『吉田調書』を読んでいます。
朝日新聞の無料購読に申し込むと、誰でも読めます。
原発などというものを扱うには、あまりにも無理がある、管理能力も、もしもの場合の対処能力も持ち合わせていない管理会社と関係者たち。
その恐ろしいほどの無能っぷりが、吉田氏の言葉の中からにじみ出ています。
吉田氏の、何度も死んだという言葉に、それほどの恐怖と無念と恨みがこもっているのか。
けれども、彼がとにかく、残った68名と共に、文字通り必死になって踏ん張ってくださったおかげで、
日本はとりあえず、今も日本であり続けることができているのだなあと思います。
けれども、事故は3年経った今も、まったく収束に向かってはいません。
汚染は徐々に広がり、自然の循環で戻り、あちらこちらに濃縮して留まるのくり返しが続きます。
除染などという誤摩化しで、汚染を薄く広く移し、そこに人を呼び戻そうとしているような政府です。
故郷はやはり良いでしょうと、これまでのように、地震や津波が起こってからの復興と同じように頑張ればよいと錯覚をさせ、
狡猾に、人の情に訴えて、放射能汚染を生じさせた責任がある政府と電力会社、そして原発という不適格な物を推進した当事者たちに、
その責めの矛先が向かないように、バレないように、カネと権力と人脈をふんだんに使って、この3年間、向こうも必死に頑張っています。
この調書は、吉田氏の遺書です。
そして、原発というバケモノと、それに群がるニンゲンの殻を被ったヨクフカモノの正体を、露にしてくれた証明書だと思います。
これ以上、彼の死を無駄にしないためにも、日本の中から、本気の声を上げませんか。
コバジュンさんが、ニューヨーク・タイムズが報じた『吉田調書』についての記事を、翻訳してくださいました。
↓以下、転載はじめ
あの時、福島第一原発で、本当に起きていたこと
投稿日: 2014年5月28日 作成者: admin
福島第一原発の事故の真実を隠ぺいしたまま、原子炉の再稼働を推進する安倍政権。
全職員の10分の1以下の68名ではなく、720名全員で、事故収束作業に取り組むつもりだった吉田所長。
吉田所長が、大半の職員の『施設外避難』を把握した時点で、すべては手遅れになっていた。
マーティン・ファクラー / ニューヨークタイムズ 5月20日
3年前、福島第一原子力発電所の事故が、最も深刻な事態に陥っていたそのタイミングで、
東京電力の職員は持ち場に残り、何とか原子炉の制御が可能になるよう、努力を続けるよう命じられましたが、
パニックに陥ってしまった多数の職員が、持ち場を捨てて、避難してしまったことが明らかになりました。
日本を代表する新聞社が5月20日、この事実を明らかにしました。
朝日新聞はこの出来事について、2011年3月福島第一原発の事故発生以降、日本政府の調査チームによって行われた一連の聞き取り調査により、
当時所長を務めていた、吉田正夫氏の記述によるものである、としています。
朝日新聞社は、400ページに上る聴き取り調査の、筆記録のコピーを手に入れたことを明らかにしましたが、
この記録はこれまで、政府内の報告書に一部が記載されることはあっても、一般にすべてが公開されることはありませんでした。
現在、このコピーは、当時所長を務めていた吉田氏であればこそ残すことが出来た、事故の事実を伝える唯一の証拠です。
その吉田氏は、ガンが原因で、昨年58歳で亡くなりました。
吉田所長は、原子炉が過熱して、破滅的事態が眼前にあった当時、
原子炉が再び使えなくなることを恐れた、東京電力の本社の制止命令を振り切り、
独断で、原子炉に海水を注ぎ込み、事故のそれ以上の拡大を防いだ、数少ない本当のヒーローとして広く知られていました。
3月11日に、巨大地震と津波が、重要な冷却装置を完全に使えなくしてしまってから、4日後の15日、
福島第一原発は、まさに壊滅間際の様相を呈し、職員全体が恐慌状態に陥っていた事実を、この報告書は伝えています。
調査に対し、吉田所長は、結局、中間管理職を含む650人の職員が、福島第二原発に避難してしまったことを、明らかにしました。
原子炉建屋が爆発した原子炉では、まさに炉心のメルトダウンが始まろうとしていた段階で、
現場に残されたのは、吉田所長と、68名の職員だけであったのです。
この原子炉は、福島第一原発の事故において、最終的にメルトダウンを起こしたことが確認された、3基の原子炉のうちの1基でした。
この記述がもし本当であれば、
東京電力はこの日、必要最低限の人員を除き、職員の大部分を、『あらかじめ』あるいは『計画的に』避難させる措置を採り、
残された強い使命感を持った職員が、命を危険にさらしながら、事態が最悪の局面に陥るのを防いだという、
事故対応の全体像が違ってくることになります。
そして、北日本の広域を、放射性物質で汚染してしまった福島第一原子力発電所の事故について、
発生後3年が過ぎた現在ですらなお、日本政府と東京電力は、事故の全容を明らかにしていないことが明らかとなった事で、
新たな批判が寄せられることになるでしょう。
朝日新聞は記事中で、福島第一原発の事故後、停止していた国内の原子力発電所の再稼働を推進しようとしている一方、
福島第一原発の事故の記録全てを、公開しようとはしていない日本政府を、非難しました。
定例記者会見の席上、日本政府のスポークスマンを務める菅義偉官房長官は、朝日新聞の記事の正確さに、疑問を呈することはしませんでした。
菅官房長官は、
「吉田所長を始め、事故現場に居合わせた人々に行ったインタビューの筆記録は、公的に記録を残すために行ったのではないため公開しなかった」
と語りましたが、なぜそのような対応を採ったのかについては、説明しませんでした。
東京電力の広報担当の清水氏は、
「朝日新聞の記事には、ある重要な側面に関する記述が欠落している」と語りました。
すなわち、
「吉田所長は職員に対し、漠然とした表現で、「放射線量の低い」場所まで下がるように指示を出しており、
その場所には、10キロ離れた福島第2原子力発電所も含まれる」と語りました。
清水氏は、
「東京電力はこのような理由から、当時の職員の行動について、規律違反とは考えていない」と付け加えました。
朝日新聞側は、
「この記録は、2011年7月から11月にかけて、調査委員会が行った29時間以上にわたるインタビューに基づき、
吉田所長の発言を一語一語、正確に記録したものである」と伝えました。
「この筆記録は、その大分部分が、未だに公開されていない他の771人の聞き取り調査記録とともに、首相のオフィス内に保管されている」と朝日新聞は伝えています。
この筆記録の中で、吉田所長は、3月15日早朝に起きた爆発について、
「当初、2号機の原子炉格納容器が破裂してしまったのではないかと、その事を何よりも恐れた」と語っています。
もしそうなっていれば、莫大な量の放射性物質が、環境中に放出されていたはずでした。
しかし、
「発電所内に設置されていた放射線量の測定装置では、計測値の著しい上昇は無く、その事によって、格納容器が無事であることを確信できた」と語っています。
しかし午前6時42分、吉田所長は、放射線量の測定値について確信が持てるようになるまで、発電所内で、最も放射線量の低い場所で待機するよう、職員に対し指示を出しました。
吉田所長は聴き取り調査の中で、
「事故収束のための作業に、出来るだけ早く着手できるように、720人の職員をできるだけ手元に置いておきたかった」と語っています。
「指示があればすぐ持ち場に戻れるよう、職員は、福島第一原発の敷地内に留まってください」
吉田所長は、発電所内の会議システムの装置を使い、職員にこう呼びかけたことを憶えていました。
しかし、職員がとった行動は、その指示とは異なるものでした。
記録によれば、ある者は東京電力のバスを徴発し、ある者は自家用車に乗り、多くの職員が、福島第二原子力発電所に避難してしまったのでした。
吉田所長によれば、一部の人間は、午後になって福島第一原発の敷地内に戻ったものの、一時は、職員の90%が、敷地外に避難してしまったのです。
朝日新聞は、吉田所長が調査の中で、
「管理職ですら、あまりに多くの人間が避難してしまったことに驚き、福島第二原発に連絡を取って、そこにいた職員に対し、直ちに持ち場に戻るように命じました」と答えた、と伝えています。
「事実として、私は、第二原発まで避難するように指示はしていません」
吉田所長の発言は、このように記録されています。
「職員の大半が、第二原発まで避難したことを私が告げられた時点で、すべてはもう手遅れになってしまっていました」
http://www.nytimes.com/2014/05/21/world/asia/fukushima-workers-fled-plant-after-accident-despite-orders.html?_r=0
朝日新聞の無料購読に申し込むと、誰でも読めます。
原発などというものを扱うには、あまりにも無理がある、管理能力も、もしもの場合の対処能力も持ち合わせていない管理会社と関係者たち。
その恐ろしいほどの無能っぷりが、吉田氏の言葉の中からにじみ出ています。
吉田氏の、何度も死んだという言葉に、それほどの恐怖と無念と恨みがこもっているのか。
けれども、彼がとにかく、残った68名と共に、文字通り必死になって踏ん張ってくださったおかげで、
日本はとりあえず、今も日本であり続けることができているのだなあと思います。
けれども、事故は3年経った今も、まったく収束に向かってはいません。
汚染は徐々に広がり、自然の循環で戻り、あちらこちらに濃縮して留まるのくり返しが続きます。
除染などという誤摩化しで、汚染を薄く広く移し、そこに人を呼び戻そうとしているような政府です。
故郷はやはり良いでしょうと、これまでのように、地震や津波が起こってからの復興と同じように頑張ればよいと錯覚をさせ、
狡猾に、人の情に訴えて、放射能汚染を生じさせた責任がある政府と電力会社、そして原発という不適格な物を推進した当事者たちに、
その責めの矛先が向かないように、バレないように、カネと権力と人脈をふんだんに使って、この3年間、向こうも必死に頑張っています。
この調書は、吉田氏の遺書です。
そして、原発というバケモノと、それに群がるニンゲンの殻を被ったヨクフカモノの正体を、露にしてくれた証明書だと思います。
これ以上、彼の死を無駄にしないためにも、日本の中から、本気の声を上げませんか。
コバジュンさんが、ニューヨーク・タイムズが報じた『吉田調書』についての記事を、翻訳してくださいました。
↓以下、転載はじめ
あの時、福島第一原発で、本当に起きていたこと
投稿日: 2014年5月28日 作成者: admin
福島第一原発の事故の真実を隠ぺいしたまま、原子炉の再稼働を推進する安倍政権。
全職員の10分の1以下の68名ではなく、720名全員で、事故収束作業に取り組むつもりだった吉田所長。
吉田所長が、大半の職員の『施設外避難』を把握した時点で、すべては手遅れになっていた。
マーティン・ファクラー / ニューヨークタイムズ 5月20日
3年前、福島第一原子力発電所の事故が、最も深刻な事態に陥っていたそのタイミングで、
東京電力の職員は持ち場に残り、何とか原子炉の制御が可能になるよう、努力を続けるよう命じられましたが、
パニックに陥ってしまった多数の職員が、持ち場を捨てて、避難してしまったことが明らかになりました。
日本を代表する新聞社が5月20日、この事実を明らかにしました。
朝日新聞はこの出来事について、2011年3月福島第一原発の事故発生以降、日本政府の調査チームによって行われた一連の聞き取り調査により、
当時所長を務めていた、吉田正夫氏の記述によるものである、としています。
朝日新聞社は、400ページに上る聴き取り調査の、筆記録のコピーを手に入れたことを明らかにしましたが、
この記録はこれまで、政府内の報告書に一部が記載されることはあっても、一般にすべてが公開されることはありませんでした。
現在、このコピーは、当時所長を務めていた吉田氏であればこそ残すことが出来た、事故の事実を伝える唯一の証拠です。
その吉田氏は、ガンが原因で、昨年58歳で亡くなりました。
吉田所長は、原子炉が過熱して、破滅的事態が眼前にあった当時、
原子炉が再び使えなくなることを恐れた、東京電力の本社の制止命令を振り切り、
独断で、原子炉に海水を注ぎ込み、事故のそれ以上の拡大を防いだ、数少ない本当のヒーローとして広く知られていました。
3月11日に、巨大地震と津波が、重要な冷却装置を完全に使えなくしてしまってから、4日後の15日、
福島第一原発は、まさに壊滅間際の様相を呈し、職員全体が恐慌状態に陥っていた事実を、この報告書は伝えています。
調査に対し、吉田所長は、結局、中間管理職を含む650人の職員が、福島第二原発に避難してしまったことを、明らかにしました。
原子炉建屋が爆発した原子炉では、まさに炉心のメルトダウンが始まろうとしていた段階で、
現場に残されたのは、吉田所長と、68名の職員だけであったのです。
この原子炉は、福島第一原発の事故において、最終的にメルトダウンを起こしたことが確認された、3基の原子炉のうちの1基でした。
この記述がもし本当であれば、
東京電力はこの日、必要最低限の人員を除き、職員の大部分を、『あらかじめ』あるいは『計画的に』避難させる措置を採り、
残された強い使命感を持った職員が、命を危険にさらしながら、事態が最悪の局面に陥るのを防いだという、
事故対応の全体像が違ってくることになります。
そして、北日本の広域を、放射性物質で汚染してしまった福島第一原子力発電所の事故について、
発生後3年が過ぎた現在ですらなお、日本政府と東京電力は、事故の全容を明らかにしていないことが明らかとなった事で、
新たな批判が寄せられることになるでしょう。
朝日新聞は記事中で、福島第一原発の事故後、停止していた国内の原子力発電所の再稼働を推進しようとしている一方、
福島第一原発の事故の記録全てを、公開しようとはしていない日本政府を、非難しました。
定例記者会見の席上、日本政府のスポークスマンを務める菅義偉官房長官は、朝日新聞の記事の正確さに、疑問を呈することはしませんでした。
菅官房長官は、
「吉田所長を始め、事故現場に居合わせた人々に行ったインタビューの筆記録は、公的に記録を残すために行ったのではないため公開しなかった」
と語りましたが、なぜそのような対応を採ったのかについては、説明しませんでした。
東京電力の広報担当の清水氏は、
「朝日新聞の記事には、ある重要な側面に関する記述が欠落している」と語りました。
すなわち、
「吉田所長は職員に対し、漠然とした表現で、「放射線量の低い」場所まで下がるように指示を出しており、
その場所には、10キロ離れた福島第2原子力発電所も含まれる」と語りました。
清水氏は、
「東京電力はこのような理由から、当時の職員の行動について、規律違反とは考えていない」と付け加えました。
朝日新聞側は、
「この記録は、2011年7月から11月にかけて、調査委員会が行った29時間以上にわたるインタビューに基づき、
吉田所長の発言を一語一語、正確に記録したものである」と伝えました。
「この筆記録は、その大分部分が、未だに公開されていない他の771人の聞き取り調査記録とともに、首相のオフィス内に保管されている」と朝日新聞は伝えています。
この筆記録の中で、吉田所長は、3月15日早朝に起きた爆発について、
「当初、2号機の原子炉格納容器が破裂してしまったのではないかと、その事を何よりも恐れた」と語っています。
もしそうなっていれば、莫大な量の放射性物質が、環境中に放出されていたはずでした。
しかし、
「発電所内に設置されていた放射線量の測定装置では、計測値の著しい上昇は無く、その事によって、格納容器が無事であることを確信できた」と語っています。
しかし午前6時42分、吉田所長は、放射線量の測定値について確信が持てるようになるまで、発電所内で、最も放射線量の低い場所で待機するよう、職員に対し指示を出しました。
吉田所長は聴き取り調査の中で、
「事故収束のための作業に、出来るだけ早く着手できるように、720人の職員をできるだけ手元に置いておきたかった」と語っています。
「指示があればすぐ持ち場に戻れるよう、職員は、福島第一原発の敷地内に留まってください」
吉田所長は、発電所内の会議システムの装置を使い、職員にこう呼びかけたことを憶えていました。
しかし、職員がとった行動は、その指示とは異なるものでした。
記録によれば、ある者は東京電力のバスを徴発し、ある者は自家用車に乗り、多くの職員が、福島第二原子力発電所に避難してしまったのでした。
吉田所長によれば、一部の人間は、午後になって福島第一原発の敷地内に戻ったものの、一時は、職員の90%が、敷地外に避難してしまったのです。
朝日新聞は、吉田所長が調査の中で、
「管理職ですら、あまりに多くの人間が避難してしまったことに驚き、福島第二原発に連絡を取って、そこにいた職員に対し、直ちに持ち場に戻るように命じました」と答えた、と伝えています。
「事実として、私は、第二原発まで避難するように指示はしていません」
吉田所長の発言は、このように記録されています。
「職員の大半が、第二原発まで避難したことを私が告げられた時点で、すべてはもう手遅れになってしまっていました」
http://www.nytimes.com/2014/05/21/world/asia/fukushima-workers-fled-plant-after-accident-despite-orders.html?_r=0