弟が、佐村河内守さんという作曲家のことを教えてくれた。
わたしはこの人のことを、今朝まで全く知らんかった。
昨年末、津波で母を失った石巻市の女児(10)と出会ったのをきっかけに、
被災地に何度も足を運び、女児や地元の人との会話から、曲の構想を得た。
今年2月には「死者と対話しないと曲は生まれない」と、女児の母が亡くなった女川町の海を望む浜辺で、一晩を過ごした。
朝焼けを見たときに、「曲を書いてもいいと言われた気がした」
わたしは今、毎日ちょこっとずつ、ようできても2小節ぐらいの進み具合で、作曲を続けてる。
わたしは耳がちゃんと聞こえるし、ほぼ健康やし、自分の家の中にピアノがあるし、子育ても終って時間もある。
凹んでる場合ちゃうがな。
そう背中を押してもろた気がした。
佐村河内さんは、今から15年前に聴力を完全に無くさはった。
↓
以下は、ウィキペディアよりの抜粋
『抑鬱神経症や不安神経症、常にボイラー室に閉じ込められているかのような轟音が頭に鳴り響く頭鳴症、耳鳴り発作、腱鞘炎などに苦しみつつ、絶対音感を頼りに作曲を続ける。
特に、頭鳴症による耳鳴りについて、佐村河内は、
「父と母が、そして歴史が聞いた『原爆の音』。それを私の血がいま、聞いているのかもしれません」と述べている。
光を浴びることで、偏頭痛や耳鳴りの発作が誘発されるため、自宅では暗室に籠り、外出時には、光を避けるためのつばの広い帽子とサングラスを着用することを余儀なくされている』
弟が紹介してくれたんは、『無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ』
聴いた後、慌てて他の曲を調べた。
つい最近に、多分弟もこれを観て、 ど素人のくせに作曲に挑戦してる姉に教えたらな、と思てくれたんやと思う。
NHKスペシャル・『魂の旋律~音を失った作曲家~』

私が佐村河内さんと出会ったのは5年前。
以来、激しい耳鳴りや偏頭痛に苦しみながら、作品を生み出し続ける佐村河内さんを、ずっと見続けてきました。
大量の薬を服用し、生きていくだけでも困難な中、なぜ、作曲を続けるのか。
この問いに対し、佐村河内さんは、
「人生は苦である。苦難、闇の中にいるからこそ、真実の音をつかむことができる」と、折に触れお話されてきました。
同じ“ものを作る人間”として、その姿にいつも勇気をもらい、そのことを視聴者の方にも届けたいとの思いで、今回の番組を制作しました。
佐村河内さんは、
「自分の作品を聴くことができない悔しさとみじめさは、今も乗り越えられていない」と語ります。
それでもコンサート会場には、足を運ばれています。
理由は、お客さんの拍手の振動を感じることができ、それが唯一の救いだからとのことです。
私は、この先も、佐村河内さんの音楽に、拍手を送りたいと思います。
ディレクター 古賀淳也
「自分にできることは、まずは彼女の、そして彼女のママの魂を救うこと。僕は1人しか救えませんよ」
東日本大震災で、母親をなくした少女にささげるレクイエムの作曲にあたり、佐村河内さんが発したことばが、特に印象に残ったという声を、放送後、多くの方からいただきました。
佐村河内さんは言葉通り、膨大なメールのやりとりや、石巻に何度も足を運ぶなかで、少女の喪失感と対峙し、レクイエムを作曲されました。
そして完成後も、交流を続けています。
まだ10歳の少女は、ふだん悲しみを口に出したり、泣いたりすることはほとんどありません。
ただ、夜、祖母の精子さんと、手首をひもでつなぎ合わないと眠ることができない姿を見ると、その悲しみの深さを突きつけられます。
取材中、震災で失われたすべての命の背後に、こうした深い悲しみが横たわっていることに、改めて身がすくむ思いでいました。
佐村河内さんが、たった1人のために生み出した音楽が、今も悲しみのうちにある、多くの方々に届くよう願っています。
ディレクター 木下千種
そしてこの曲が、被災地でいろんな思いを抱えて生きておられる方々に、希望シンフォニーと名付けられ、聴かれている曲。
わたしもいつか、この曲の全曲を、せめてCDで聴きたいと思う。
あの日、広島の中学生が、違法を覚悟でネットに流し続けてくれたNHKの画面を見ながら、
津波にすべてを飲みこまれていく町を、川を、山を、そして人々や動物の姿を、立ったままずっと凝視した。
夜中で、すでに室温はずいぶん下がってた。
なんでこんなことに……と唖然とするばかりで、その喪失の大きさに言葉が全く出てこんかった。
続いて原発の恐ろしい事故が続けて起こり、その後から、想像を絶する政府の棄民が始まった。
2週間もすると、ネット上の新聞報道と、ツィッターやフェイスブックで流れてくる情報とが、かなりズレてることに気がついた。
そのことに怒り、非難をし、毎日パソコンにかじりついて、ネットで日本のことを調べ続けた。
その頃からや。
もうすっかり忘れてた、30年近くも前の、それもいきなり作れと言われて慌てて作った短い曲のテーマが、くり返しくり返しわたしの頭の中で鳴り出した。
なんでやろ?と思いながら、そのまんまにしてた。
1年経ってもまだ、なんかっちゅうと思い出す。
これはもう、日本を思う気持ちを音にせなあかんってことちゃうか。
作曲の教育を受けたこともない人間がと、ふと思たりもするし、ちゃんとできるんかいなと、ふと恐なることもある。
そして未だわたしは、被災地を訪れたこともなく、感じることのどれもこれもが、想像の域を出んままでいる。
それでもこの、日本への祈りの強さは、毎日どんどん強うなる。
曲を書いてもいいと言われた気がした。
わたしはこの人のことを、今朝まで全く知らんかった。
昨年末、津波で母を失った石巻市の女児(10)と出会ったのをきっかけに、
被災地に何度も足を運び、女児や地元の人との会話から、曲の構想を得た。
今年2月には「死者と対話しないと曲は生まれない」と、女児の母が亡くなった女川町の海を望む浜辺で、一晩を過ごした。
朝焼けを見たときに、「曲を書いてもいいと言われた気がした」
わたしは今、毎日ちょこっとずつ、ようできても2小節ぐらいの進み具合で、作曲を続けてる。
わたしは耳がちゃんと聞こえるし、ほぼ健康やし、自分の家の中にピアノがあるし、子育ても終って時間もある。
凹んでる場合ちゃうがな。
そう背中を押してもろた気がした。
佐村河内さんは、今から15年前に聴力を完全に無くさはった。
↓
以下は、ウィキペディアよりの抜粋
『抑鬱神経症や不安神経症、常にボイラー室に閉じ込められているかのような轟音が頭に鳴り響く頭鳴症、耳鳴り発作、腱鞘炎などに苦しみつつ、絶対音感を頼りに作曲を続ける。
特に、頭鳴症による耳鳴りについて、佐村河内は、
「父と母が、そして歴史が聞いた『原爆の音』。それを私の血がいま、聞いているのかもしれません」と述べている。
光を浴びることで、偏頭痛や耳鳴りの発作が誘発されるため、自宅では暗室に籠り、外出時には、光を避けるためのつばの広い帽子とサングラスを着用することを余儀なくされている』
弟が紹介してくれたんは、『無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ』
聴いた後、慌てて他の曲を調べた。
つい最近に、多分弟もこれを観て、 ど素人のくせに作曲に挑戦してる姉に教えたらな、と思てくれたんやと思う。
NHKスペシャル・『魂の旋律~音を失った作曲家~』

私が佐村河内さんと出会ったのは5年前。
以来、激しい耳鳴りや偏頭痛に苦しみながら、作品を生み出し続ける佐村河内さんを、ずっと見続けてきました。
大量の薬を服用し、生きていくだけでも困難な中、なぜ、作曲を続けるのか。
この問いに対し、佐村河内さんは、
「人生は苦である。苦難、闇の中にいるからこそ、真実の音をつかむことができる」と、折に触れお話されてきました。
同じ“ものを作る人間”として、その姿にいつも勇気をもらい、そのことを視聴者の方にも届けたいとの思いで、今回の番組を制作しました。
佐村河内さんは、
「自分の作品を聴くことができない悔しさとみじめさは、今も乗り越えられていない」と語ります。
それでもコンサート会場には、足を運ばれています。
理由は、お客さんの拍手の振動を感じることができ、それが唯一の救いだからとのことです。
私は、この先も、佐村河内さんの音楽に、拍手を送りたいと思います。
ディレクター 古賀淳也
「自分にできることは、まずは彼女の、そして彼女のママの魂を救うこと。僕は1人しか救えませんよ」
東日本大震災で、母親をなくした少女にささげるレクイエムの作曲にあたり、佐村河内さんが発したことばが、特に印象に残ったという声を、放送後、多くの方からいただきました。
佐村河内さんは言葉通り、膨大なメールのやりとりや、石巻に何度も足を運ぶなかで、少女の喪失感と対峙し、レクイエムを作曲されました。
そして完成後も、交流を続けています。
まだ10歳の少女は、ふだん悲しみを口に出したり、泣いたりすることはほとんどありません。
ただ、夜、祖母の精子さんと、手首をひもでつなぎ合わないと眠ることができない姿を見ると、その悲しみの深さを突きつけられます。
取材中、震災で失われたすべての命の背後に、こうした深い悲しみが横たわっていることに、改めて身がすくむ思いでいました。
佐村河内さんが、たった1人のために生み出した音楽が、今も悲しみのうちにある、多くの方々に届くよう願っています。
ディレクター 木下千種
そしてこの曲が、被災地でいろんな思いを抱えて生きておられる方々に、希望シンフォニーと名付けられ、聴かれている曲。
わたしもいつか、この曲の全曲を、せめてCDで聴きたいと思う。
あの日、広島の中学生が、違法を覚悟でネットに流し続けてくれたNHKの画面を見ながら、
津波にすべてを飲みこまれていく町を、川を、山を、そして人々や動物の姿を、立ったままずっと凝視した。
夜中で、すでに室温はずいぶん下がってた。
なんでこんなことに……と唖然とするばかりで、その喪失の大きさに言葉が全く出てこんかった。
続いて原発の恐ろしい事故が続けて起こり、その後から、想像を絶する政府の棄民が始まった。
2週間もすると、ネット上の新聞報道と、ツィッターやフェイスブックで流れてくる情報とが、かなりズレてることに気がついた。
そのことに怒り、非難をし、毎日パソコンにかじりついて、ネットで日本のことを調べ続けた。
その頃からや。
もうすっかり忘れてた、30年近くも前の、それもいきなり作れと言われて慌てて作った短い曲のテーマが、くり返しくり返しわたしの頭の中で鳴り出した。
なんでやろ?と思いながら、そのまんまにしてた。
1年経ってもまだ、なんかっちゅうと思い出す。
これはもう、日本を思う気持ちを音にせなあかんってことちゃうか。
作曲の教育を受けたこともない人間がと、ふと思たりもするし、ちゃんとできるんかいなと、ふと恐なることもある。
そして未だわたしは、被災地を訪れたこともなく、感じることのどれもこれもが、想像の域を出んままでいる。
それでもこの、日本への祈りの強さは、毎日どんどん強うなる。
曲を書いてもいいと言われた気がした。