映画
「放射線を浴びたX年後」
ビキニ水爆実験
米国が1954年3月1日から5月まで、中部太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で行った実験。
キャッスル作戦と名付けられた実験は6回(うち1 回はエニウェトク環礁)。
3月1日に爆発させた「ブラボー」は、広島に落とされた原爆の1千倍以上の破壊力があるとされ、近海で操業中の第五福龍丸(乗組員23人)が被ばく。
同年9月、無線長の久保山愛吉さんが死亡した。
ビキニ被災事件の補償問題に関する日本側書簡返信
日本政府は、1954年12月、被ばくした魚は、人体に影響を及ぼすものではないとして、放射線の検査をすべて打ち切った。
そして翌日からは、すべての魚が水揚げされた。
その直後、日本政府とアメリカ政府は、公文書を取り交わしている。
アメリカ政府が、「完全な解決」を条件に、慰謝料として200万ドル(当時、日本円にして7億2千万円)を支払うという文書。
日本政府は、その条件を受け入れ、事件は完全な解決とされた。
慰謝料は、4分の3が、魚の廃棄や魚価が下がったことによる損害に、残りは、第五福龍丸乗組員の治療費などにあてることが、閣議決定されている。
アメリカ原子力委員会の機密文書
南海放送は2009年、アメリカエネルギー省から、水爆実験を所管した米原子力委員会の機密文書を入手。
これは、米国気象局のロバート・J・リストが、1955年5月(実験のおよそ1年後)にまとめたNYO-4645と呼ばれるもので、非公開資料として長年機密扱いされてきた。
しかし、1984年8月に、一部の数値や文章を削除した状態で公開したものである。
「キャッスル作戦からの、世界的規模の放射性降下物」と題された機密文書には、世界規模の放射性降下物の広がりが記録されている。
各水爆実験の広がりの他、1日毎の広がりが記録されている。
この機密文書から、多くのマグロ漁船が、放射性降下物に覆われた場所で操業していたこと、日本全土が、放射性降下物で覆われていたことが裏付けられることになった。
また、この文書から、実験の1年前に、すでに122ヶ所のモニタリングポストが、設けられていることが分かった。
日本では、三沢や東京など5ヶ所。
さらに、広島や長崎では、ABCCが利用され、測定が行われていた。
↓これがその、エネルギー省の機密文書に描かれていた地図です。
この地図について、伊東さんという方が、説明を加えてくださっています。
↓以下転載はじめ。
伊東です。
この地図は、アメリカがビキニ環礁で行った、水爆事件によってばら撒かれた放射性物質の広がりを現しています。
エネルギー省の機密文書です。
わかりやすくするため着色したのは、僕です。
もともとは、白い紙に黒で描かれているものです。
1954年3月1日(日本時間)、グリニッジ時間では2月28日から、実験中の1日毎の放射性降下物の広がりが記録されています。
*この地図は、日本時間の5月17日のものです。
アメリカは、モニタリングポストを、実験の1年前に、世界中にすでに、122ヶ所設置しています。
ですから、放射能の広がりを世界規模で測定し、記録することができました。
日本には、5ヶ所。
嘉手納、三沢、東京、そして、広島、長崎に置かれました。
この機密文書によると、
日本は、この日、放射性降下物にすっぽりと覆われています。
放射性物質が、日本全土にばら撒かれたということです。
こんな大変なことが、きちんと知らされていないのです。
『ビキニ事件』は、
この日本では、ほぼ「第五福竜丸事件」として知られています。
「遠洋マグロ漁船 第五福竜丸がブラボー水爆の死の灰を浴びて被ばく。通信長の久保山愛吉さんが、急性放射能症で亡くなった」というものです。
しかし、その時期に操業していたマグロ漁船は、1隻であるはずがありません。
さらに、実験は、3ヶ月に渡り行われています。
その3ヶ月間だけとっても、たくさんのマグロ漁船が操業しています。
もちろん、貨物船なども航行しています。
さらに、放射性降下物は、日本にまで広がっています。
そう考えると、水爆実験で、どれだけの人が被ばくしたのか……?
これはもう、「数え切れないほどの人」としか言いようがありません。
↑以上、転載おわり
このヒトデナシさはなにや。
これほどに、ヒトをヒトとも思わん者どもは、素知らんふりして生きて死んでいったんやろか。
核兵器。
よその国に開発されたらかなんからと、どいつもこいつも後先考えんと、我れ先に作り出し、
それがどんな威力か、うまいこと爆発するか、ただそれを知りたいが故に、あっちこっちでボンボンバンバン。
わたしは1957年の4月に生まれた。
いっちゃんにぎやかに、核兵器の実験が行われてた頃に。
ああくやしい……。
それにしてもいったい、原子力委員会ってなんやろか。
結局は、殺し屋とちゃうの。
この世から、原子力が無くなったら、いろんなことがもっと安全で安心になる。
そやかて、原子力って、名前をごまかしてるだけで、毒やもん。
それも、長い長いことずっと残って、ありとあらゆるとこに移ってはまた戻ってくる毒やもん。
ああ、ほんまに無くなってほしい。
こんなもんがあるから、人間の世界がどんどん壊れていってまう。
これから生まれてくる子、これからおっきくなる子に、重たい荷物を背負わせ、汚い空気を吸わせ、汚い食べ物を食べさせてまう。
日本は世界に先駆けて、原子力に見切りをつけなあかん。
国は絶対にそんなことするつもりがないのやから、国民が世界に発信していかなあかん。
今からもう60年ほども前の、ひとりの主婦の新聞投稿がきっかけになって始まった、日本の反核運動。
じわじわじわじわと全国にしみ込んでって、全国規模の反核兵器運動が生まれた。
運動開始当初は、原水爆禁止運動は超党派で形成されてた。
マスコミ各社もこぞって支援する、「国民的運動」やった。
それが世界に知れ渡り、まあ、映画みたいに単純ではないにしろ、核兵器狂の大国を巻き込んでの会議が開かれたりした。
60年も前に。
電話もTVもろくすっぽ無かった時代に。
まだ砂利道がいっぱい残ってた通りを、ぞろぞろと、自前のプラカード掲げて歩く大勢の大人がいた。
駅前で、店屋の前で、銭湯で、署名を求める人がいた。
おぶい紐で赤ん坊を背負いながら、ちっちゃい子の手を引きながら、この子らを辛い病気にかからしとうないねんと、頑張るおかあちゃんがいた。
原子力は核兵器のもと。
核兵器はこの世から抹消されるべきもの。
そやから、原子力はいらん。
これまでにもうできてしもたゴミを、どないしたらええかもわからんもんが、いつまでもしがみつかんとき、かっこわるい。