリカの電車業界のトホホさ。
その乗り換え駅に着き、さあ乗り換えよう!と席を立った。
ん?
なんだか様子が変……。
降りた人がまた続々と電車の中に戻ってくるではないか?!
どないしたんやろ……。


10分経ち、15分経ち、20分経ち、人々はそれぞれにブツブツ独りゴチながら、けれども仕方ないさ的に落ち着いている。


もうとっくにマンハッタンに着いている時間になった?!


「あのさ~なんでもええから情報教えてよ~」「そんなこと言われてもさ~ボクにも誰にもわからんのやからしゃ~ないやん……」の図。


見事になんの説明も釈明もなく時間が過ぎ、次に向かい側のホームに到着した電車もストップし、そこでようやく、
「え~、この雪嵐による、木々の倒壊が相次ぎ、停電があちこちで起こり、さらに◯◯駅では火災が発生し、マンハッタン⇔ニュージャージー線は両線とも運休となりました。申し訳在りません」
というアナウンスが流れた。
いや、申し訳ありません言われたかて……。
で、どないせえと?!
いろんな人に手当たり次第聞いてみた。

アメリカで、代替えの手配やら、代わりの交通機関の案内やらを期待することは、ドラエモンのどこでもドアがあったらなあ、と夢見ることに等しい。

この、悲しいほどまでにアメリカな事実を、何度かの災難を経験してわかっているつもりやったけど、
それでもどこかで期待してしもてる未練がましい日本人のわたし……だって……だって……日本やったらさ~と思てしまうもんね~……。

腹を括り、アルベルトとジェーン、そしてパートナーのサラに電話をした。
「ごめん、リハーサルに間に合わんかもしれん。けども、とにかく本番までには着くから」

と……ホームに出ていた人達と、さっきまで困ったチャンの顔して立ってた車掌が向かいの電車の中に入ったと思たら、
動いてるがな~!!マンハッタンの方に向かって!!おぉ~い!!

取り残されたわたしの涙か……。


さらに待つ事30分、今度はその向かいのホームに、マンハッタンからニュージャージーに向かう電車がやって来た。
それに乗り換えようとする人達。
なるほど、もうあきらめて家に帰ろう、いうことね。
ところが、その電車もまた動かない。
どないやねん!なんか言えよ!どうなってんねん!

数人の客と一緒に外に出て、その電車の車掌に尋ねると、
「あのさ~、こっから先には行けんからさ~、ホーボーケン(別の線に乗り換えてマンハッタンに入れる)に戻る、かも」
かもってなんじゃい!かもって!

とにかく、そっちの電車の方が暖かそうやったし、ホーボーケンまで行けるならと、荷物を抱えて乗り換えた。


そして……またなんのアナウンスも無く時間が過ぎ、なんのアナウンスも無くいきなり電車が動き出した。
でも、もうなんでもいい。東に向いて進んでくれるんやったらなんでもいい。
車内では、車掌がうろうろしているけれど、客と話し込んでたりして、すっかりリラックスしてる。

と……、突然電車が止まった……信号か?いや、違う……。線路が交差している所なので、他の列車を待つつもりかも。
案の定、10分もすると動き出した。ほっ……はぁ?おいっ!こらっ!逆やがな逆っ!バックしてどないすんねんっ!
もちろんアナウンスは、無い……。
まわりの客も皆、うんざりとした顔をして、各々に呪いの言葉を小さな声で吐いている。
やけくそで外の景色を撮るわたし。


なぜか気分も落ち着いてきたので、あやちゃんテープを巻いてみた。
言われた通りに、引っ張らずに、曲げるとしわが寄るぐらいに軽く。
そして指の横面両側に、細く切ったものを2本。
すごく優しくて心地良い。それになんだかあたたかい。あやちゃんの気持ちも入ってる感じ。
効き目が間に合うといいなあ~……。

そんなこんなの、ほぼおちょくられてるような、冗談にも思えてしまう3時間を過ごし、結局はホーボーケンに到着。
初めて乗る電車に緊張しながら、ここで間違ってよその場所に行くわけにはいかないので、手当たり次第人に尋ねながら、ようやくマンハッタンに入った。
地下鉄に乗り換え、カーネギーに到着。
舞台での音量チェックに割り当てられた時間まであと5分と迫っていたが、去年撮りそこねたこの写真だけは撮っておきたい!
吹雪いている中、大荷物からカメラを取り出し、急いでシャッターを押す。


長靴のまま、荷物を舞台袖に置いてリハーサル。なんとか無事終了。
サラにはもう少し前に出て演奏してもらうことにし、わたしのピアノの蓋は、やはり全開ではなく、少しだけ開けることになった。

控え室は一階と二階にそれぞれ三部屋ずつ。各部屋にトイレとシャワー室がある。


けどさ~カーネギーさん、もうちょっとこのピアノ、調律しといてよね~、いくらなんでも酷過ぎじゃ~。


ちょっとごろ寝もできるソファも有り。


練習し過ぎないように、と言われつつ、あやちゃんテープの効き目を試したく、上から巻いていたいつもの白いスポーツ用テープを外して弾いてみた。
あれ?痛ないやん!いけそうやん!
でも、白のグルグル太巻きテープの小指に慣れていたので、今度はこの、肌色一巻きスマート小指に慣れとかないと。
一部の出演者の、同じく日本人のAYAちゃんが、夕ご飯を買い出しに行くと言うので、あったかいスープを買ってきてと頼んだ。
ふたりで食べていると、一部に出るピアニストが次々に部屋に入ってきては練習をする。
わたしはその横で、食べたり、目を閉じて休憩したり、着替えたり、瞑想したり、息を整えたり、
などとやっているうちに、コンサートが始まった。
とうとう来たなあ。
今日までの、いろんな思いをした、いろんな練習をした、いろんな失敗もした、弾いた後なんかわからんけど泣けてきたこともあった、
そんなことがみんな、今日のこの舞台のためやったんや、と思えるような演奏ができたらいいなあ。

本番は、今までに一度も外したことがない所で音を外して、そんな自分にびっくりしたけれど、
恐かった所は無事に弾き、曲が持つエネルギーと幸福感を充分に表現できた演奏だった、と思う。

けれども、やっぱり、ミス無しで弾き切ることができない自分にちょっとがっかり。
でもまあいい。
こんな酷い天候の中、わざわざコネチカットから来てくれたはとこちゃん、emillyちゃん、emillyちゃんのお友達でたまたま日本からこちらに来ていたマコさん、すみれちゃん、
きれいな花束をありがとう!ホテル一泊までさせて、すっかり散財させちゃってごめん!


今夜は、ニュージャージーからのお客さまは全員来れなかった!
チケットを買ってくださった52人のうち、32人が来れなかったのだった!
あの、わたしが乗った電車が、なんと、最後の列車だったのだった……そういう意味では強運と言えるのか?
生徒の関係者は家族で買ってくれているので、$60~120もの損失なのだ。
う~ん……なんとかしないと。

コンサート終了後、皆で集まるレセプションには参加せず、はとこちゃん達とうちの家族だけで、ホール近くのレストランで食べた。
店構えも値段も立派だったが、サービスがイマイチ、さらに料理が少々冷め気味の、けれどもまあ、皆で楽しく過ごせたので許しといたろか的なレストランだった。
咳がどんどん酷くなってしんどそうな旦那。
けれども、久々の息子達、Mちゃん、そしてはとこちゃん達と、少しでも一緒にゆっくりと時間が過ごせて嬉しかった。

帰りの車の中の旦那はもう、ほとんど意識朦朧状態。
今日までずっと、彼も我慢してくれてたもんなあ……。しんどいのに、いろいろと手伝ったりご飯を作ってくれたり。
申し訳なくてありがたくて、けれどもわたしもくたくたで、息子とMちゃんの話し声を聞きながら目を閉じていた。

とにもかくにも、本当に、いろんな意味で、くったくたのくったくたに疲れたコンサートになった。
家に着いたのが夜中の1時過ぎ。
家の前の垣根が、雪の重さで倒れ、半分の高さなっていた。
Kが、これは放っとけないと、雪下ろしをしてくれて、元の高さに戻してくれた。
片付けもせずに、けれども記録だけはしておきたいと思いながら、やっぱりいくらなんでもしんど過ぎたので中断。

いろいろと心配をしてくださった人、応援してくださった人、祈ってくださった人、気を送ってくださった人、
その人ひとりひとりに、ギュッとバーチャルハグを送ります。
本当にありがとう!
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