ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

これだけは絶対間違いは起こさないなんてどうして云えるんだろう。間違ったらおしまいだというのに。

2013年09月24日 | 日本とわたし
字起こししました。

黒澤明監督の映画を、ちゃんと観はじめたのは、アメリカ人の旦那と一緒に暮らし始めてからのことでした。
それまでは、なんとなく敬遠していて、観るのは洋画ばっかり。
彼の作品として初めてみたのが『どですかでん』。
まだ幼かった息子たちと一緒に観た後、しばらく我が家では、「ど~ですかで~ん」という言葉が流行りました。

この、世界に名だたる監督が、原子力の脅威について、これほど長きに渡り、警鐘を鳴らし続けておられたことも知らなかったことに、
唖然としながら、反省の意味もこめて、字起こしさせてもらいました。

いつものことながら、パソコンの画面を、カメラ調整の仕方もわからないまま撮っているので、画像が非常~に悪いです。
ごめんなさい!



〝現代人への伝言〟
黒澤明 没後15年

制作・取材:平野貴人ディレクター

報道ステーション・スタジオ
古舘伊知郎キャスター:
この方からのメッセージです。
ご存知、黒澤明監督が旅立たれてから、15年ということになります。
あらためて、黒澤さん直筆のノートを見ていきますと、
ああ、長きに渡ってこのことについて黒澤さんは、ずっと考え続けていたんだなということを見つけ出しました。
こちらです。


福島・白河市 先月
避難してきた双葉町民の仮設住宅での、盆踊り風景

原発が爆発し 故郷から逃げ
祭りも無縁 暮らしてきた
今年3年ぶりに踊った


双葉町民の方:
楽しかった。やっぱりね、懐かしいから、皆ね。
良かったと思う。皆やっぱりそろってるのよね。
ねえおじさん、良かったよね、今日はね、最高だよね。

近くに住む(白河市民)熊田雅彦さん(67)。
避難してきた人と接し、ある映画と監督を思い出していた。

『死して15年。彼が生きていたら、何を語るだろう』


黒澤明監督作品
『夢』ー赤富士ー1990年公開の場面より

「噴火したのか、富士山が……大変だ」
「もっと大変だよ、あんた知らないの?発電所が爆発したんだよ、原子力の」
「あの発電所の原子炉は6つある。それがみんな、次から次へと爆発を起こしてるんだ」


これは、1990年に公開された黒澤明監督の映画『夢』の中の、赤富士という作品だ。
原発が爆発し、人々が逃げ惑う……黒澤明が見た夢を、映画化したものだ。

熊田さん(『夢』の制作主任)は、この映画の制作にたずさわっていた。


熊田氏:
これはね、夢のね、〝赤富士〟の三宅島で撮影した時ですね。
あの、逃げ惑う断崖絶壁の、そこの現場へ行く時に、黒澤さん、かなりもう足が弱ってたんですよ。
で、僕の肩に手を起きながら、歩いて行った時の写真ですね。


これは、黒澤監督が描いた絵。



黒澤監督 直筆画・岩波書店『夢』から

熊田氏:
群衆ですよね、逃げ惑う群衆です。
これが町並みですよね。
で、富士山があって、これが原発が爆発してる、異様な始まりですよね。
要するに、自分のイメージをスタッフに知らせるために描いているわけですから。
僕らはそれを見るわけですよ。
で、黒澤さんのイメージを「わぉ~これどうしよう?」って話になるわけですよ。


『夢』の撮影現場・1989年・黒澤明監督(当時78才)

原発が爆発し、逃げ惑う群衆役のエキストラに説明を行う、黒澤監督。


この時、78才。
撮影が行われたのは、1989年。

その22年後ー

福島第一原発・2011年3月・撮影:陸上自衛隊
「現在、一号機の全景について捉えております」
福島第一原発で、次々と爆発が起きた。

 
熊田氏:
一番恐れてる、黒澤さんが恐れてることが起きたっていうことなんですよね。
だから生きてたら……たまらない思いだったと思いますけどね、黒澤さんにとっては。


予言じみた『赤富士』という作品。
黒澤明は、なぜこの映画を撮ったのだろうか。


黒澤久雄さん(67)黒澤明監督の長男:
だから人間は……うちの父親は「変わんなくちゃいけない変わんなくちゃいけない、もっと変わんなくちゃいけない」と思って映画を作っていたけれども。

黒澤監督の長男、黒澤久雄さん。


黒澤久雄氏:
(父の中で)大きい位置を占めていました。
原発というより、原子力というものに対して。



埋もれていた、黒澤明直筆のノート。
初めてテレビで公開するそのページには、率直な思いが綴られていた。




『人間は間違いばかり起こしているのに、これだけは絶対間違いは起こさないなんて、どうして云えるんだろう。
それも、もし間違ったらおしまいだと云うのに、どうしてそんな事が云えるんだろう』
『高い木に登って、自分のまたがっている木の枝を、一生懸命切っている阿呆に似ているね』


黒澤久雄氏:
だから、愚かなんだよ、人間ってさ、大した動物じゃないんだよ。
だから、いっぱい失敗するわけよ。
だから、危ないものを持たしちゃいけないんだよ。
それを彼は、一番心配をしてて。


この心配は、いつから生まれたのか。

初期の作品から、黒澤映画に携わってきた、野上照代さん(86)。


質問者:
「黒澤さん、なんでこんな原発の問題やるの」って、誰か聞かなかったですか?

野上氏:
いやでも、それは、『生きものの記録』の時からのテーマですからね。
そういうのを問題にしないことを、恥と思うようなモラルはありますよね、あの人の場合やっぱり。


黒澤明が、原子力の問題に取り組み始めたのは、1950年代からだ。
最高傑作とも言われる『七人の侍』の翌年、当時45才の黒澤が撮ったのが、『生きものの記録』という作品だ。


『死ぬのはやむを得ん。
しかし、殺されるのはいやだ!
水爆と対決する生きものの叫び!』

ある老人が、水爆や放射能の脅威から逃れるために、全財産を投げ打ち、海外に移住しようとする話だ。

映画『生きものの記録』1955年東宝
監督:黒澤 明
脚本:橋本 忍
   小国英雄 
   黒澤 明 

老人:
「苦労する覚悟ならどこへでも行ける。みんな行ける。アマゾンでもいい」

町人:
「でもね、第一、ブラジルへ行こうがどこへ行こうが、水爆に対して絶対安全な場所なんて、地球の上にありゃしませんよ。
水爆400トンで、地球は丸焼けなんですよ。
しかもね、世界の水爆保有量は、もうとっくにそれを超えてるんだ」


老人の娘:
「何さ、あんたなんか偉そうに、口先ばっかり!
何にも本気で考えたことなんかないくせに。
お父さんはね、お父さんはひとりで考えて、考えて、みんなのことを心配してるのに、
自分のことしか考えないのはあんた達よ!」


この作品の背景には、昭和29年(1954年)、ビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験がある。
この時、日本の第五福竜丸も被ばくした。

多くの黒澤作品で、音楽を担当していた、早坂文雄さんが、このニュースに、
「こんな時代では、安心して仕事が出来ない」と言ったことがきっかけになり、黒澤明は、この映画の制作を決めた。



野上氏:
「死んだ後で、閻魔(えんま)様の前に行ったときに、言い訳ができる」
「僕たちは、こういう映画を作りましたって、言い訳ができるようなのを作ろう」
と、早坂さんと言ってた。


『生きものの記録』の共同脚本は、『羅生門』や『七人の侍』などを書いた、橋下忍さん(95才)が担当した。


質問者:
『生きものの記録』とかね、『赤富士』の原発爆発とかね、それを作ったのは、同じ年代を生きててね、分かる気しますか?

橋下氏:
まあ、当然じゃないかな。
むしろその、彼も戦争時代経験してるからね、その中で、一番嫌な部分だと思うから。


戦争時代を生き、原爆の恐ろしさを知っている黒澤明は、戦後も、人間が水爆実験などを繰り返すことに、憤っていたのだ。


橋本氏:
(黒澤監督は)「一番重要な問題には触れない」ということは言ってたね。

質問者:
人間が?

橋本氏:
うん、常に。


『生きものの記録』の台本に、黒澤監督からスタッフに向けられた言葉がある。


『大方の人はそれから眼をそむけている。問題があまりにも大きく恐ろしいからだ。
そこに、人間の弱さと愚かしさがあるのではないか』




映画より

「バカだなおめえ、つまらねえこと気に病みやがって。そんなこたぁ、総理大臣に任せときな」
「第一オッサン、水爆や放射能が怖かったら、地球から引っ越しなよ」



野上氏:
だから原発もそう、もうほんとに『生きものの記録』からずっと、普段でもそれは怒ってましたから


原爆と同様に、「原子力発電も、人の手に余る技術で、人はその問題から眼をそむけている」と、黒澤は考えていた

黒澤監督の直筆ノート(1985~86年)より
猿は火を使わない。
火は、自分達の手に負えないのを知ってるからだ。
ところが、人間は核を使い出した。
それが、自分達の手に負えないとは考えないらしい
火山の爆発が手に負えないのはわかっているのに、原子力発電所の爆発ならなんとかなると思ってるのはどうかと思うね
人間は猿より利巧かも知れないが、猿より思慮が足りないのもたしかだ。



映画『赤富士』より
「あの赤いのは…プルトニウム239。あれを吸い込むと、1000万分の1グラムでも癌になる。
黄色いのはストロンチウム90。あれが体の中に入ると、骨髄にたまり、白血病になる」


橋本氏:
『赤富士』が出たりなんかするけど、実際は放射能…放射能でみんな殺してしまうというのが、核の本質だから、
これはやっぱり〝怖い〟ということを超えた現実じゃないかね。


質問者:
それを、黒澤さんは、映画化しようとしたんですね?

放射能で巨大化したタンポポ

『夢』撮影現場より

橋本氏:
そう。
その通りに(世の中が)動いたら、終わりになるわけだよな。
だから、作品のたびに、原子力が顔を出してくるんじゃない。


映画『赤富士』より

「そりゃ、大人は十分生きたんだから、死んだっていいよ。
でも、この子たちはまだ、いくらも生きちゃいないんだよ」
「放射能に冒されて、死ぬのを待ってるなんて、生きてることにはならないよ」
「でもね、『原発は安全だ』『危険なのは操作のミスで、原発そのものに危険はない』『絶対ミスは犯さないから、問題はない』ってぬかしたやつら、許せない!」




黒澤明監督(当時81才):
要するに、人間というのは、幸せになる権利もあるし、幸せになることを望まなきゃいけないのにね、
不幸になるようなことばっかりやってるでしょ、それが一番問題だよね。
そのためにはどうしたらいいのか……。



黒澤明、死して15年。



スタジオ
古館キャスター:
冒頭に、古賀さん、双葉から避難されてきた方の、盆踊りの、熱い感じがこう、グウッときたんですけど、
あの方々の表情見てると、なんでしょやっぱりこう、自分は悪い事してないって思ってるところが人間(には)あって、
自分が自覚してないだけで、実は悪い事やっていて、罪を犯していて、
結果、福島から新潟から、電気をいっぱい送ってもらって、東京で暮らしてきたっていう、
結果黒澤さんがおっしゃっていることが、自分にガンガンガンガンこう、あんたも罪だからねって言われてる感じがすごくしたんですけどね。

元経産省官僚・古賀茂明氏:
そうですね、やっぱりあの、知らないっていうことも罪なのかなっていう気がしてくるんですよね。

古館キャスター:
いや、全く知らなかったってこう、振り返って言いますけど、それで免罪されるもんじゃないですしね。
もう終始一貫して、黒澤さんは、もちろんチェルノブイリの事も大きかったと思いますし、
また結果、こういうメッセージをですね、今にして思うと、ずっと書き続けられていらっしゃったということがわかったわけです。
どうだったでしょうか。


黒澤監督の直筆ノート(1985~86年)より

人間は間違いばかり起しているのに、
これだけは絶対間違いは起さないなんて
どうして云えるだろう。
それも、もし間違ったらおしまいだと云うのに、
どうしてそんな事が云えるんだろう。

高い木に登って、自分のまたがってる木の枝を
一生懸命切っている阿呆に似ているね。

猿は火を使わない。
火は自分達の手に負えない事を知ってるからだ。
ところが、人間は核を使い出した。
それが、自分達の手に負えないとは考えないらしい。
火山の爆発が手に負えないのわかっているのに
原子力発電所の爆発ならなんとかなると思ってるのは
どうかと思うね。

「原発は安全だ」
「危険なのは操作のミスで
原発そのものに危険はない」
「絶対ミスは犯さないから問題はない」
ってぬかした奴等許せない。

原子力発電が安全だなんて云っていた奴等は、
今、どうしてやがるんだろう。
そいつ等の顔が見たいね、全く!
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

13年ぶりの再会

2013年09月24日 | 友達とわたし
旦那が日本で英語を教えてた時の生徒、かほるちゃんが、ご両親と一緒に訪米するというメールが送られてきた。
かほるちゃんは旦那の、One of the favorite students で、13年半ぶりの再会となる。
我々が借りてた、その界隈ではピカイチのボロ屋と同じ通りに、かほるちゃんの家もあった。

のんきな夏が終わり、新しい生徒たちも含む、週6日のレッスン生活が始まり、
そこに、夏の間は全くはかどらなかった作曲を、なにがなんでも10月末までには仕上げにゃならんという現実。
さらにおまけに、毎日毎日、読んでおきたい記事や論文、観ておきたいビデオなどが多すぎて、時間がなんぼあっても足らん。

そんなわたしに、かほるちゃん一家は、すてきなタイムスリップと再会の喜びをプレゼントしてくれた。

メールのやりとりの仲介をしてくれた、かほるちゃんの元同級生の長男くんも合流して、なんでもめっちゃうまいピザ屋さんで再会!
かほるちゃん、会えて嬉しい言うて、ポロポロ涙流してるし……。
旦那もわたしも、え?かほるちゃん?思て、しげしげと、すっかり大人になったかほるちゃんと、小学生やった彼女とのギャップを埋めるのに必死やし。
いやいや、親はちょいとお年を召した程度の変化でも、小学生から大人になった子どもたちの変わりようっちゅうたらもう……。
町ですれ違てても絶対にわからん!

ピザを頬張りながら、なつかしい話に花が咲く。
同じ通りにあった大津中学校のこと、元住んでたボロ屋のこと、彼らも引っ越して、今はもうあそこでは暮らしてないこと、
理系の大学を出て、人の健康に関する血液の研究者を経て、今はガンの研究をしている彼女のこと、
数年前から、海外への出張が増えて、ここアメリカにも10回近く来ていたお父さんのこと、
働いている歯科医で、アメリカの健康保険事情の悪さから、日本でまとめて治療を受けてる人を知ってるお母さんのこと、
なによりも、互いの娘や息子が成長して、社会にしっかり根を張り、それぞれの道で貢献できていること、
話しても話しても、話は尽きない。

ピザ屋ではゆっくりお酒が飲めんからと、場所を変えて(行きたかったカフェは閉まってた!)、チョコレート&バーというお店に移り、
そこであらためて乾杯をした。

彼らが滞在する間のお天気は上々。
今日は、自由の女神とブルックリン大橋などを見学する予定やそうな。

これは、お土産にいただいた『緑寿庵清水』の金平糖。


なんでも、京都にある、金平糖専門の老舗やそうで、さっそく調べてみた。
ただ今、日本の食文化にうっとり魅入り中……。
『緑寿庵清水』

会えてほんとに嬉しかった。
来てくれてありがとう!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする