9月12日付の、読売新聞の論評について、武田邦彦が見解を述べたものを転載させていただきます。
【読売新聞社説の論評】
「『1ミリ・シーベルト』への拘りを捨てたい」とはなにか?
http://takedanet.com/files/yomiurironsetutdyno.368-(9:45).mp3
読売新聞が、2013年9月12日つけで、「『1ミリ・シーベルト』への拘りを捨てたい」という社説を出した。
その論旨は、
政府は、住民帰還の目安となる年間被曝ひばく線量を、「20ミリ・シーベルト以下」としている。
国際放射線防護委員会の提言に沿った数値だ。
その上で、長期的には 「年間1ミリ・シーベルト以下」に下げる方針だ。
しかし、住民の中には、直ちに1ミリ・シーベルト以下にするよう、拘(こだ)わる声が依然、少なくない。
人間は、宇宙や大地から、放射線を浴びて生活している。
病院のCT検査では、1回の被曝線量が、約8ミリ・シーベルトになることがある。
専門家は、広島と長崎の被爆者に対する追跡調査の結果、
積算線量が100ミリ・シーベルト以下の被曝では、がんとの因果関係は認められていない、と指摘する。
政府は、放射能の正しい情報を、周知していくことが大切だ。
としている。
社説だから、見解は見解として尊重しなければならないが、取材を基本とする新聞社としては、「事実誤認」が多すぎて、
「自分の意見を通すためには事実を曲げてもよい」としているので、一般人の意見としてはありうるが、大新聞の社説としては頂けない。
このぐらい事実を無視するなら、社説の最初に、「読売新聞は原発の再開を支持しているので、事実は無視します」と断った方がよい。
一つ一つ、検証しよう。
まず、
「政府は、住民帰還の目安となる年間被曝ひばく線量を「20ミリ・シーベルト以下」としている。国際放射線防護委員会の提言に沿った数値だ」
とあるが、ここは正しくは、次のように書かなければならない。
「日本では、事故時における最大の被曝量を、1年5ミリ(原子力安全委員会)としており、
また、事故時の発がん予想数についても規定している。
政府の決定は、日本国内の正式機関(安全委員会)の決定をないがしろにして、海外のNPO(任意団体で国際放射線防護委員会という名前を使っている)に従うのは、国民を無視したものだ」
第二に、
「しかし、住民の中には、直ちに1ミリ・シーベルト以下にするよう拘(こだ)わる声が依然、少なくない」
とある。
問題は「拘る」という用語だが、1年1ミリは日本の基準で、また、日本の一般人の被曝限度として、長く使われてきたものだから、
それを「尊重する」、という用語を使うのが適当だろう。
「法令や基準を遵守する」というのは、日本社会の不文律であり、安全な日本を作っている基幹的な道徳だ。
それを、「拘る」という用語を使うのは不見識である。
法令や基準を守りたくない人が、法令を守ろうとしている人を、非難してはいけない。
まして、新聞の社説だから、見識が無い。
第三点は、
「人間は宇宙や大地から放射線を浴びて生活している。病院のCT検査では、1回の被曝線量が約8ミリ・シーベルトになることがある」
としていることだ。
被曝量は「足し算」なので、
1)自然からの放射線、
2)医療用放射線、
3)大気中核実験の放射線、
4)原発などの放射線、
からの被曝を合計して、平均的に1年5ミリになるようにしており、
その中で、4)が1年1ミリであり、「並列で比較できる」というものではない。
医療用被曝が多い、と言うことを強調しているが、CTなどで被曝する場合、
「自分の健康を守るという利益」と「CTで被曝する損害」を比較して、利益が上回れば実施する、という関所がある。
これは、「正当化の原理」といって、専門家ならすべての人が知っているので、読売の論説委員は、よほどたちの悪い専門家に聞いたに違いない。
命を守るために、患者の足の切断手術が許されるから、他人の足を切断してよい、という論理だ。
比較してはいけないことを比較して、素人を騙す手法だから、これは、新聞社としては謝罪するべきだろう。
次に、
「専門家は、広島と長崎の被爆者に対する追跡調査の結果、積算線量が100ミリ・シーベルト以下の被曝では、がんとの因果関係は認められていないと指摘する。
政府は、放射能の正しい情報を周知していくことが大切だ」
というくだりだが、一生の積算線量は100ミリが限度で、人間はおよそ100才ぐらい生きるので、1年1ミリという限度が決まっている意味もある。
これは、毒物などの摂取の基準の常識で、「将来は被曝しないだろう」という推定はしてはいけない。
もしするなら、一人一人の被曝管理をしなければならない。
最後の文章、
「政府は・・・」は、もしこの通りにしたら、「政府は、自ら決めていた1年1ミリという被曝限度は正しくなかった」としなければならない。
これまでの基準は、人間の叡智を結集して、1年1ミリと決めていたのだから、
それを超える知識を持っているとすると、読売新聞の論説委員は、神になったようだ。
おそらく論説委員は、「健康よりお金」、「他人が病気になっても俺は大丈夫.東京に住んでいるから」ということだろう。
武田邦彦(平成25年9月13日)
【読売新聞社説の論評】
「『1ミリ・シーベルト』への拘りを捨てたい」とはなにか?
http://takedanet.com/files/yomiurironsetutdyno.368-(9:45).mp3
読売新聞が、2013年9月12日つけで、「『1ミリ・シーベルト』への拘りを捨てたい」という社説を出した。
その論旨は、
政府は、住民帰還の目安となる年間被曝ひばく線量を、「20ミリ・シーベルト以下」としている。
国際放射線防護委員会の提言に沿った数値だ。
その上で、長期的には 「年間1ミリ・シーベルト以下」に下げる方針だ。
しかし、住民の中には、直ちに1ミリ・シーベルト以下にするよう、拘(こだ)わる声が依然、少なくない。
人間は、宇宙や大地から、放射線を浴びて生活している。
病院のCT検査では、1回の被曝線量が、約8ミリ・シーベルトになることがある。
専門家は、広島と長崎の被爆者に対する追跡調査の結果、
積算線量が100ミリ・シーベルト以下の被曝では、がんとの因果関係は認められていない、と指摘する。
政府は、放射能の正しい情報を、周知していくことが大切だ。
としている。
社説だから、見解は見解として尊重しなければならないが、取材を基本とする新聞社としては、「事実誤認」が多すぎて、
「自分の意見を通すためには事実を曲げてもよい」としているので、一般人の意見としてはありうるが、大新聞の社説としては頂けない。
このぐらい事実を無視するなら、社説の最初に、「読売新聞は原発の再開を支持しているので、事実は無視します」と断った方がよい。
一つ一つ、検証しよう。
まず、
「政府は、住民帰還の目安となる年間被曝ひばく線量を「20ミリ・シーベルト以下」としている。国際放射線防護委員会の提言に沿った数値だ」
とあるが、ここは正しくは、次のように書かなければならない。
「日本では、事故時における最大の被曝量を、1年5ミリ(原子力安全委員会)としており、
また、事故時の発がん予想数についても規定している。
政府の決定は、日本国内の正式機関(安全委員会)の決定をないがしろにして、海外のNPO(任意団体で国際放射線防護委員会という名前を使っている)に従うのは、国民を無視したものだ」
第二に、
「しかし、住民の中には、直ちに1ミリ・シーベルト以下にするよう拘(こだ)わる声が依然、少なくない」
とある。
問題は「拘る」という用語だが、1年1ミリは日本の基準で、また、日本の一般人の被曝限度として、長く使われてきたものだから、
それを「尊重する」、という用語を使うのが適当だろう。
「法令や基準を遵守する」というのは、日本社会の不文律であり、安全な日本を作っている基幹的な道徳だ。
それを、「拘る」という用語を使うのは不見識である。
法令や基準を守りたくない人が、法令を守ろうとしている人を、非難してはいけない。
まして、新聞の社説だから、見識が無い。
第三点は、
「人間は宇宙や大地から放射線を浴びて生活している。病院のCT検査では、1回の被曝線量が約8ミリ・シーベルトになることがある」
としていることだ。
被曝量は「足し算」なので、
1)自然からの放射線、
2)医療用放射線、
3)大気中核実験の放射線、
4)原発などの放射線、
からの被曝を合計して、平均的に1年5ミリになるようにしており、
その中で、4)が1年1ミリであり、「並列で比較できる」というものではない。
医療用被曝が多い、と言うことを強調しているが、CTなどで被曝する場合、
「自分の健康を守るという利益」と「CTで被曝する損害」を比較して、利益が上回れば実施する、という関所がある。
これは、「正当化の原理」といって、専門家ならすべての人が知っているので、読売の論説委員は、よほどたちの悪い専門家に聞いたに違いない。
命を守るために、患者の足の切断手術が許されるから、他人の足を切断してよい、という論理だ。
比較してはいけないことを比較して、素人を騙す手法だから、これは、新聞社としては謝罪するべきだろう。
次に、
「専門家は、広島と長崎の被爆者に対する追跡調査の結果、積算線量が100ミリ・シーベルト以下の被曝では、がんとの因果関係は認められていないと指摘する。
政府は、放射能の正しい情報を周知していくことが大切だ」
というくだりだが、一生の積算線量は100ミリが限度で、人間はおよそ100才ぐらい生きるので、1年1ミリという限度が決まっている意味もある。
これは、毒物などの摂取の基準の常識で、「将来は被曝しないだろう」という推定はしてはいけない。
もしするなら、一人一人の被曝管理をしなければならない。
最後の文章、
「政府は・・・」は、もしこの通りにしたら、「政府は、自ら決めていた1年1ミリという被曝限度は正しくなかった」としなければならない。
これまでの基準は、人間の叡智を結集して、1年1ミリと決めていたのだから、
それを超える知識を持っているとすると、読売新聞の論説委員は、神になったようだ。
おそらく論説委員は、「健康よりお金」、「他人が病気になっても俺は大丈夫.東京に住んでいるから」ということだろう。
武田邦彦(平成25年9月13日)